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彼は法学研究を復興した―アルドレア・アルチャートの墓像彫刻とルネッサンス・ローマ法学―『名古屋大学言語文化論集』15巻第1(1993) pp. 123-136.

 

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〔彼は法学を復興した%レーグム・ストゥディア・レスティトウィト%〕

−−アルドレア・アルチャートの墓像彫刻とルネッサンス・ローマ法学−−

 

要約:

これまで図像研究者によって幻の存在であったアルチャートの墓像彫刻が,パヴィーア大学内に現存することを示した。また,この巨大な彫刻像が当時の人文主義者墓像の伝統線上にあり,アルチャートの生涯や作品と密接な関係があることを論じた。

 

1.        パヴィーア大学の墓像彫刻

 コロンブスが学んだといわれるパヴィーア大学は、彼の生まれ故郷とされるジェノアからミラノに向かって東に約90キロ進んだ地点にある。この大学を有するパヴィーア市は、内陸の大都市ミラノからわずかに30キロ離れているにすぎず、ミラノと並ぶロンバルディーア地方の有数の都市である。パヴィーア大学は、ヨーロッパの大学のなかでも比較的古い創設で、1361年頃には神聖ローマ帝国皇帝カルル四世からいわば総合大学として認可されている。パヴィーアが中世にローマ法の学校を擁していたことからも想像がつくように、ヨーロッパ最古の大学に属するボローニャ大学と同様に法律学に強い大学であった。1400年前後に現在地に移転したパヴィーア大学は、今も当時のままの建物で残っている。大学正門横の壁に掲げられた立学を記載する14世紀の碑文(図1)は、大学の600年あまりの歴史を感じさせる。なかでも歴史の重みをとりわけ匂わせるのは、この大学の法学部の中庭(図2)である。教会建築に代表されるように、イタリアでは中世からの建物が容易に目につき、建物の形態ひとつとっても現代との時の隔たりを深く印象づけるものが少なくない。しかし、この中庭は別な意味で、時の流れを刻んでいる。図2からもわかるように、中庭を囲む二階立ての柱廊の壁面には、この学部で教えた有名教授(magister)たちの記念像が適当な間隔を保って、三十以上も埋めこまれている。創設当時からはじまり、今世紀に到るまでの教授像は、服装が変化し、講義風景は変わり、記念碑文字の内容も形も移り変わり、ミニチュアの学校教育博物館の色彩がある。

 これらの教授記念像のなかでも群を抜いてひときわ大きな像が、一階西側壁面中央にあるアンドレア・アルチャートの記念碑(図3)である。アルチャートが生まれたのは、コロブンスが新大陸に到着した1492年である。没年は、16世紀のまっただなか1550年である。この法学博士は、パヴィーア大学では1534年から36年、40-41年、47-50年までの間、講義を担当した。後に詳しく触れるが、アルチャートの名声は、ビュデ、ウルリッヒ・ザシといった法律学者たちと並んで、ローマ法の権威として他の群小の学者たちを圧倒していた。学内でもひときわ大きな記念像として安置されている理由が、うなずける。

 ところで、この像は中庭中央におかれた記念像(図2)とは異なって、記念碑と呼ぶのは正確ではない。なぜならアルチャートのこの像は、墓像彫刻だからである。【この墓像は、アルチャートの??にあたるフランシスコ・アルチャートが作ったものであった。そしてフランチェスコ自身も法律学者であった。】誤解されがちだが、アルチャートの墓は博士が没年に埋葬された聖ご公現教会にはない。★1 『パヴィーア教会史』によれば、修道院付きの教区教会であったこの教会は、1773年に放棄するように命ぜられ、1790年には完全閉鎖された。★2 そうした事情から、博士の墓像は73年から90年までの間に、大学の現在の場所に移動した。★3 したがって、大学のこの記念碑像は、れっきとした墓像彫刻なのである。

 ここおいて我々は、美術史の知識に多いに助けられて、アルチャートが典型的な人文主義者であったことを知ることになる。図4の墓像彫刻からある程度類推できるように、死者の像は、死体を入れた石棺の上蓋に横たわっているのが中世以来の伝統的なパターンである。この横臥像はジザーンとよばれ、生前の身分を示す衣服をまとい、死の直後の状態を写した等身大の彫像がもっとも普通であった。論旨を簡略化するために話をイタリアに限定すれば、この現象は、アルチャートの墓像が作られた16世紀でも、いくつかの例外を除いてほぼそのままあてはまる慣行である。★4 しかし、教会の聖職者ではなく、学問を糧とした人文主義者には、この規則はえてしてあてはまらない。彼らの像はそのほとんどが生きた姿で起立し(図5)、なかには学生たちに講義をする場面の墓像(図6)まである。★5 墓像彫刻には付き物の、死後の保護と救済を約束するキリストや守護聖人にかわって、学芸の神アポロや九柱のムーサイたちが登場する。しかも、こうした墓像に添えられる墓碑銘は、死によってその個人の生が断ち切られたことを示すのではなく、著作やそのほかの業績によってその人の生命がこの世において永遠に連続することを高らかに主張している。たとえば、「計り知れぬ歴史に永遠の記念碑[著作]を私は残す。/これらによって、クスピニアヌスはいつも生きる」といったたぐいである。★6 聖なるものによって魂が救われることではなく、優秀な仕事をすることで歴史のなかに足跡を残し、人々の記憶にいつまでも留まることにドライブがかかる。生前の美徳と悪徳を計量する最後の審判にびくびくするのではなく、生きている間にできるかぎり多くの業績を成し遂げ、それが知的サークルのなかでどれだけ高く評価されるかのほうに重心が移る。地上的業績→名声→不死という新たな思考回路が、禁欲的理性→天上中心→霊的栄光という中世に培われた様式にとってかわる。

 このような様式変化の中間段階を示しているのが、人文主義作家レオナルド・ブルーニーの墓像(図7−−1446-7年頃)である。ジザーンは横臥姿勢で、横たわる死者にはるか上から聖母子がやさしいまなざしを送っている。聖母子の存在と視線によって、この哲人政治家が天国に迎え入れられ、永遠の生命を獲得したことは保証されている。しかし、この人文主義者が死んでもなお手にしているのは、ロザリオでも聖書でもなく、自らの著作(『フィレンツェ人民の歴史』)であり、柩に刻まれているのは天使ではなくローマ神話の守護霊たちである。守護霊がかがげている銘板には、天上における至福ではなく、「ギリシアとローマのムーサイは涙を押さえることができなかった」という賛辞が述べられている。★7 地上での業績への賛美、この世が一つの才能を失うことへの悲しみが、天上に迎え入れられることと矛盾なく融合しているのである。

