創造主への問いはメタレベルをこえているか:『失楽園』における秩序への回収と反復抹消願望

 

 

1. 楽園出奔:内部と外部の亀裂

1.1.                    新世界への第一歩

涙を流しながら楽園を出立するイーヴとアダムの前には、新しい世界が開けている。その世界は、これまで二人がいた囲まれた楽園とは、そのあり方が根本的に異なっているようだ。楽園は、循環・安定・安息・平和・豊穣を前提として一元的に完結しているかのような世界であった。ここでは太陽はいつもかならずきまって12時間たつと沈み、いつでも同じ天宮にあってかわらず輝いている。昼夜の規則的循環は、水の流れにも反映している。水は、山のふもとから吸いあげられると、楽園で泉となってほとばしりでて、楽園中の植物をうるおし、そのあと山を下り、河となって海に流れこんでいる。常春のような心地よい気候にめぐまれ、樹木はあたり一面に芳香を放ち、果実は枝もたわむほどに常時みのり、冬の寒さや過酷な労苦や飢えからは完全にまぬかれている。楽園は、樹に何重にもかこまれた高台にあり、周囲にたいする防御も完璧である。禁断の実を食べないかぎり死ぬことはなく、ここでは「死を憶え」の合言葉も、病気や老年と闘う必要もない。だいいち理性をもっていない動物同士ですらも、感情にかりたてられて争うことはない。それは「大いなる至福」(5297)の世界であった。たとえその豊穣さが「規則も基準をも越えて野生のまま」(5297)であろうとも、二人の適度の労働によって、楽園の自然は充分に統整しうるようになっている。

ところが、二人がこれから出会う新世界は、安息にたいしては不安、平和には闘争、豊穣には不足といったように、天候不順、寒暖の激しい差、飢饉、洪水、死、疫病、戦争、弱肉強食、「災いと悲しみ」(8333)が待ちかまえている。あらゆる事柄には、それとほとんど必ず対立するような観念がともない、新世界は二元的世界であるかのようなのだ。楽園からまさに出ていこうとする二人が「足取りをためらう」(12638)のも、なるほどとうなずける。

しかしその新世界への参入に躊躇するのは、これまでとは対照的な環境のなかで生活するという激変だけが理由ではないようだ。天使が楽園から二人を追放するとき、燃える「神の剣」(12633, 同巻592)は虚空で右に左に振られて舞い、周囲を焦がしはじめていた。楽園から出た二人が楽園のほうをふりかえると、その剣は智天使たちの「恐ろしい顔や燃えさかる武器」(12643-644)とともにあって、楽園の門を防御していた。もはや二度と二人がこの同じ一元的な楽園に入ることが、禁じられている(図1)。剣という禁止の象徴は、二元的な新世界といういまやいつもこの世として意識される場に人間が生きざるをえないことを明示する。楽園は、すでにいつも戻ることのできない空間として、記憶によってとどめられる外部として存在することになる。楽園の門から踏みだしたアダムとイーヴの足が新世界に触れた瞬間に、楽園が二人にとってはもはや内部ではなくなり、外部に決定的に変貌する。

 

 

1.2.                    物理的絶対空間の空無

足が新世界に触れるはるか以前でもまた触れた後でも、人間が実体として空間を物理的にどう位置づけるかという観点からすれば、神の住む天も、堕天使のいる地獄も、地球を取り巻く宇宙も、そして楽園をささえるエデンという地域も、囲われた庭である楽園の外部にあるはずだ。物理的な空間にあっては、天国、地獄、エデンといった場は、あきらかに楽園という囲われた場と同一の地点になく外在している。ニュートン的といってもよいような絶対空間のなかに、天国、地獄、エデンが配置され、それらが配された空間の中央には、楽園がおかれている。『失楽園』の概説書にときおり付録として添付される宇宙図というのは、そんな絶対空間内の配置を教えている(図2)。

絶対空間という現代のパラダイムの一因子に、私たちはあまりにも慣れ親しんでいる。その当然性を保障するかのように、空間内にまるで位置を確定できるかのように、天国、地獄、エデンの位置関係がこの詩では指定されている。地球から地獄までの距離は、天国から地球までの距離の二倍、天国は上方、地獄は下方だから、天国と地獄と地球との位置関係は数学の線分比を決めるように、ここだと精密に照準があわせられる。地獄は「神がいらっしゃる光の世界からはるかに遠ざかっていて、中心にある地球から[地球を通過する]直径軸がつくる宇宙の極までの三倍ある」(173-74)。地球と天との距離を1とすると、地球と地獄との距離はその2倍になっている。サタンは天から地獄に落ちるまでに「9日間」(6871)かかり、地獄から地球に着くまでに約2日間かかっていて、それぞれの距離は人間の身体感覚でとらえられる数字であらわされている。神に天上で反逆したサタンが神のもとから「北の国」(5689)にいたるまでの領域の大きさは、「この球体を平面に伸ばして、その陸と海すべてあわせた広さに、この園の大きさを較べるようなもの」(5752-754)であり、領域の距離は「この地球の長さの10倍もある」(677)。この時代には視点を固定して一定の縮尺にもとづいて地球を平面に投影する近代地図が、対数を応用して開発改良されており、投影の計算に不可欠になる微分の発見まであと一歩のところにせまっていた。[1]球体の面積が平面にかなり正確に投影されるようになり、異なった場所同士の面積比較は、漠然とした直観によってでは、なく数字にもとづいてなされるようになってきた。土地が、聖俗には関係なく、等質な空間に還元されつつあったのだ。

