剽窃の倫理

−−ジョージ・ウィザーの『エンブレム集』とロレンハーゲンの『エンブレムの種』における模倣と逸脱−−

 

 

1教訓のバロック

 「G.W.が生きているかぎり、自分はイングランで最低の詩人でないはずだ」とまで同時代の詩人に酷評されたウィザーは、1635年に『エンブレム選集』(付図1)を発行する。¥1 このエンブレム集は、国王チャールズ、女王ヘンリエッタ・マライア、皇太子ジェームズなどの王族に献呈されている。当時一番身分が高く、最高権力を握っていた王族に捧げるのにふさわしく、このエンブレム集は、その図絵の美しさといい、平易ながらその長さで圧倒する解説詩といい、イングランドのあらゆるエンブレム集のなかでも、最高水準作品である。これは、同年に出版されたフランシス・クオールズの『エンブレム』(付図2)や、約二十年前に刊行されたヘンリー・ピーチャムの『イギリスの女神ミネルヴァ』(1612年)(付図3)と較べてみれば、一目瞭然である。ウィザーにおいては、しだいに衰微しつつあった木版画が流行の先端をいく高価な銅版画となり、図絵と周辺装飾との大きさのアンバランスは図絵の周辺に題銘を円形にめぐらすことで乗り越えられている。二連のセスセットからなる解説詩と一枚の図絵と配置は、解説詩と図絵との間に境界をおき1:√2とすることで落ち着いている(付図4)。¥2 しかもエンブレムの縦横の比率は、1:√5で、さらに、英語題銘の縦幅を1とすると、題銘:図絵:解説詩=1:6:10という関係になっている。また、合計200のエンブレムは、付図5にあるように、表紙、献辞、教訓詩などを仕切りとして50枚単位のグループに分けられ、各単位が独立しているかのような、がっしりとした四部構成になっている。

 『エンブレム選集』が書かれたバロック時代には、カラッチからプッサン(付図6)の系譜にみられるように、標準的なスケール対象性をもった円や三角形といった単純な幾何学的構造に、描出する対象を封じこめようとする傾向があった。配置の聖序感覚、長大で均衡のとれた解説詩からなるこのエンブレム集は、その意味では典型的なバロックの所産だといえる。しっかりとした構造をもったバロックの視覚芸術作品は、落ち着いた安定感、禁欲性、理性による情熱の抑制といった〔雰囲気%シュティムング%〕を漂わせている。日常生活のさまざまの状況のなかで出会う幸、不幸、不運、迷いにどのように対処すべきかを教えるこのエンブレム集は、美徳への諸手をあげてて賞賛し、情欲や怠惰を悪徳として蔑視する態度を基軸として、揺るぎない倫理を展開している。

 たとえば、この時代にかなり多くの知識人に知られていたエンブレムに、<イルカに錨>がある。ルネッサンスの大出版者アルドゥスの社章として流布したこのエンブレムは、古代ローマからあったものだという。ウィザーは次のような解説詩をつけている(付図7)。

 

題銘

        安全に進むつもりなり、

        速すぎることも、遅すぎることもないように。

 

解説詩

我々の先達は、エンブレムとして

<天来の速さ>をあらわそうとする場合には、

魚である<イルカ>の図絵を描いた。

イルカは、海中をそれは速いスピードで飛ぶ。

<錨>の図絵は、<希望>、<安定>、

<熟慮>をあらわしている。

したがって、これら二つのものが合体していると、

その姿には二つの意味が隠れている。

というのは、<イルカ>から思い浮かぶように、

進まねばらない道にあって

<怠惰>であってはならず、

やることをすばやくやるべきである。

ちょうどそのように、<イルカ>についた<錨>は、

<速度>を維持するために、何をするにも

<希望>がついていかなくてはならないことを示す。

たとえ意気がくじけても、そうでなくてはならない。

また、<錨>から、<速度>には

<安定性>が必要だとわかる。目的を達成し

成功をおさめようとするには、せっかくの努力が

<性急>のために無駄にならないために。

 一番安全にことを運ぶ人は、いつ<遅延>するのがよいか

その<時節>と<時機>をわきまえている。

そのうえに、いつ<速く>、いつ<遅く>ではいけないか、

いつ全<速力>で進むべきかをわきまえている。

(人生という<大海>が)穏やかな道のりであれ、

嵐の道のりであれ、自分の船に気を配っている。

この<二重の美徳>によって、<安息>が手に入り、

苦しいときにも、支えとなってくれる。

 <速さ>があれば、仕事はうまい具合に成し遂げられる。

 <安定>があれば、仕事は安全に成就する。

 

教訓詩

何をしようとしても、

よい結果が生まれるのが、まれなあなた。

その何かをしているとき、

いつも<急ぎ>すぎるか、<のろま>すぎるのだ。

ことをうまく運ぶ、

程々のところからずれているのだ。

そんな誤りを治すように、教えているのだ。

だから、少しは賢くなりなさい。

 