 そもそも人文主義者とは、古典古代に飽くことなき興味を抱き、それに人生をかけた碩学である。古典古代の文学や芸術を中心とした研究は、一方において雄弁で理性に裏打ちされた教養を身につけ、他方で権威への盲目的追従を許さない批判精神を体内に培った。そしてその結果として、自立した人間を数多く産み出した。これは、教会が支持する教理を理解することによって生まれる神への敬虔、伝統と儀式の蓄積によって個人の意志を圧倒し神へと従属させるローマ・カトリックの在り方とは、一見相反するかのように思える。たしかに、ごくおおまかにいっても、中世キリスト教は、人間は罪深い堕落した存在で、この世は一過性の場にすぎないから、死後に至福の天国で生きられるためにこの世で禁欲的生活に励めと教えていた。人間は神の恩寵にすがるよりほかない矮小化された地位であった。これにたいして、人文主義者の教祖的存在であるキケローは、「我々はみな人間と呼ばれている、だが、我々のうち、教養にふさわしい学問によって教養を身につけた人々だけが人間なのである」といっている。礎石から彫琢された像を作り出す鑿のように、精神的な修養はほっておけば粗削りの材で終わってしまう人間に磨きをかけ、人間が本来もってしかるべきな尊厳を刻み出す。ここではあきらかに、人間は、理性と自由意志とを行使することによって自立しうるようなイメージで捉えられていた。しかしだからといって、人文主義は中世の現世蔑視と恩寵重視に激しく対立したわけではなかった。「聖なるソクラテスよ、我らのために祈りたまえ」と唱え、それでいて新約聖書の翻訳をしたエラスムスの生き方からもわかるように、人文主義者にとっては、神の恩寵と人間の自由意志とは共働関係にあった。ルネッサンスの人文主義は、人間の尊厳をまず確保したうえで、そこに神を介入させ、人間とこの世のそれぞれの在り方を批判的な眼差しで眺めさせたのであった。エラスムスの痴愚神はいう−−「屍同然の梅干し婆さんたちが、口を開けば、『人生は楽しいわ』などと繰り返すのを拝見することくらいおもしろいことはありません」。これは<〔死を憶えよ%メメント・モリ%〕>のトポスではない。なぜなら、「このような狂気の沙汰におよびながらも楽しい生活を送るほうが、下世話に申すとおり、首をくくるために〔梁木%うつばり%〕を探しまわることよりも、ずっといいのではないか」と、痴愚神は考えているからである。

 もっとも、16世紀の宗教改革が引き起こした地殻変動の大きさからも想像できるように、この世紀の人文主義者にとっては、キリスト教が制度として糜爛化してみえていた形跡がある。キリスト教よりも、次々と遺物が発見されてその全体像の焦点が結んでいく偉大なる古代文化は、聖なるものとしてかなり魅力的だった。さきほど、人文主義者のジザーンが、目を開け生きた姿で直立するようになったと述べた。それは、人間の尊厳への強烈な意識に加えて、こうした<聖なる古典古代>(Sacrosancta Vetustas)の在り方の模倣だとも主張できる。なぜなら、生きている直立墓像こそ、パノフスキーが指摘しているように、古代ローマの墓像の特徴の一つだからである。★8 

 アルチャートは晩年に、教皇庁から顧問官にならないかという依頼を受ける。★9 アルチャートは、この依頼を断り、この時も含めて生涯ローマに行くことはなかった。そのアルチャート像は、図8からもわかるように、生きているかのように法学者のガウンをまとい、目をしっかりと開け、書物を持った姿で、直立している。あたかも今にも動き出しそうな姿である。墓像全体のどこにも、聖母子も復活のキリストもみあたらず、墓像の中央部分の墓碑(図9)にはアルチャートの生前の行為の偉大さがしっかりと銘記されている。その墓碑とは、「一連の学問を修了し、法学を古典古代の研かれた形に再興させた第一級の人」(QVI OMNIVM DOCTRINARUM/ ORBEM ABSOLVIT./ PRIMVS LEGVM STVDIA/ ANTIQVO, RESTITVIT / DECORI)。そして実は、この墓碑にある法学の復興者ということが、アルチャートがまさしく典型的な16世紀人文主義者であったことを裏づけているのだ。

 

2.        ローマ法の解釈学

 遍歴の人文主義者エラスムスはアルチャートを絶賛し、「弁論家のなかでももっとも有能な法学者、法学者のなかでももっとも優秀な弁論家」と述べている。★10 アルチャートの死を悼んで発刊された『葬儀演説』(#Oratio fvnebris in Fvnere D. Andreae Alciati#)には、「英雄アルチャート、すなわち法のもっとも偉大なる解釈者が倒れたとき、九柱のムーサイは亡んだ」といった賞賛の言葉もある。★11 アルチャートの名声と学識は、イタリアを離れて、ヨーロッパ西の極地イングランドにまで届いていた。ジョン・ミルトンは『四弦琴』(1645年)の離婚法にかんする箇所で、「並はずれた英知と学識を備えた人」として、アルチャートの著作から引用している。★12 アルチャートは基本的には法学者であった。墓碑の冒頭は、「ミラノ人、法学博士」(MEDILO. IVRICON)ではじまっている。さらにこの言葉に続いて、さきほど引用した「一連の学問を修了し、法学を古典古代の研かれた形に再興させた第一級の人」という言葉が続いている。

 【エラスムスが弁論家と法学者を並べて記述していることは、弁舌が巧みで同時に法律に精通していたということを指摘しているのではない。{Donald R. Kelley, #History, Law and the Human Sciences: Medieval and Renaissance Perspectives# (London: Variorum Reprints, 1984)

