講義題目:結婚観と離婚観の系譜と言説
(講義年 2006年度)
授業内容
90年代後半から現在にいたる日本において離婚理由の筆頭にあがるのは、「性格の不一致」になっている。性格不一致による離婚は許されていると近代で最初に主張したのは、17世紀イングランドの宗教詩人ジョン・ミルトンである。この350年近く前のオピニオン・リーダーは、性格不一致による離婚は聖書の言葉に従っているばかりか、多くの宗教家が支持し、また市民法(ローマ法)などからも導き出せることだと、四つものパンフレットを書いてあくことなく主張しつづけた。その主張は、たんに性格があわないので離婚というお手軽「離婚論者」という一派を生みだした。ミルトンが執筆しこの一派が認知されたのは、17世紀イングランドの内乱期のさなかのことであった。
内乱期にはホッブス『リバイアサン』が書かれ、人間が統治権力とどうかかわるのが正当であるのかが争点になってきた。この時期に、国王が適正な法手続をへて議会で裁判を受け、法に従って公開処刑されるという画期的事件があったことが教えるように、正統と目される統治権力そのものが別な新たな正統統治権力によって倒され、政体の乗り換えが起こっている。政体転換という文脈でいうなら、個人と統治権力とのかかわりが再考されるのは当然であった。
しかしその再考は政治の領域にかぎられず、実は家庭、宗教の領域でも起こっていた。とういうよりもすでに16世紀中葉から、政治・宗教・家庭のすべてがイングランドにおいては統治権力と被統治民という枠組みで捉える社会通念が確立していたから、政体転換は、宗教体制の転換、家庭における結婚の見直しへと連動していくのは自然の成り行きともいえるものであった。内乱期は一部の人々が新たな価値観を構築し、旧秩序から脱皮した新秩序を生活世界のなかに実現させうる可能性にあふれた時期であったのだ。ミルトンもそうした一部の人々であった。
しかしこうした新秩序の議論でもっとも問題になるのは、自説を展開するにあたって正典の字句解釈が私個人の偏見ではなく、普遍的な正論であることを相手に説得することであった。正論であるためには、自己を最終権威者と同調させ、自己の主張が最終権威者に裏づけられた解釈に沿うものであることを提示しなくてはならなかった。ここでいう正典とは、聖書、ローマ法、古典文学、イングランドの判例、宗教改革者の著作であり、最終権威者とは世界を創造したキリスト教の神のことである。
本講義では、1640年代前半の内乱期に書かれたミルトンの四つの離婚論を糸口として、ミルトンがなにを媒介にして自らを最終権威者として同化させ、離婚と結婚についてどういう姿が正当であり、またそれを主張するにあたって、正典をどういう地平で解釈することが正統とされたのかを探る。もちろんこの作業は、正典に直接あたり、彼の意見に反対する論者の文書を読み、私たち一人ひとりがまたミルトンの同時代人が、なにを媒介として最終権威者と同化し、どの地平で解釈するかということと切り離せない。したがってこの探求は、たんにミルトンが離婚と結婚をどう表象・再現前化させたのかという歴史事実の勉強ではなく、私たち一人ひとりの解釈の土台がどこにあるのか、最終権威者とのかかわりはどうするのかという、普段は隠れていてみえない正当・正統問題と接触することである。「気持ちが合わないから離婚する」というひと言がもつ重力は、今の私たちが考えているよりははるかに強く、日常的感情の鬱憤晴らし(カタルシス)の代替として歴史的に機能しえるのかという疑問が湧いてくる。
講義の中心テーマと進行順序は以下の通りである。
1. 夫婦愛とは近代の創造であった
2. 離婚はなぜ可能なのか
3. 離婚はなぜ許されないのか
4. 独身礼讃の根拠
5. 歴史のなかの離婚と同時代の離婚
6. 創造する交わりの虚焦点: 契約と抵抗権
7. 解釈という自己所有、権威という追認
なお問題との接触がミスマッチに終わらないために、講義といっても、ともに対話しながら考えていく形式で授業を進めていく。また講義の約3回ごとに内容理解を試す小テストをする。成績の評価は以下の基準にしたがっておこなう。授業出席(30%)、授業参加(35%)、quiz(35%)
なおこの講義のさらに細かい内容は以下のサイトにアクセスすること(2006年4月7日以降)。http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/~ssuzuki/ClassLecture/GraduateLecture.htm
◇教科書:上記のURL上の講義題目をクリックすると教科書ファイルがあるので、これを自分で展開・印刷すること。
◇参考書:日本語で読めるものに限定した。外国語の文献は講義の途中で随時紹介していく。
(1)原典:ジョン・ミルトン『離婚の教理と規律』(未来社)、ミルトン『四弦琴』(リーベル)
(2)歴史:マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
ロ−レンス・スト−ン『家族・性・結婚の社会史:1500年―1800年のイギリス』(勁草書房)
渋谷浩『ピューリタニズムの革命思想』(お茶の水書房)
(3)神学:大木英夫『ピューリタニズムの倫理思想』(新教出版)
金子晴勇『宗教改革の精神』(講談社学術文庫)
(4)思想:蓮實重彦『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』(講談社学術文庫)
ミッシェル・フーコー『知の考古学』(河出書房)