もちろんというべきか、この詩は客観的な数や実験で確かめられた事象を記述する科学論文ではなく、読者の想像力を喚起するように荘重体によって書かれた作品である。なにもかもが、このように計量化されてうるわけではない。地獄は、「限界のない深遠」(1177)、「巨大な無限」(3711)、「計測不可能な奈落」(7211)といったように、その中心はどこにあってどこまで広がっているかは不明である。また天の神は、「あらゆる高さよりも高きところに座して」(358)いて、その高さは計測不能である。いやそもそも天や地獄はどこにあるのかということは、信仰上の信念としてしか確定できないはずのことだから、それらの場について、世界地図のように宇宙地図上に、縮尺にしたがってその大きさがあらわされることはありえるはずはない。しかしそうした事柄の性質や詩的技法上の制約を考慮にいれたうえでも、ミルトンはちょうどこの時代の自然科学者たちが自然界の諸対象を客観的に観察しようとしたように、事物の広さなどが、詩的にではなく計量的にあらわされているのだ。

近代の空間とは、空間という場において、実体をともなったものと、実体のない空虚なものとが組みあわさった集合体である。この場にあっては、実体のそれぞれは限定され輪郭をもっているのにたいして、実体のないところには空虚が存在している。空間上のあらゆる点は、相互に直交する三つの座標軸(縦横高さ)によって特定でき、それらの軸は、任意の点を起点として無限の彼方へと延びていく。「連続量」quantum continuumとして換算可能といってもよいこのような近代空間は、17世紀になってはじめて登場したわけではない。15世紀初頭から美術の分野では、幾何学的遠近法によってすでに具体的に実践されていた。[2]

14世紀になってブルネルスキーによって再発見された遠近法は、ルネッサンス万能人の典型であるアルベルティによって一般化され、アルプスを越えてデューラーによって洗練化される。線遠近法では、主体の位置が固定され、その不動の点から真正面にある対象を眺めることが大前提になっている。固定した主体の眼からは、視覚光線が発せられて、その光線がピラミッドないしは円錐状になって対象とぶつかる(図3)。この衝突によってできるその遠近を、眼と視覚光線の底面とに平行になるようにカットした、ピラミッドないしは円錐の一断面にしてあらわすのが、この画法である。視覚イメージにあらわれる対象の大きさや形は、視覚光線の相対的位置によって決定される。[3]

こうして異なった起点に立つがために、さまざまな姿となってあらわれる事物は、画家が位置する単一の視点から、絶対空間のなかに統一的に配置されていく。ほかならぬ人間が視点を定め、外界にあるいろいろなものを位置づけるという意味では、透視法は人間中心の世界像の発見であった。計量化される絶対空間においては、空間それ自体はもはや神の内部にあって神と融合しているものとしてではなく、神から切り離して独立した存在としてみなしうるようになる。神―自然―人間というこれまでの三つ巴の存在論から、神をいちおう射程外において、絶対空間である自然のなかに人間がいるという自然─人間という文脈が形成される。

遠近法という言葉は「前を見る」prospectivaの訳語で、この原語は私たちが今立っているところから目の前にあるものを見るということにすぎない。これを遠近法と訳してしまうと、やや誤解をもよおす。遠近の差をつけて描いたという意味でなら、中世の絵画にも近いと遠いの区別はあり、そういう意味の遠近法はあった。ところが中世の絵画では、大事なものは大きく描き、主題のなかでも重要でない派生的な事柄や人物は省くなり小さく描くなりしていた。この手法による描写は、描き手の意識やその絵を見る人の意識のなかでは、その通りであるかもしれない。しかしこのような遠近法にしたがっているかぎりでは、たとえば物差しで測ればどれくらいになるかはいえないことになる。これにたいしてルネッサンスのプロスペクティウァによる描出では、実在の距離と高低、空間の前後の配置関係がはっきりいえるようになった(図4)。それが可能になったのは、「前を見る」視点が一点に固定され、目の前にあるものを幾何学と数比をもちいて数学的に平面に投影する方法を実践したからだ。それ自体で秩序が自立している空間が成立し、神の意図や配慮をそのつど考えることがあっても、自然─人間という関係においてどういう意味があるのかを考えてもよいようになったのだ。自然という現実空間が存在していて、超自然的なる事物や事象にたとえ出あうことがあっても、人間が発見しうる自然法則や人間が恣意的に統一する度量衡によって、理解可能な範囲のものとしてみる態度が形成されていったということである。

 