のどこかにあった}。また、アルチャートの講演に、このような平行記述がある。】

【法律家とは、思弁の哲学者である前に倫理に深くかかわり、現実生活を幸福で快適に送るために必要な実践的英知を提供する知識人であることが理想とされた。このような理念は「真実の哲学」(vera phiolosophia)とよばれ、ユステイニアヌスよりもさかのぼって、ウルピアヌスにすでにこのような指摘がなされている。{Donald R. Kelley, #History, Law and the Human Sciences: Medieval and Renaissance Perspectives# (London: Variorum Reprints, 1984)}】

 

 法学研究の権威の再興とはどういうことをさしているのだろうか。それには、アルチャートが務めたパヴィーア大学で、彼の死のおよそ一世紀前の1431年に起こった事件にさかのぼる必要がある。ミラノを中心としてパヴィーアを含めた地域をロンバルディアという。ロンバルディアを治めていたのは、ヴィスコンティ家であった。典型的なルネッサンス貴族にふさわしく、知識を愛するからでなく、知識を身につけていることが貴族にふさわしいからという理由で、ヴィスコンティの当主は何人もの人文主義者達を宮廷に招聘した。ミラノ宮廷と平行して、遍歴する優秀な人文主義者達を引き寄せたのは、14世紀からゆっくりとではあるが台頭してきたパヴィーア大学であった。同一の人物が時期を変えてミラノ宮廷付き学者兼教育係であったり、パヴィーア大学教授であったりした。そんな例が、『コンスタンティヌス寄進状偽書論』(1440年)で我々に知られている人文主義者ロレンツォ・ヴァラ(1407-57)である。ちなみにこの著作は、ローマ・カトリック教会が宗教の領域を越えて政治に干渉することが不当であることを文献学によって証明した。教会が教皇の世俗権を正統化する根拠は、古代ローマ皇帝コンスタンティヌスが、イタリアの広大な領土を教会に寄進したことを示す「寄進状」であった。ヴァラはこの書状のラテン語の用語法は皇帝時代のそれではなく、8世紀のものだと説明した。つまり、正統性を裏づける証拠文献は偽書だと解明したのだった。これは、皇帝時代の同時代文書を定本の形で比較的容易に手に入れることができる現代の我々には、簡単な証明作業に思えるかもしれない。しかし、人文主義が勃興したヴァラの時代は、古典古代の写本が発見されては話題になるということがくり返し起こったときだった。ヴァラがパヴィーアの教壇にたつ直前の1420年代のミラノは、キケロの『ブルトゥス』の写本などが発見されて大変な話題になっている。裏を返していえば、ひとつの作品の定本がぐらぐらと揺れ、発見された写本がいつ頃のものであるのかを同定化し、写本間の系譜図を作り、必要であるなら新たな定本を作るという、精密さと忍耐が要求される仕事が進んでいった時代であった。ヴァラの論文は、こういった作業の一環として誕生したものである。

 話を元に戻せば、『偽書論』出版の10年前、ヴァラはパヴィーア大学の修辞学教授として1430年に着任する。教授期間は、『偽書論』と同様に他者に対する批判によって終止符を打つ。法学者バルトーロ・デ・サッゾフェラート(1314-57)は、法学者の間でキケロよりも雄弁だと賞賛されているが、その著作は意味のない言葉で満ちあふれている−−こう、ヴァラは糾弾したのだった。一世紀前の法学者サッゾフェラートは、註解学派あるいは助言学派とよばれた強大な勢力をもつ法学の確立者であった。もう少し詳しくいうと、ローマ法をめぐる学問は、聖書解釈や教会法解釈と共通して、特定のものを聖典とし、聖典そのものの一言一句も変えずに各条文の要約、各節全体のまとめ、各条文間の関係や相互矛盾の調停、さらには語義の説明をすることにあった。【その手法は、刑事や民事の実生活レベルで次々と起こってくる訴訟に対処すべく作られた法律を<理性>(recta ratio)にもとづいて現実よりも一段階上の抽象概念レベルでまとめあげることにあった。もっとも<理性>もまた抽象的なものであって、いわば法律家個人個人の頭のなかにある。そのため、概念で法律を縛りあげるべくサッゾフェラートたちが具体的に行った作業は、市民法大全やその元になったさまざまな法典を引用することであった。彼らの用語を使っていえば、「学者たちの共通の意見」(opinio communis doctorum)をつきとめ、それを積み重ねることによって法律を一元的にまとめあげようとした。{??これは、ソフトな道徳・倫理を切り離して裁判官が機械的に判決を下す歪んだ法実証主義に陥りやすかった。}{Ian Maclean, #Interpretation and meaning in the Renaissance: The Case of Law# (Cambridge: Cambridge University Press , 1992) 17}】

註解学派の人々は、擬似定本の語句を不動のものとしてそのまま鵜呑みにし、法典内にある矛盾した陳述やちぐはぐな見解に統一を与えるという作業に従事した。もしこれが、十二表法のような比較的短いものであったら、その努力は少なくてすんだかもしれない。ところが、聖典は50巻15万行におよぶあの膨大なユスティニアヌス法典(『市民法大全』)であった。統一作業は大量の記憶力が要求される複雑な知的ゲームとなる。そしてもちろんここには、文献学上のスクリーンを通さないまま定本が確定し、いわば擬似定本が聖典とされるという誤謬も含まれている。ところで、彼らは、ユダヤ教のトサフィストのように、法典の規定や用語にかんする註解を本文の欄外に記載した。そのため、註釈学派(glossatores)とよばれるようになる。註釈学派の活動は、フランチェスコ・アッコルソの市民法大全のための『標準註釈』(Glossa Ordinaria, 1228年)として結実する。ローマ法研究がこのように条文の字句にこだわり言葉に拘泥する方向で進んでいったのは、確立ずみの様式からはずれることを極度に嫌い、カノンに忠実であることに喜びを感じる精神的構えがとくに強かったからであろう。解釈の可能性は開かれておりテキストは解釈者によって自己生産されうるという視点はなく、精神強迫症患者のように、これまで踏襲されてきたやり方−−条文間の相互参照、??−−に固執し、ある限られた体型の範囲内で精緻な分析が蓄積されていった。暗黙了解

{聖書研究も同じであったろう。}】

中世の典型的な精神様式のひとつといってもよい、「神は細部に宿る」という考え方が作用したからだろう。しかしそれよりもさらに大きな引き金となって註釈学の方向にローマ法研究を導いたのは、法典編纂を命じたユスティニアヌス自らが、法典にいっさいの解釈を加えてはならないと明記したからであった。

nemo neque eorum, qui in praesenti iuris peritiam habent, nec qui postea fuerint audeat commentarios isdem legisbus adnecter.