イルカと錨という日常生活で出会う事物のなかに、人間がいかにして有意義な生き方ができるかという教訓を提示している。ここで、原文の斜体文字で強調されている倫理項目数の多さは、事物を倫理の次元におきなおさなければ、事物の存在価値そのものが無化されてしまうかのようである。倫理のフィルターを通して見えてくる事物の意味のほうが、自然界のなかでの生物としての位置づけや事物の実用的価値よりもはるかに大事だと考えているかのようである。また、この数の多さが同時に暗示しているのは、さらにいくつもの道徳的意味を加算しうる可能性であり、この図絵から無限級数のように意味が紡ぎだされていく、そのエネルギーである。そういえば、幾何学的なバロックには、リュベンスやベルニーニに顕在化しているようなエネルギッシュでフラクタルなバロックの側面がある。そこでは、豊かに組織された非線形に類似したパターンによって、人間が自然に手を加えて作り上げる造形物を、できるかぎり自然の生命力を損なわないように生かそうと工夫がこらされている。ばらばらにならんばかりに道徳的な意味が増殖を繰り返していくこの解説詩は、意味を付与することによって日常の何気ないものに生命を吹き込んでいるといってよい。

 ただし、ここには奇妙なことに神が登場していない。<自然の書>あるいは<神の足跡>というトポスに従うなら、神が被造物に封じこめている意味を人々の前に名指し開陳することが、詩人の役目であったはずである。ところが、ウイザーは、自らの主観で錨とイルカがもつ意味内容を恣意的に選び取り、読者に教示している。神とか王といった超越的な絶対者が世界の頂点にあって、そのメドゥーサの一瞥で、世界のすべての事物のそれぞれに世界全体のなかでの階層の位置を与え、個々の事物の相互関連を一貫した明証性のうちに固定化するという、中世ではおなじみの事態がここにはみられない。ドルーズ・ガタリが剔決した言葉でいえば、超コードのその超の部分があらわれていない。もちろんだからといって、人間は神を忘れたわけではない。<羽と重荷>のエンブレム(付図8)がそれを教えてくれる。

 

題銘

私の<才能>は<翼>をつけて、高く飛んだ。

けれど、<貧困>が私を下に押さえつけた。

 

解説詩

ここでご覧になっている図絵の人物のような苦境が

どんなものであるか、ほとんど考えたことはないでしょう。

<翼のついた腕>と<天を見上げる目>は、あからさまに

この人物には<才能>があり、上昇する<意志>があることを語っています。

反対の<手>について重荷となっている<石>は、

<貧困>と<運命>によってこの男が押さえつけられていることをあらわしている。

この二つに挟まれて、<肉体>と<精神>は、

ひどくもだえ苦しんでいる。

こんな人々の窮状を鼻であしらわず、

どうか手をかし、哀れみをかけて下さい。

 いつの時代も、こんな人はこうした悲惨に

陥れられている。(現代でも、そういう人はいます)。

こんな人はたいてい、自分の<運>に嘆く。

その深さといったら、(<才能>に値し、

自分が望んでいるところに)

上昇するにたりるだけの<富>があれば、

自分がやろうと考えていることから、

現代ばかりか将来も、利するところがあると

わかっている(あるいは、少なくともそう自分で信じている)と

いわばんばかりである。

 思えば、私もそう夢見ていたことがあった。けれど、誉むべきかな神は。

上昇から私を押さえつけていた<重荷>は、

がっちりと鎖で縛られていたので、(たとえ、そんな<夢>を見ていても)

いまでは、私の<思い>と<言葉>はそれほど狂ってはいない。

はっきりとわかるのだが、もしも<運命>が、私のささいな<才能>が

考えているようなそんな<富>をもたらしたなら、

まず自分とそして他人までも、進もうと考えいた道から

そらせて破滅させていたことだろう。

<貧困>は私にはふさわしいものだとわかっている。

それは、私の<才能>よりもずっとありがたい<祝福>なのだ。

 さて、私がやがて<豊か>になるであれ<貧しい>者となるのであれ、

 そんなことは、大きな<満足>でも、ひどく<迷惑>なことでもない。

 

教訓詩

もしも<貧困>がこんなに<妨害>しなかったら、

<才能>によって大物になっていたと考えているあなた。

<才能>に見合うと考えているほど

<富>が十分ゆたかにあったなら、

思っているような<高み>どころか、

かわりに転落していたことでしょう。

これからは、<神>がお送り下さったもので

満足するようにしなさい。

 

 

このエンブレムの題銘の材源は、イングランドで最初のエンブレム集ホイットニーの『エンブレム撰集』(1586年)によると、古代ローマの詩人ユウェナーリスの言葉にある。

 

Haud facile emergunt, quorum virtutibus obstat

        Res angusta domi.

家で物が貧しいために、その才能が妨げられている人は、

        決して容易に世にでない。

 

貧しいためにせっかくの才能を生かせず終わらせてしまう、社会が個人におよぼす愚行を諷刺している。ところが、ウィザーは、富を持っていないことがかえって道を誤らせないというまったく異なった倫理をここに読み込んでいる。ただし、この倫理は、そこを出発点にして、脈絡もなくただいたずらに発散していく。富が手に入れば、地上にたいしてかえって執着心をもち人生の短さを忘れてしまうという道徳的な意味なのか、金があると人々から尊敬されるので才能を発揮するどころか傲慢になるだけだという教訓をいっているのか、あるいは、身分を越えるような富を所有することが社会悪だと主張しているのか、まったく判断を下すことができない。<イルカに錨>のように、意味はとめどもなく拡散していく。ここにあって神は、滅びと救いを一方的に定めている絶対者でもないし、個々の人間にたいしてそれぞれにふさわしい才能(タラント)を贈与し、その見返りとして人間が神に感謝と奉仕をするという力動的な関係の網の目にあるわけではない。才能を発揮しようとする者を積極的に手だけする存在でもなければ、試練によって人間の人格を高めていく行為者でもない。生命力を抜き取られた彫像や馴致された動物のように、神はそこに存在していながら、地上世界との関係において否定的にしかかかわっていない。

 矮小化され飼い馴らされてしまったキリスト教の神に代わって、異教秘儀にウィザーは傾倒していたのだろうか。『エンブレム集』の表紙絵解説では、カバラの名をひきあいにだしながら、図絵には異教秘儀が織りこまれていると述べている。しかし、異教秘儀の象徴物すらも、日常倫理の教訓へと還元化されている。では、どのような関心を持っていたのだろうか(付図9)。

 

 題銘

隠されたものを見つけだそうとするものは、

自分の前と後を眺めなくてはならない。

 

解説詩

<神殿>には老齢な<ヤヌス>の有名な像が

安置されていた。いまではその像の頭だけが、原型をとどめている。

ここに描かれたのが、その図絵である。

<前向きの顔>と<後ろ向きの顔>。

この古い<神聖文字>は、数多くの異教神秘を

包含している。ここではそれには触れず、

このエンブレム(図絵)の題銘が第一義として

あらわしているものを大書きしたい。

 本当の<神>とは、[キリスト教の]<神>だけであり、

<神>はどんな神秘的なことも正しく知っておられる。

<神>だけが<たえずある存在>であり、

万物を見通すその力によって、

一瞥しただけで、<現>に存在しているもの、

<将>に存在するもの、<既>に存在したものをことごとくみる。

 けれどこの<双面>から引き出せる道徳は、

ことをなすにあっては、どんなことであれ

自分の<前>と<後>の両方を眺める

人のあらわしている。

<過去>のことを考えない人は、<来る>べきことを

けっして有効に予測できないし、

<未来>を見ないような人は、

すでに支払った労力を失うことになる。

<後>をときどき振りかえることで、

<昔>やってきたことを眺める。

賢明にも<先>を見ることで、<将来>起こる

事柄を予見する。

こうして、生きているごく短いかぎられた

<時間>のうちに賜物を受け取るばかりか、

 前後をみることで、<過去>の分け前と

 <未来>の分け前にあずかるのだ。

 

教訓詩

この籤を引き当てたのは、注意深くまわりを

眺めていないからではないだろうか。

気をつけずぞんざいでいいから

<過去>にあったこと、これから起こりそうなことを集めなさい。

<用意周到>であるなら防げたかもしれない

損失や不満を手にしなさい。

感謝の心で、この<道徳>がする

忠告を受け取りなさい。

 

 

神はせいぜい<慎重>のアレゴリーであり、異教秘儀はあっさりと扱わない言い抜けて、過去と未来をふりかえって失敗のないようにしろと教えている。<分け前>、<損失>、<支払い>といった言葉からもわかるように、<慎重>は不断に揺れ動く競争社会で、賢者として生き抜いていくための必要な徳なのだ。16世紀後半から17世紀にかけて、行動の規範は、宗教的規準という神学的な鋳型を抜け出して、算術的合理主義がしだいに支配的になっていく。アングリカンとピューリタンの確執、国王の執拗なまでの宗教への介入は、富と繁栄の経済至上主義とは背反するかのようにみえる。しかし、この時代の文学作品は、ロンドンの繁栄を謳歌し、その逆に身分が上下に別れた共同体(ゲマインデ)に終止符が打たれたことを嘆き、また、宗教が商人の間ではアクセサリーのようになってしまったことを示している。¥3 宗教ではなく経済から日常世界を眺める視点では、神との新しい関係に人間をおく異教神秘も、このエンブレムにあるように、経済社会で勝者となるための成功の秘訣へと矮小化される。

の時代には、

 以上の三つのエンブレムを、当時のエンブレム理論家アンリ・エステイエンの分類にしたがって、風俗・自然・歴史からそれぞれ一例ずつとってみた。¥4 教訓や格言への愛好、事物に道徳的意味を求めてやまない休むことなき運動−−こうした意味においても、ウィザーの『エンブレム集』は、バロックの落とし子だといっても言い過ぎではない。