$現在、法律に携わっているものであれ、今後法律に携わろうとするものであれ、何人も本法典を解釈で縛り上げようとしてはならない。

 

 

少し正確にいえば、ユステイニアヌスの支配領域でなじみのあったギリシア語に法典のラテン語を逐語翻訳すること、条文を微細に説明するためにタイトルに註解を加えること、要約(paratitla)をすること

中の難解な箇所にとってはおそらくのギリシア語【{#Digesta# 48.10.I.13; Donald R. Kelley, "The Rise of Legal History in the Renaissance," #History and Theory# 9 (1970) 50-59.}】アッコルソも、そして『標準註釈』を聖典のように考えて註釈を蓄積していった問題の法学者サッゾフェラートも、皇帝の命令に比較的忠実に従った。

 

 

サッゾフェラートは、ヴァラの同時代人によって市民法の父、鑑として崇拝される重鎮であった。そのサッゾフェラートをヴァラは批判した。これは、パヴィーア大学法学部内で問題となり、ヴァラは前任者の人文主義者アントーニオ・ベッカデーリに匿われて難を逃れ、1433年に大学を辞職することになる。

 のちに『ラテン語の優雅さについて』を出版するヴァラは、そのタイトルからもすぐにわかるように註釈学派が洗練された古典語ではなく「犬のラテン」といってもよい奇妙に現代化されたラテン語を用いることを批判している。しかも、彼らは現実生活にかかわる法律を思弁の対象と誤解し、人間が社会生活を円滑に営めるために法が存在しているという法の運用面をすっかり忘却しているといって、批判する。ラテン語の稚拙さを指摘は註釈学派のスコラ的な態度への批判も含まれていたのだ。彼ら註釈学派−−正確には後期註釈学派−−は、市民法大全(#Digesta#)やそれに関係する法律書(『法学提要』(#Institutiones#)、『勅法彙纂』(#Codex#)、『新勅法』(#Novellae#))の註釈にこだわり、市民法大全が書かれた時代背景はおろか、市民法大全が抜粋している法学書の原典についてまったく注意をはらわなかった。歴史感覚の欠如と原典無視という研究態度は、ペトラルカ以来、註釈学派への批判の対象になっていた。★122{Donald R. Kelley, "The Rise of Legal History in the Renaissance," #History and Theory# 9 (1970): ????.}たとえば、ヴァラとほぼ同時代人のポリツィアーノ(1454-94)のいわゆるフレンツェ版市民法大全は、テキストに文献学のフィルターを通して、テキストを理解するという歴史的アプローチをとった例である。もう少し具体的にいうと、写字生によるものとは考えられない付加や削除がある写本を手に入れ、それを著者その人あるいは書記が書いた原典として同定化する。写本間で移動がある箇所にかんしては、この原典の記述を尊重するという方針に従う。「裁判権を与えられている代官は、裁判官を指名する権利を有する」という法典の条文は、「権利を有しない」という写本と齟齬をきたしていた。★13 註釈学派は、二通りの読みをそのまま認め、そこから生ずる法律上の問題に紙面を費やした。ところがポリツィアーノは、定本の「有する」という読みが文法に合致し法的にも意味をなしうることから、他の写本にある「有しない」という読みを認めない。

 では、パヴィーア大学教授アルチャートはヴァラやポリツィアーノなどのいわゆる<法律ヒューマニスト>legal humanistsに組みしたのだろうか。答えは否である。逆に、徹底的ともいえるほど彼らの手法を批判している。もちろんこれらの人文主義者と同様にアルチャートも人文主義者という名で括ることもできる。なぜなら、歴史感覚ひとつとりあげてみても、アルチャートは人文主義者と同じく『市民法』の原典にこだわり、彼らがまたこだわったったことを評価しているからである。いやそもそも、アルチャートの墓像と墓碑銘そのものがこの法学者が人文主義者であることを明言している。アルチャートにとって人文主義者がいらだたしかったのは、文法家ヴァラにも弁論家ポリツィアーノにも法律を学問として扱うだけの専門知識が欠けていたことにある。彼らが原典に戻って法律全体や一つ一つの条文をどのように解釈を下していくのか、その手法は文体の美しさや文法の整合性といった人文主義者がもっとも得意とする修辞学からの裁断であった。美などという直観にたよることは、註釈学派の洗礼を十分に受けたアルチャートにはあまりに恣意に走りすぎると考えられた。アルチャート自身次のような逸話をあげて、人文主義者の美への過度のこだわりを嘲笑している。

 アルチャートの友人の文法家が獣医の所に馬を連れていき診察してもらったが、獣医が請求する文書があまりにも奇妙で稚拙なラテン語だったので、その文法家は支払いを拒絶した。これはおかしいとアルチャートはいう。文法家の論理ではなく法律が、「文法の誤りは証拠を無効としない」(Grammatica mala no vitiat instrumentum)といっているではないかという。{Donald R. Kelley, "Renaissance Jurisprudence," #History and Theory# 9 (1970): 273.}そのような手法によって、ローマ法研究が最終的に美的芸術となってしまい学問scientiaではなくなってしまうことが許せなかった。古典ラテン語を駆使することは優雅であるかもしれないが、それはむしろ時代にあった言葉の使い方を無視する。それだけではない。時間が隔たるとともに歴史も変わるという人文主義の基本的な考え方を無視し思わぬ時代錯誤を生むと、アルチャートは考えた。

 また、アルチャートにとっては、ヴァッラの批判のほうこそ法律学者が努力を重ねて確立しつつあった法律の現実性を無化してしまうように思われた。たとえば、『偽書論』では寄進が虚偽であるから教皇領は無効になると単純に取り扱われているが、教皇領ははるか昔から長年にわたって事実上相続されてきた<取得時効>である。したがって、偽書だと指摘することと、現実の慣行を無視していわば<正義>を執行することとは、文法家や修辞家の行動としては正しいかもしれない。しかし、法律家プロとしては、かりにそれが偽書であっても<取得時効>が生きてくる。<取得時効>というのは、真実の権利状態とは相違する事実状態が一定の期間にわたって存続する場合に、その現状通りを真実の権利状態として取り扱う法律概念である。時効が必要な大きな理由のひとつは、もしもあるべき本来の権利状態に回復すると、長年にわたって継続してきた状態が覆され社会に大きな混乱が起こるからである。しかも教皇庁は偽書と知っていながら教皇領を1100年以上も占有してきたのではない。したがって、<正義>は貫徹していると考える。ところが、偽書と判明したからには、時効であろうとなかろうと権利はすみやかに放棄すべきであり、自分のものであるかのように振る舞うのは道義的に許されないといするのが、人文主義者の主張である。彼らは、明らかに理念と理想に忠実であろうとした。

しかも皮肉なことに、ポリツィアーノが正典としたフィレンツェ版は??世紀を経た1550年にアルチャートの弟子???によって必ずしも字句が正確でないことを指摘されその権威に大きな打撃を受ける。

こうしてみるとさきほど述べた、従来から考えられてきた図式はあまりにも単純であったことがわかるだろう。これまで喧伝されてきたように、ヴァラ/ポリツィアーノらの市民人文主義(civic humanism)たちが象牙の塔に毒された法律学者たちの牙城にメスをいれ、法律を再生させたという議論は、古くさいスコラ哲学が斬新な人文主義によってルネッサンスにはとって変わられ、スコラ哲学は

 

 

アルチャート学派(Alciatei)とよばれたブールジュ大学を中心とした法律学者の一人グレゴリー・ハロアンデルHaloanderは、ポリツィアーノが編集した『市民法大全』に多くの訂正を加えたばかりか、このフィレンツェ版大全はこの人文主義者が喧伝したようにビザンチン時代にユスティアヌス帝が発刊した原典ではないことを証明した。

 アルチャート学派は、実生活から剥離し思弁的で歴史意識の欠如したバルトーロ主義とは逆の方向に進み、現実の社会と市民法とを結びつけ、またその結合にあたっては、古代ローマと現在とは歴史的隔たりがあり制度も仕組みも慣習も異なっていることを十分に意識して、市民法のいわば字句ではなく精神を読み取っていった。また、修辞の支配する古代ローマを理想とし古典文法の立場から法律条文を決定しあからさまな正誤の色分けをする人文主義者の陥穽にはまりこまず、歴史の流れのなかで事実として受けとめられてきたことから生じる合法性に着目した。『ユスティアヌス法典』に規定されている言葉を、字句よりも精神で、過去と現在の混同よりも歴史の流れを重視するというのが、アルチャートの立場であった。{Alciato #Praetermissa# VII, 19 Donald R. Kelley, "The Rise of Legal History in the Renaissance," #History and Theory# 9 (1970): 182.}

 もう少し具体的にいえば、アルチャートは、四つの理解方法を用いて法の条文がさししめようとしている意味内容を決定した。条文の一語一語の文字通りの意味から出発してその条文全体の意味を言いあてるまでの間に、四つのステップを考えたのだった。★133まず第一段階は、<特性>proprietasをえぐりだすことであった。「言葉の名称ではなく意味の力、語ではなく言葉が孕んでいる概念」をつかむという<特性>は、言葉がもっているさまざまな度合の抽象度がどの位置にあるかを決める役割もさしている。

Donald R. Kelley, "Renaissance Jurisprudence," #History and Theory# 9 (1970): 273.

次の段階はこの逆の<不特性>proprietasで、ある意味内容をいいあらわすのにその内容にふさわしい言葉を用いずわざわざ他の言葉を用いるときをいう。これは、現在でも、本質や性質の点で異なる二つ以上のものを同一のものとして法律上は扱う擬制やtemporary relationshipsについていえることである。

第三番目は、法律に直接かかわる専門語ではないが、<慣習>ususとして用いられ法のように有効な取り決めをさす。

最後が<解釈>interpretatioである。一方で註釈学派がつけた膨大な量の条文への意見に閉口しながら、

 

 

 

 註釈学派の研究態度が人文主義者によって否定され、否定した人文主義者の手法を法律学者アルチャートが批判するという流れは、註解からテキスト批評へ、修辞から体系哲学へという方向にむかっていった。

<真理の哲学>vera philosophica

理性重視

 

 

 

 

3.        法律家のエンブレム

 このような原典再構成が必要と考えられた理由には、いわば註釈による原典改竄のほかに、もう一つの改竄への強烈な意識が芽生えたことにある。ユスティニアヌス帝が法を整理し集大成するために、古典期の法学者の著作から抜粋して法典編纂を命じたとき、ひとつの条件をつけた。それは、「不必要あるいは不完全、あるいはあまり適当でない」と思われる箇所は手を加えてよいという命令である。できあがった法典は、材源は銘記してあっても原典のそのままの引用ではなく、編纂者による加筆と削除が加わった抜粋で作り上げられることになった。この改竄は、編纂者40人のうちでも中心人物であったトリボニアーヌスの名にちなんで、「トリボニアーヌスのエンブレム」(#emblemata Triboniani#)とよばれている。★14 この改竄を発見し、市民法大全が完成したビザンチン世界から離陸して、古典本来の姿に戻り、一つ一つの法を解釈するという態度が生まれた。このテキスト批評の先鞭をつけたたのはさきほど述べたヴァラであるが、飽くことなく批評にこだわったのが、アルチャートがローマ法教授を勤めたブルージュ大学を中心とする法学者グループであった。アルチャートの直接の教え子であり、歴史家ギボンも賞賛している法学者フランソワ・オトマン(1524-90)は次のように述べている。

 

       

        [古典]文学によって人間は目と心が開かれてからというもの、トリボニアーヌスは条文に言葉を数語加えたことはもちろん、一節sectionまるごと挿入している。たとえば「法の起源について」の節がその例で、ポンポニウスからの引用となっているが、誰がみてもこれはトリボニアーヌスが加筆したものである。

        {Donald R. Kelley, "The Rise of Legal History in the Renaissance," #History and Theory# 9 (1970): 180.}

 