 

 

2 剽窃罪

 ところが、奇妙なことに、各エンブレムはその番号においても散乱しているかのうように、同一ページに二つの異なったアラビア数字の番号をもっている(付図1)。数字を動きを追ってみると、左上の数字はこの本の通しページだとすぐわかる。そして、エンブレム図絵の右肩についた番号は、図絵の通し番号なのだが、最初の100枚で1-100が終わり、次の101枚目がふたたび1に戻っている。ウィザーがこのような二重のやや繁雑な番号打ちがある理由は、図絵部分とそれ以外の題銘・解説詩部分とがそれぞれ本来は独立して制作されたからだろう。実際に、ウィザーは、「どのようなまっとうな条件を提示しても、オランダから原画の銅版を取り寄せることができなかった」と読者にあてた前書きで銘記している。また、図絵が題銘の領域や解説詩の領域にずれてはみ出ていたりすることからも、別々の制作で二色刷りのように後で重ねあわせたのだとわかる。そして、図絵が本来どこで使われていたかを知ると、実は、この作品は現代の基準からすれば明らかに剽窃という大罪を犯してできあがった作物だということが、露見してしまう。200枚の図絵は、その順番も大きさも約20年前にドイツで出版されたエンブレム集(付図10、付図4)をそのまま踏襲しているのだ。かりに原著との類似がどれほど著しくとも、原著のタイトルと原著者の名前をあげているなら、包み隠さずに事実を表白する正直さによって、少しは道徳上の罪の重荷が軽減されるだろう。ところが、倫理の教導者ウィザーの態度は、狡猾そのものである。ウィザーは、『エンブレム集』の冒頭にある「読者へ」のなかで、次のように述べている。

 

        These Emblems, graven in Copper by Crispinus Passaeus (with a Motto in Greek, Latin, or Italian, round about every Figure; and with two Lines (or Verses) in one of the same Languages, periphrasing those Motto's) came to my hands, almost twenty years past. The Verses were so mean, that, they were afterward cut off from the Plates; And, the Collector of the said Emblems, (whether he were the versifier or the Graver[)], was neithr so well advised in the Choice of them, nor so exact in observing the true Proprieties belonging to every Figure, as he might have been. Yet, the Workmanship being judged very good, for the most part; and the rest excusable; Some of my friends were so much delighted in the Graver's art, and, in those Illustarions which, for my pleasure, I had made upon some few of them.

       

        これらのエンブレムは、クリースピーヌス・パッサエウスの手になる銅版画である。エンブレムは、その画の周囲を取り囲む題銘(ギリシア語、ラテン語、イタリア語)、題銘に対応する言語で題銘を冗長にした二行(あるいは詩)からなっている。これを、私はほぼ二十年前に手に入れた。詩は稚拙だったので、のちには銅版画からカットされた。さて、このエンブレムの編纂者−−それが詩の作者かそれとも銅版画家かは決めがたいが−−は、エンブレムの選択にあたってはこちらが期待するほど思慮深くなく、また、図絵の本当の意味をこちらが思っているほど綿密に語ってはいない。にもかかわらず、出来栄えはそのほとんどがたいへんに優れており、そうでないものもまあまあであった。友達のなかに、銅版画家の腕前にいたく感心し、また、余興に作ってみた、銅版画に付けたいくつかの解説詩をひどくおもしろがってくれた人達がいた。

 

ウィザーの原著の銅版画は、当時のヨーロッパの銅版画家の名実ともに筆頭の銅版画家であったクリスピン・ファン・デ・パッセ(1564-1637年)が制作したという。¥5 銅版画の質がきわめてよいので、原著の二行詩がカットされた部分に自ら解説をつけたと、経緯を説明している。ここでウィザーは周到にも、さりげなく但し書きをつけて、これらの図絵を集めた人物が、題銘と二行の解説詩を書いた作者なのか、それともはパッセなのか、判断はつかないという。なるほど、このオランダ人銅版画家クリスピン・ファン・デ・パッセの長男パッセ二世(1597/8-1670年)は父親と同じく銅版画家でありながら、エンブレム集『キューピッドの玉座』を1620年に自著として出版している。判断がつかなくなるのも、無理はないかもしれない。ところが、これは明らかな嘘である。

 なぜなら、エンブレム制作プロセスでは、題銘・解説詩の作者が、できあがった文面を画家に見せて、図絵を作らせるというのが、通例であった。「靴屋は最後まで靴屋」(Ne sutor ultra crepidam)という諺どおり、詩人と画家との分業体制がこの時期には確立しており、詩人がいちいち図絵の原画彫りをするということは、まずなかった。¥6 そして、通常、図絵の作者名は、本の表紙に記載された出版社名のすぐ上か、図絵の第一枚目のどこか片隅に記載されており、なかには作者自身の献辞や友人から寄せられた献辞にまで、その名が銘記されていることがある。『エンブレム集』の第一枚目の図絵にはパッサエウスの名がない。とすると、ウィザーは原著の表紙あるいは原著の献辞のなかで、原著の銅版画がパッサエウスの作品であることを知ったことになる。そして、原著の表紙にも献辞にも、題銘と二行詩の作者、すなわち原著者がだれであるか、はっきりと明確に述べられている。まず、表紙をみてみよう。

 

#NUCLEUS EMBLEMATUN SELECTISSIMORUM, QUAE ITALI VULGO IMPRESAS vocant privata industira studio singulari, undique conquisitus non paucis vensutis in ventitionibus auctus, additis carminibus, illustaratus A GABRIELE ROLLENHAGIO MAGDEBUR GENSE# (1611)

『厳選されたエンブレムの種。イタリア人は一般にはインプレーザと呼んでいる。この種は、私的な勤勉と単独の研鑚によってあらゆる方面から選び出されたもの。少なからぬ魅力ある独創性によって成長した種。加えられた詩によって光をあてられた種。マブデブルグ人ガブリエル・ロレンハギウス著 ケルンのクリスピアヌス・パッサエウスの工房から』

 

これに続く、100枚のエンブレムを集めた作品の表紙には、

 

#Gabrielis Rollenhagii selectorum Emblematum CENTURIA SECUNDA# (1613)

『ガブリエル・ロレンハーゲン撰の100のエンブレム−−第二集』

       

また、献辞には次のようなものがある。

       

        IN EMBLEMATA DOCTISSIMI VIRI GABRIELS ROLLENHAGII a solertissimo Crispino Passaeo in aes incissa

        このうえなく学識ある人ガブリエル・ロレンハーゲンのエンブレムと

        もっとも熟達したクリスピアヌス・パッサエウスによってに刻まれた銅版画へ

 

ロレンハーゲン(1583-1621年)とは、早熟薄命のドイツ詩人で、24歳で300ページに及ぶ詩集を出し、26歳のときには恋の盲目を扱った喜劇も書いている。いずれのも再版されず、出来栄えの平凡な作品だったのは、父親が学校の校長という教育職にあったからだろうか。ただし、喜劇では自分の名前をアナグラム化したペンネームを用い、なかなか粋なところを見せている。28歳、すなわち1611年にいま問題にしているエンブレム集を出し、二年後に第二集を出している。皮肉なことに、ほとんどのドイツ文学史でロレンハーゲンの名は登場しない。しかし、現在でもその名が伝わっているのは、名声を残すと本人が期待していた詩集の功績ではなく、「余興で書いた」と自ら述べるこの作品のおかげである。この若さで、しかも母国語ではなくラテン語で書いたこの作品は、その二行詩の部分だけを取り上げてみれば、たしかに「詩は稚拙だった」という三流詩人ウィザーの指摘は正しいだろう。

 しかし、ここでもちろん重要となるのは、ロレンハーゲンの詩の質ではない。ロレンハーゲンが、これら200枚のエンブレムをまったく無から創造したのかどうかである。『厳選されたエンブレムの種』の読者への前書きのなかで、この本は、ロレンハーゲンが他のエンブレム集から500のエンブレムを収集し、そのうちの100を選んで出版したのだと述べられている。エンブレムの具体的な材源は、あげられてはいない。しかし、前書きでエンブレムという言葉を説明するとき、アンドレーア・アルチャート、ヨハンネス・サンブクス、ハドリアヌス・ユニウス(アドリエン・デ・ヨンヘ)の名があり、それぞれの作家の作品中のエンブレムがロレンハーゲンの『種』に複数採用されている。したがって、ロレンハーゲンの『種』も、ウィザーよりは罪の重さははるかに軽いとはいえ、<剽窃>から免れていないことになる。ところが、剽窃を犯した点に関して、ロレンハーゲンは、きわめて率直である。

 

ex infinito Picturarum poeticarum, quae EMBLEMATA, Graeci Itali[que] Imprese vocant, numero, ea quae nervis, succo, sanguine & animasua non destitui deprehendi, in aliquot Centurias digessi, meis inventionibus locupletavi, & brevissimis symbolis ornavi, singulisque saltem distichis, animo sereno..... explicui.¥7

        詩的絵画、すなわちギリシア人がエンブレムと呼び、イタリア人がインプレーサと呼んでいるものは数限りなくある。そのなかから活力、活気、血気があり、魂のこもっているものを奪い取り、それらを何百かに分けた。それらを、私は自分の独創性を使って豊かなものにし、またできるかぎり簡潔なシンボルを使って脚色した。明透な心で、.....必ずそれぞれのエンブレムに二行詩をつけて解説をした。

 