トリボニアヌスは古いローマ法をビザンチン時代の慣習や制度に適合させようとするあまり、倒立した時代錯誤が起こり、条文の中にさまざまな矛盾を抱えこむことになってしまった。加筆部分を類推という猟犬の鋭い嗅覚を用いて捜し当て、歴史を緻密に調べあげることによって原文を目の前に復活させるという気の遠くなるような作業がおこなれた。

 このような解釈方法は、ローマ法を実地で用いることが少なかったフランスで盛んになる。オトマンのほかにも、クヤキウス(1522-90)、ボードゥアン(???)などアルチャートの〔錚々%そうそう%〕たる弟子たちが、この立場からローマ法や歴史にかんする大部の著作をあらわしていく。このグループは、<フランス風>(mos gallicus)とよばれ、註釈学派の<イタリア風>(mos italicus)と対立することになる。★15 権威への盲従でなく古典に直接帰ることをめざしたフランス風のなかでも、<三人集>(triumvirate)とあだ名された学者がいた。★16 フランスのギヨーム・ビュデ(1468-1540年)、ドイツのウルリッヒ・ザシ(1461-1535年)、そしてイタリアのアンドレア・アルチャート(1492-1550年)である。アルチャートが、フランスのブールジュ大学で講義をしたときの弟子たちが、フランス風を形成する中核となって育っていく。だから、三人のなかでもっとも若いアルチャートは、フランス風の育成者といってよい。

 若きアルチャートの略歴を追ってみると、15歳になる1507年から正式に法律を専攻し、三年間はパヴィーア大学で、それに続いて四年間ボローニャ大学で学んだ。卒業後まもなくして、23歳になる1515年に『ユスティニアヌスの「勅法彙纂」の最後の三巻に対する註解』(#Annotationes in Tres Posteriores Libros Codicis Justiniani#)と『「市民法大全」におけるギリシア語陳述のほとんどすべての箇所が原状回復してある小作品』(#Opusculum quo Graecae Dictiones fere ubique in Digestis restituuntur#)を出版する。前者は、これまで誰も使ったことのない法律書『評価された知識』(#Notitia dignitatum#)と『法律のギリシア的解釈者』(#Graecus Legum Interpres#)という最古の写本を用いながら、『勅法彙纂』の本文校訂をし、註解を加えた著作である。後者は、タイトルからもすぐにわかるように、大全の成立期と中世において起こった二重の改竄から古典本来の姿に法文を戻すという作業である。アルチャートは、この二作を契機にして、次々とローマ法にかんする著作を出版していく。ざっと主なものを拾っただけでも、擬制を論じた『推定の黄金論説』(#Aureus Praesvmptionum Tractatus#, 1542)、法全般にわたって自らの見解を述べた『法の〔副業%パレルゴーン%〕』(#Παρεργων Juris#, 1554年、改訂版58年)などである。そしてなかでもトリボニアーヌスのエンブレムに根幹からもっとも深くかかわる本が、『用語の意味について』(#De Verborum Significatione#, 1530)である。

 先達の法学者とその業績にたいして深く敬意を表したユスティニアヌス帝は、法典にそれらの学者達の名前を銘記し、同時に、学者達の解釈を転載した『市民法大全』にあっては、節のタイトルや要約を付け加えることは許してもいっさい解釈や批評を加えてはならないという命令を出していた。その厳命に註釈学派は呪縛され、アックルシウスなどは、条文間の内容の相互矛盾はもちろんトリボニアーヌスの改竄にも気づいていたが、かなり執拗に要約・相互参照の領域に留まっていた。{Donald R. Kelley, "Clio and the Lawyers: Forms of Historical Consciouness in Medieval Jurisprudence," #Medievalia et Humanistica# 5 (1974): 30.}ところが、当のユスティニアヌス自身、古代にたいする尊敬にもかかわらず、自分の生きている時代の現実と適合しない先達の条文解釈を「旧法」として受け入れる必要が必ずしもないものとして処理し、時代にふさわしい「新法」jus novumを作り上げていれていった。解釈否定の命令は、ユスティニアヌス法典が以後とぎれることなく普遍法として用いられること願ってのことであった。

この点に注目してあえて禁令を犯したのが、<フランス学派>であった。この学派は註釈学派のようにローマ法を世界のどの地域にもほとんど無条件に適応可能だという普遍主義はとらなかった。各国の違いを意識しその相違を同一の基盤に練り上げて国家間の調停をはかる国際法や、それぞれの国が独自に発展させてきた慣習法や封建法を尊重していた。【二つの学派が対立関係にあることはいうまでもないが、国籍のように学者はどちらかに所属したというわけではなく、一人の人物が両派の手法を取り入れるということもあった。たとえばドイツの法学者ニコラウス・レウスネルは、註釈学派がしたがってきた分類方法を捨ててラミュー主義の枝型二分法を採用したが、法律学についての具体的な論究になると註釈学派の手法とフランス風の判断とが混在している。これはアルチャート自身についてもあてはまることであって、{Kelleyが指摘していた}??】そこでこのグループの学者がどうしても忘れることができなかったのは、「法は変わる」ということであった。風土や時代をパラメータとすると、法の条文という定式は、結果としてもつ値をパラメータにあわせて変化させていかなけば、式としての存在理由も意味も消し飛んでしまうということであった。

 さらにもう一つつけ加えなくてはならないことは、解釈を下してはならないという勅令は法律家をともすれば二重呪縛状態に陥れてしまうことにもなりかねなかった。「もし法律にありとあらゆることが書いてあるなら、法律家が判断をくだす余地などなくなってしまう」(Ian Maclean, #Interpretation and meaning in the Renaissance: The Case of Law# (Cambridge: Cambridge University Press , 1992) 28)。この<フランス学派>のひとりであるアレッサンドロ・トゥラミーニの指摘は、条文という言葉からなる言説空間と実際の生活で起こるひとつひとつの出来事とのあいだには一対一の対応関係が成立しているのではなく、倫理、論理、情状などが介在する余地があることを言及している。条文は解釈に向かって開かれた空間を提供しているのだ。

そこで一番最初に問題になるのが、条文で用いられている言葉がどのような意味をもっているかや、条文にもとづいて裁定を下すときに基準とされる平衡・慣習力などの抽象的な意味合いであった。アルチャートはもちろんのこと、このグループの人々はいちように「言葉の意味について」大いにこだわりをもった。