「奪い取る」という言葉からわかるように、ロレンハーゲンはエンブレムを他の作品から借用したことを率直に認めている。ただし、この借り物は、ある特定の本に転載されているものをそっくりそのままで「奪い取った」のではない。図絵は、複数の本から蒐集され、その選択にあたっては自分の目で見て生きているものという基準をたてていた。ある一定の方針にしたがって取捨選択し収集することを編集とするなら、ロレンハーゲンは編集者と呼ばれる資格がある。ただし、この資格をもロレンハーゲンは逸脱している。というのは、「豊かなものにする」や「脚色する」という言葉は、建築を装飾物によって豪華に飾りたてたり、人間に衣装をまとわせるというのが、原義である。あたかも、金細工師が貴金属に精巧な細工をほどこして輝きと価値と魅惑をさらに増幅させるように、既成のエンブレムに象徴的装いや文学的装飾をあらたに加えることによって、エンブレムの内在的価値を高めるのだ。

 たとえば、材源の一つと考えられるアルチャートとの関係で、このプロセスを見ることにしよう。アルチャートは、いうまでもなくエンブレム文学の創始者であり、図絵入りの『エンブレム』(1542年)はラブレーの著作よりも当時のヨーロッパで版を重ねた。さきほどあげた<イルカに錨>のエンブレムをアルチャートは、こう説明している(付図11)。

 

臣下の安全を配慮する君主

 

ティーターンの兄弟たち[風]が、海を荒らすたびごとに、

        投げた錨が、哀れな船人たちを助ける。

この錨を、人間との関係において忠実なイルカが、抱きしめる。

        錨が海底の一番深いところにより安全にささるようにと。

船人にとっての錨であるものと、自分自身が臣民になりうるように

銘記している王が、この象徴図絵を身につけることは、なんとふさわしいことか。

 

アルチャートのエンブレム集が出版されてから約80年後に、この本に詳細な註釈をつけたクロード・ミノールは、この図絵が、皇帝ウェスパシアーヌスの息子ティトゥスが用いたエンブレムであり、題銘は「ゆっくり急げ」(FESTINA LENTE)をあらわしていたと書いている。そして、それをアルチャートが、題銘を意図的に改変したのだという。

 

noster Alciatus, qui ab illo autore in aliquibus locis diffentire solet, aliter illius numismatis siguram interpretatur.¥8

我らがアルチャートは、原作者からいくつかの箇所で異なることを常としているが、ここでもその本来のメダルの図絵に異なった解釈をくだしている。

 

図絵は借用しながら、異なった粉飾をすることがここでは行われている。ではこの図絵は、ロレンハーゲン(付図10)では、どのように飾られているのだろうか。

 

TUTIUS UT POSSIT FIGI maris anchora fundo,

        Adiuvat humanam piscis amicus opem.

錨がより安全に海の底にささっているようにと、

        人間に忠実な魚[イルカ]は、人間の仕事を助ける。

       

さらに、ここに該当するフランス語訳は、

 

        Dieu assiste tujouors ceux qui font leur devoir,

        Et plut{o}t il excite un {e'}strangere pouvoir,

        D'un poisson {e´}cailleux, qui tient l'ancre coulante,

        Sauvant par ce moyen, la barque perissante.

        神はいつも、自分の義務をはたすものを助ける。

        というよりむしろ、神は、流れる錨をつかみ

        鱗におおわれた魚から、不思議な力を引き出すのだ。

        こういう風にして、難破する船を助ける。

 

「ゆっくり急げ」という行為の規範が、「臣下の安全を配慮する君主」という為政者の忠告となり、さらには、「より安全に固定されるように」と神が誠実な人間を手助けするという内容に変わる(付図12)。この変化は、錨とイルカという二つの記号表現に、どのような記号内容を読み取るかによって起こっていることはいうまでもない。「ゆっくり急げ」ではイルカの俊足さが意味内容となり、錨は軽々くし動かない安定をあらわしている。この題銘がもともと歴戦の勇士でありローマの初代皇帝アウグストスのものであったことを考えれば、戦争や政務にあって判断を誤らないようという教訓だったのだろう。アルチャートの「臣下の安全を配慮する君主」では、イルカは無徴であって、錨だけが意味内容をもち、他人を危険から守護することの比喩になっている。ロレンハーゲンの「より安全に固定されるように」では、イルカは、古典でアポロン神の使者として人間に善行を行ったように、キリスト教の神の使者という意味内容をもっている。これにたいして錨は、義務をなおざりにしない忠実な人間をあらわしている。

 このように、<イルカに錨>といういわば建物の姿も形も変わらないが、そこに自分なりの装飾をほどこし、なんらかのレッテルをはりつけることによって、建物の持っている性格そのものが変わってきてしまう。内部の装飾を変えるだけで、異教の神殿を教会として用い、カトリック教会をプロテスタント教会として使用しても、なんら矛盾を感じない態度と似ていなくはない。しかし、神殿と教会、カトリックとプロテスタントの違いは、ロラン・バルトにならっていえば、記号の消費することと記号を発明することの違いとまったく同質であり、たんなる外面的な装飾(elocutio)の違いにあるのではない。この意味で、我々がここで装飾と呼んでいるものを、ロレンハーゲンが「独創性」inventioという言葉で言い表していることは、意味深長である。なぜなら、「独創性」inventioとは、修辞学の五本柱のひとつで、話者が語る内容を探し出すことを意味している。¥9 とくに「模倣」imitatioと対比される概念として、何を語るかというその内容を考えだす話者の独創性をさす用語でもあった。

【模倣と剽窃はきわめて近い概念であった。Dic of Classics PLAGIALISM      そして、<模倣>とは、<ふさわしさ>に近づくための当然の手段として是認された。この事情は、道徳哲学における先人の範例の模倣を思い起こせばすぐに納得がいく。Paul Osakar Kristeller and Philip P. Wiener, ed., #Renaissance Essays# (Univ. of Rochester P., 1993) 208

ロレンハーゲンからの引用文中で、独創性に続く言葉、「脚色」、「解説」も同じくレトリックにかかわる用語である。修辞学は、新しい原理や斬新な視点へと人々を導くことではなく、話者と聞き手の間にすでに成立している了解事項をいかになめらかに相手に伝え、説得するかに力点がある。こうしてみると、アルチャートにしてもロレンハーゲンにしても、エンブレム作家とは、図絵というトポスをもとに、独創性を駆使して色彩と磨きをかけ、トポスそのものから次々と新しい意味をつむぎだしていく老獪な弁論家といえる。

 とするなら、たとえ図絵と題銘をそのまま採用したところで、そうした実体を自分の言葉で粉飾する行為そのものを、剽窃とは呼べないことになる。<イルカに錨>にウィザーが自らの主観にもとづいて放出していく解釈は、イルカに速力を、錨には希望・安定・熟慮を読み込み、日常の仕事の成就方法へと教訓を引き付けている。その解釈は、先達はもちろん、直接の材源であるロレンハーゲンとも異なっている。とするなら、ウィザーは、たとえ原著者をあかなさい不誠実さはあっても、剽窃の罪からは放免されているのだ。そして、同じことは、他の二枚の図絵についてもいえることは、もはや詳述するまでもないだろう。

 では、このような改変ないし粉飾はどのような名称で呼ぶべきなのであろうか。それは、法律学という補助線を引くことによって、あきらかになってくる。近年進みつつあるルネッサンス修辞学にたいする研究は、この時代の修辞学が、たとえば尊敬された市民人文主義者キケロにみられるように、法律学と密接に結びついていたことを検証した。¥10 たとえば、ウィザーよりは一世代前の詩人・法律家であるエイブラハム・フローンス(1556-1633年)は、ウィザーが生まれた1588年に『法律家の論理』(#Lawiers Logike#)を出版し、法律と修辞学の関係を詳述している。そして、このフローンスこそは、イングランドでその同じ1588年に最初のエンブレム理論書を公刊した人であった。¥11

 ところで、当時のヨーロッパ法学界には、ローマ法の解釈をめぐって二つの学派が対立していた。ひとつは、アルチャートの本国イタリアで圧倒的に支持をえていた註釈学派である。この学派の特徴は、聖書解釈や教会法解釈と共通して、特定のものを聖典(『標準註釈集』#Glossa Ordinaria#)とし、聖典そのものの一言一句を変えずに内容を説明したり註釈を加えていくことにあった。そこでは、『市民法大全』が書かれた時代背景はおろか、『市民法大全』の本文校訂についてまったく注意がはらわれていない。これにたいして、当時の最先端の学問であった文献学を駆使して、ローマ法の再解釈を企てた法律家がいた。フランスのギヨーム・ビュデ(1468-1540年)、ドイツのウルリッヒ・ザシ(1461-1535年)、そしてイタリアのアンドレア・アルチャートである。この三人は<三頭>とよばれ、なかではアルチャートはフランス風とよばれたこの学派の育成者として重要な役割をはたした。ところで、現在のエンブレム研究書においてすらもまったくふれられていないが、エンブレムという言葉は、アルチャートが生計をたてていた専門職においては、よく知られた用語であった。

 多くの研究者が指摘しているように、たしかにエンブレムとは、古代ローマの舗床モザイクのある一定の枠で仕切られた中央部分に描かれた特定の主題をもった図絵をはめこむその細工のことである。この細工の意匠を、アルチャートは自らのエンブレム集をつくるときの態度とからみあわせたというのが、現在の学者たちの標準的な推測である。ところが、『エンブレーマタ』(1531年−−アウグスブルグ版)は、少なくともアルチャートの書簡から判断するかぎりでは、そもそも図絵も題銘もない、数行の短い詩を複数集めた詩集であった。各エンブレムに図絵がまんべんなくついたのは、それから3年後の1534年版(スタイナー版)が最初であった。図絵がいったいどのような理由でつけられ、また付けることがアルチャートの指示によるものなのかどうかは、いまだにわかっていない。しかし、のちに<沈黙のエンブレム>という慣用語が生まれることからもわかるように、図絵なしのエンブレムというのは、必ずしも奇妙なものではなかった。とすると、エンブレムと、図絵を必ずともなうはめこみ細工とに類縁関係を求めるのは、少し無理があることになる。