 

 

 

条文の解釈にあたっては、これまでのように条文を中央において、条文を守護するかのように条文の周囲をぐるりと註釈が取り囲むことがしだいしだいに少なくなっていく。かわりにテキストは地の文のなかに埋め込まれ、どのテキストであるかを示す省略形とその章節番号が与えられるか、条文そのものが斜体文字で明示されるかしているだけだった。

解釈にあたっては、ホラティウスなどの古典作家からの引用もされるようになる。{Ian Maclean, #Interpretation and meaning in the Renaissance: The Case of Law# (Cambridge: Cambridge University Press , 1992) 38}

 

 

 

このような業績に比例して、アルチャートの名声は高まり、パヴィーア大学をはじめとして、ミラノ、アヴィニョン、ブールジュ大学、ボローニャ大学などに招かれて、法律学を講じる。晩年のパヴィーアでは、「世界中からの大勢の学者がアルチャートを囲んで、絶えず出入りしていた」という。★17 

 フランス風の<三人集>の国籍をみてもわかるように、アルチャートだけがイタリア人である。この学者は、註釈学派が圧倒的に強かったイタリアにおいて、ローマ法への画期的な接近法を開示した第一級の人だったのである。こうしてみると、墓像に向かって右肩上段にあって、祈るように手を組んでいる擬人像(図10)が生きてくる。この像は、アルチャート自身がブルージュ大学に教授として招聘されたときブルージュで行った講演なかで言及している<法>の姿にぴったり一致しているからである。

 

 

 

 

この像がわざわざ古代ローマの衣装を着ている理由がうなずける。そしてここまでくれば、墓碑にある「法学の再興」とは人文主義の批判精神にのっとった古典古代へ回帰をさしていることは、十分に明らかであろう。

 

 

4.        人文主義による清火

 しかし、エラスムスはアルチャートを評して、「この時代にあって、市民法だけでなく、あらゆる学問の精華」と述べている。「一連の学問」といったとき、スコラ七学芸すべてを修めたということでもなければ、法学博士に必要な課程を修めたという意味でもない。古典古代の知識に造形が深いというのがその第一義である。それを示しているのが、向かって右側の二枚の彫刻である。図@は、銘が磨滅してしまい読めないが、竪琴を奏でる神アポロとそれぞれ独自の持物を手にしている九人のムーサィである。これらの神々は、木立をいただいた丘の頂上にいることから、パルナッソスにいることはまちがいない。とすると、ホメロス、ウェルギリウス、ダンテを描きこんだ同様の構図をもつラファエルロの同名の壁画(図@)から容易に類推できるように、このレリーフは学芸を礼賛し、アルチャートの著名な人文主義者としての評価をあらわしている。この推測が誤りでないのは、内容が法律学にのみかかわる『用語の意味について』の表紙絵(図@)にも同じように九柱のムーサイが大きく描かれていることである。

 

アリストテレス  プラトン                         ソロモン王                               ソクラテス        ピタゴラス

ホメーロス      ヘシオドス                                                                                        アリステデス    デモステネス

エウリピデス    アリストファネス                                                         ルキアヌス        PIVTABUCHUS

テオクリトス    ピンダロス                                                                               キケロ  クインティリアーヌス

ウェルギリウス  ホラティウス                                                                     プリニウス      ゲリウス

オヴィディウス  ルクレティウス                                                                   リウィウス      サルスティウス

 

                                                                                 ホメロス

 

 

現に、アルチャートの特徴は、法律の条文や条文で用いられている用語を説明するにあたって、ホラティウスやウェルギリウスなど古典文学作品も引用したという点で、註釈学派とは決定的に異なっていたのである{Ian Maclean, #Interpretation and meaning in the Renaissance: The Case of Law# (Cambridge: Cambridge University Press , 1992)}。

 

古典の造詣の深かったアルチャートは、だからといって自著の文学作品を残しているわけではない。文学に関係してものとしては、『ギリシア詞華集』の抜粋ラテン語訳、タキトゥスの本文のなかから関心のある部分を各節ごとに順番に抜き出してつけた註釈、そして『エンブレーマタ』があるにすぎない。実は、『エンブレーマタ』の初版と現在は考えられている31年版のエンブレムのうち約三分の一が『詞華集』のなかから採られたものである。★17

{ムーサイの絵ばかりか古典の詩人だけを取り上げる理由はいったいどこにあるのだろうか。}

 

そして実際に、このレリーフの下にある意匠(図6)は、『エンブレーマタ』の三番目の解説詩を図像化したものにほかならない。そこでは、

 

        オオシカが、その蹄でアルキアトゥス家のモットー、

         「何事をも先に延ばすな」を持ち上げている。

 

と述べられ、これはまさしくオオシカが図6でしていることである。ちなみに解説詩のなかでモットーとして述べられているのは、ギリシア語ΜΗΔΕΝ ΑΝΑΒΑΛΛΟΜΕΝΟΣで、レリーフのそれと合致している。

 

 マニエリスムからバロックにかけてヨーロッパの知識人たちを刺激してやまなかった新しい文芸の領域に、エンブレムがある。エンブレムというのは、別稿でもふれたように、格言と格言に付けられた解説詩、解説詩を図絵化したものの三つの要素を一単位として、それを複数集めたものをワンセットとする文学作品である。この新文芸を開拓したのが、法学博士アルチャートであった。エンブレムの嚆矢となった書物が、『エンブレーマタ』(??年)である。この本は、アルチャートが専門とした民法の著作全体からすれば、ページ上で換算してもわずか??数分の一にすぎない【バーゼルで1582年に出版されたアルチャートの全著作集(#Opera omnia#)は、四巻すべてあわせて??ページに及んでいる。ところが、単独で出版された『エンブレーマタ』は??ページにすぎない。】。

 

 また、この像の下にあるレリーフは、カドゥケウス(ヘルメスの杖)とコルヌコピア(豊穣の角)を組みあせた意匠になっている。周囲に記載されているギリシア語の銘文は、「正しき人の果実は、滅びない」(ΑΝΔΡΟΣ/ ΔΙΚΑΙΟΥ/ ΚΑΡΠΟΣ/ ΟΥΚ/ ΑΠΟΛ/ ΑΥΤΑΙ)とある。この言葉も図絵も、実は『エンブレーマタ』(118番)にあり、強靭な精神の象徴となっている。