 ルネッサンス時代のローマ法学者がとりわけ神経質に考えざるをえなかった問題が、「トリボニアーヌスのはめこみ細工」(emblemata Triboniani)であった。ローマ法学が、東ローマ皇帝ユスティニアヌスが司令して編纂させた『市民法大全』をめぐる研究であることはいうまでもない。皇帝は編纂にあたって、「余計な部分、不完全な部分、あまりふさわしくない部分」と編纂者たちが判断する箇所は、改変あるいは校訂すべしという指示を与えていた。この変更は、編纂の首班にあった法学者トリボニアヌスの名をとって、「トリボニアーヌスのはめこみ細工」とよばれている。こうしたことが起こったのは、ユスティニアヌスがそれまでのローマ法を集大成するにあたって、時代の変化や現実の在り方に適合するようなものに変更するという意図が働いていたからである。したがって、トリボニアヌスたちの行為は、改竄ではなく<書き換え>interpolatioと呼ばれた。とするなら、エンブレム作家たちが、他人の作品を借用し改変を加えていくプロセスは、<書き換え>といってよいだろう。

1 王党派の諷刺詩人ジョン・デナム卿の言葉。引用は、Michael Bath, introduction,  #A Collection of Emblems# by George Wither (Hants: Scolar, 1989) 1.

2 印刷文化がこの時代の遠近法と同様に比例関係に執拗なまでにこだわったことは、たとえばルターの聖書が雄弁に物語っている。ウイリアム・アイヴァンズ『ヴィジュアルコミュニケーションの歴史』(白石数也 訳 晶文社 1984年)64ページ。

3 拙稿「呪われた渇望−−『失楽園』における富の視覚芸術」『ミルトンとその光芒』(新井明編 金星堂 1992年)20-26ページ。

4 Henri Estienne, L'art de faire les devises (Paris, 1645)。引用は、次書による。Barbara Lewalski, #Protestant Poeteics and the Seventeenth-century Religious Lyric# (Princetion: Princetion Univ. Press, 1979), p. 182

5 オランダ人クリスピン・ファン・デ・パッセ(1637年)は、1594年にケルンに移住しそこで銅版画家の仕事をはじめ、1612年にユトレヒトに戻る。パッセの息子シモンはパリを中心に、息子ウィルエムはイングランドを中心に活躍する。「オランダから[原画の]銅版を取り寄せることができなかった」というウィザーの証言(1635年)は、1621年から没する37年までの間イングランドにいたウィルエムを通じて、そもそもケルンで出版され、のちにユトレヒトで再版された原著の原版を、父パッセのもとから取り寄せようとしたと推測できる。 cf. A. M. Hind, #A History of Engraving and Etching: From the 15th Century to the year 1914 (1923: rpt. New York: Dover Publications, 1963) pp. 122-123; A. M. Hind, M. Corbett and M. Norton, #Engraving in England in the Sixteenth and Seventeenth Centuries (Cambridge: Cambridge Univ. Press, 1964) p.245.

6 図絵を描く作家たちも17世紀には登場した。さきほど述べたピーチャムや同じく同時代のオットー・ファン・フェーンがその例である。しかし、これらの作家はむしろ例外ともいうべき存在である。なぜなら、フェーンの本業は画家であり、その弟子にはリュベンスという天才を擁していた。また、ピーチャムは学校教師を生業とし多方面に関心をよせ、なかでもとりわけ興味をひかれたのは絵画であった。

7 Gabriel Rollenhagen, #Nucleus Emblematum# (1611; Hildesheim: Olms, 1977) n. pag.

8 Andrea Alciatus, #Emblemata cum Commentariis# (1621; New York: Garland, 1976) 616.

9 "Invention," #Princeton Encyclopaedia of Poetry and Poetics#, 1974 ed.

10 Thomas O. Solane, #Donne, Milton, and the End of Humanist Rhetoric# (Berkeley: the Univ. of California Press, 1985) 90-94, 134-136.

11 『イタリア人がインプレーザと呼んでいる、紋章、武具、エンブレム、神聖文字、象徴の解説』(#Insignium, armorum, emblematum, hieroglycorum, et symboloru, quae ab Italis 'Imprese' nominantur, explicatio#.

12

 William S. Hecksher, #The Princeton Alciati Companion: A Glossary of Neo-Latin words and phrases used by Andrea Alciati and the emblem Book Writers of His Time, A Selective List of Secondary Sources dealing with Andrea Alciati and his Book of Emblems# (New York: Garland, 1989)

 

13 エンブレムの創始者アルチャートが、その初版において図絵が含まれることを意図していなかったことを強力に主張する学者としては、上述のミーディマ、そしてバラボワンがいる。C. Balavoine, "Arch{e´}ologie de l'embl{e}me Litt{e´}rarire: La D{e´}dicace{a} Conrad Peutinger des #Emblemata# d'Andr{e´} Alciat" in Center de Recherches sur la Renaissance, #Emblemes et Devises au temps de la Renaissance# (Paris: Jean Touzot, 1981) 9, 17-18.