 

●アルチャートがエンブレムを書いた理由は、物が象徴する機能をもつことにあった。しかし極めて皮肉なことに、この墓像彫刻は大学教師アルチャートの姿をそのまま写したようにみえる。彫像がその人の職業の姿で残されるというのはめずらしいことでなかった。しかし、ほとんどかならずといってよいほど、そこには銘が残されていた。ベルニーニの「ウルバヌス」

 

 

●ミラノの歴史(Cohrane)と墓像の右側の図

 

 

 

●結論

墓像そのものが書物の扉のように、その内容を開示する目次の働きをしている。

 

 

5.        エンブレムと法学者{%アルチャート\用語}

 エンブレムという言葉が当時どのような意味で使われていたかは、

 

 

法学との関連で使われていたことを忘れてはならない。

実際に法学者がほとんどであった。

Reusner

Donald R. Kelley, "The Rise of Legal History in the Renaissance," #History and Theory# 9 (1970): 181.}

 

 

 

 


 

1 たとえば、ヴァージニア・キャラハンによるもっとも最新のアルチャートの略伝には、次のように述べられている。「アルチャートはパヴィーアの聖ご公現教会に埋葬された。法学部中庭にある記念碑には、アルチャートの『エンブレム集』からの二枚の図案レリーフがある」。ちなみに、この略伝は、『アルチャートの「エンブレム」の索引』にいわば付録の形で添えられたものであるため、伝記としてはきわめて簡略で、しかも『エンブレム』出版経緯が中心である。そのため、アルチャートの全体像を記した伝記とは到底いえない。Peter M. Daly, #Andreas Alciatus: 1 The Latin Emblems, Indexes and Lists# (Toronto: Univ. of Toronto Press, 1985) , n. pag..

2 P. Rodolfo Maiocchi, #Le Chiese di Pavia# (Pavia: Tipografia Artifianelli, 1903), i. 255-256.

3 Henry Green, #Andrea Aliciati and His Books of Emblems# (1872; rpt. New York: B. Franklin, n. d.), p. 286. この推測は、グリーンが1871年にパヴィーア大学図書館主任から書簡の形で得た情報である。

4 ちなみに、「生前の姿[ジザーン]をあらわす墓像彫刻が起き出した」ことがルネッサンスに普遍的な特徴という主張は、少なくともイタリア・ルネッサンスの墓像彫刻にはあてはまらない。これは、次書の303-318, 397-99, 405-407の図版から裏づけることができる。Erwin Panofsky, #Tomb Sculpture# (1964; rpt. New York: Harry N. Abrams, 1992)。参照 鯖田豊之『生と死の思想』(朝日新聞社,1982年)44ページ。

5 Panofsky, p. 69およびfig. 281。

6 Michael Levey, #High Renaissance# (Harmondsworth, Penguin, 1975), p. 106.

7 MUSAS TVM GRAECAS TVM LATINAS LACRIMAS TENERE NON POTVESE. この墓像そのものについての比較的詳しい解説は、次書参照。Michael Levey, #Early Renaissance# (Harmondsworth, Penguin, 1967), pp.57-9.

8 Panofsky, pp. 69-70.

9 "Alciato, Andrea," #Dizionario Biografico degli Italiani# 1960 ed.

10 Gennaro Savarese ed Andrea Gareffi, #La Letterature delle Immagini del Cinquecento# (Roma: Bulzoni, 1980), p. 114.

11 Green, p. 27.

12 #Tetrachordon# in #Complete Prose Works of John Milton#, Vol. II, Gen. ed. Ernest Sirluck (New Haven: Yale  Univ. Press, 1959), 714.

122 Petrach, #Letters from Petrach# , trans. Morris Bishop (Bloomington: Univ. of Indi. ??North Calorina, 1966), 166-170; Donald R. Kelley, "The Rise of Legal History in the Renaissance," #History and Theory# 9 (1970): 177.

13 "Digesta," #The Oxford Classical Dictionary# 1970 ed.

133 #De Verborum Significatione# (Pavia, 1530),  5.

 

14 Anthony Grafton, "Quattrocento Humanism and Classical Scholarship," #Renaissance Humanism#, Vol. III, ed. Albert Rabil, Jr. (Philadelphia: Univ. of Pennsylvania, 1988) 39-40.

15 Richard J. Shoeck, "Humanism and Jurisprudence," #Renaissance Humanism#, Vol. III, ed. Albert Rabil, Jr. (Philadelphia: Univ. of Pennsylvania, 1988) 313; Steven Rowan, #Ulrich Zasius: A Jurist in the German Renaissance, 1461-1535# (Frankfurt am Main: Vittorio Klosternmann, 1987), pp. 206-28. 柴田光蔵『ローマ法概説』(玄文社,1983年)240-41,245-46ページ。

16 アルチャートと同時代人のアレッサンドロ・グリマルディの葬送演説中の言葉。Henry Green, #Andrea Aliciati and His Books of Emblems#, p. 20.

 

17 ただし、抜粋訳をそのまま採用したわけでなく、ヘクサメターを多用している『エンブレーマタ』にあわせて言葉を少し変えている。

 

(付記 アルチャートの貴重な文献を貸借して下さったパヴィーア大学図書館、文献検索・複写などに便宜をはかって下さったローマ法制史図書館司書Antonia Grausliさん、そして法学部の優秀な卒業生Valeriana Sforziniさんに心から感謝致します。)

 


図11パヴィーア大学正門の碑文

 

図12パヴィーア大学法学部中庭

 

図13アンドレア・アルチャート碑

 

図14ヤーコボ・デルラ・クェルチア

         「イラーリア・デル・カレット」(?1406年)

 

図15ジョヴァンニ・モントルソーリと

         バルトロメーオ・アンマナーティ

         「サンナザーロの墓」(1537年頃)

 

図16パヴィーア大学法学部中庭の彫像(1485年)

 

図17ベルナルド・ロッセリーノ「レオナルド・ブルーニーの墓像」

 

図18アンドレア・アルチャート碑の部分拡大

 

図19アンドレア・アルチャート碑の部分拡大

 

図20アンドレア・アルチャート碑の部分拡大