 

1.3.                    ロゴスという媒介

しかしそんな実在に根ざした宇宙地図や幾何学的な絶対空間とは必ずしも重なりあわないのが、アダムとイーヴにとっての天国―楽園―地獄の関係である。絶対空間は、心理的には、禁断の木の実を食べて堕落する直前までの二人にとってなじまなかった。この絶対空間は、物理的にも、堕落の結果として楽園追放が完結する前までの二人にとってはありえないはずのものであった。そもそも楽園においては、天にいる神的存在との交わりはスムーズに行なうことが可能になっている。天使は階段状になっている「黄金の鎖」(21051行、3502-503)をたどりながら、いともやすやすと天と楽園との間を往還することができる。人間も神との約束を守るという「いともたやすい勤め」(4421)をはたしていれば、神のプログラムにしたがっていずれは肉的な要素を捨てて霊的存在へと変貌していき、天と楽園との区別は溶解する(5469-490)。天と楽園とのあいだには物理的な距離がたとえあるとしても、生成変化の線によって両者の間にはみえざる橋がかけられていてひとつに束ねられている。人間が堕落する以前の楽園とは、天使の世界と同じ領域にあった。これは、すべてが内部であったといってもよい。

このような空間の位相をやすやすとワープさせて、すべてを内部のままにしているのは、ロゴスの力だ。楽園にいる二人の祈りの言葉は、まるで天の神にささげる「初穂」(1122)のように固体となって、天にむかって昇っていく。それまでも、祈りはいつもその時その場にふさわしい、心からほとばしりでる様々な言葉でおこなわれた。カトリックのように、典礼としてあらかじめ第三者によって決定されている言葉を媒介として祈るのではない。祈りというロゴスの力は、堕落したあとに改悛した二人が神にむかって許しを請い願い祈る場面でも同じだ。

いやそれ以前に、アダムにかんしていえば、丁丁発止な議論を神的存在と行なうことすら可能である。自分が造られて間もない頃、アダムは、単独者であることが欠如だということを論拠にして、神による創造の誤謬すらも指摘する。神はそういうアダムをとがめるかといえば、逆に自分で自分のあり方を内省し、あるべき姿の自画像を模索するために理性を行使しているといって、アダムの態度にきわめて満足している。

ロゴスという相において、神的存在との交通が保障されているかのようなのだ。このロゴス的交通にいったん気づけば、アダムとラファエルとの間に交わされるロゴスが、上からの一方通行ではなく、双方向のやりとりになっていることも、はっきりみえてくる。アダムは、警告にやってきたラファエルに、神に不従順となるそんな動機とはどういうことなのか、天地はどのように創造されたのか、太陽は不動なのか、どういう性愛のあり方があるのかといった問題を提起する。それらの問題にたいして、天使は相手の理解力を加味しながら説明する有能な教師のように、答えていく。ここでも言葉によるよどみのない双方向のやり取りが、なんら抵抗もなく正常に進んでいく。

堕落前には、このように言葉を介して、天使と神という超越的存在と人間は豊かでしかも容易な交流がおこなわれていた。超越的存在の住む天は、人間が生活する楽園と物理的に隣接しているわけではないが、人間にとって天使の世界はかならずしも超越的な他界ではなかった。日々の生活空間と心理的には同じ連続する場所にあった。しかも神の恩寵が間断なくふりそそがれ、聖霊の息吹が力となって充満し、それに呼応するかのように天使が楽園を日々警護している。天上世界は、人間世界をいつもかならず包みこみ、そこにとだえることなく生のエネルギーを送りこんでいる。

堕落前の二人の生活は徹頭徹尾、神の秩序と宇宙のリズムに調和していた。神や自然と融合している二人の意識においては、どんなに天国や天空が物理的に離れていようとも、天はいまここにあるものとして実感できた。天と楽園とを心理的に射映すると、天は楽園の外部にはなく、かといって楽園そのものでもないが、それでいながら楽園と不即不離で、楽園そのものといってもよいのだ。ちょうどベンゼン環のように、分子構造が一つの結合構造だけでは表現できず、いくつかの結合構造の重ね合わせとしてしかトポス化することができないような、そういう共鳴状態にあると、とりあえずいってよいだろう。天国や楽園というのは、両者が絶対空間という座標のなかに局在化し、一、二、三次元に還元されうるようなユークリッド的大宇の一部としてあるとは、意識されていない。目に浮かべることもできないような、もっと多くの次元を秘めた空間であり、現代の位相幾何学者が問題にするような無数のよじれと特異点を含みもつ多面多様体といってもよい。

 

 

2. ポスト・堕落の世界:内部による外部の回収

2.1.                    堕落:ロゴス交通の逆流

天との不断の共鳴が続いたままであることこそが、二人にとって唯一のありえる状態であり、また考えられる状態であった。楽園とそれを取り巻く存在の境界は、未分化で、内部と外部の区別は存在しなかったといってもよい。楽園は、地理上は天然の障壁によって隔離された場所であっても、二人の感性において楽園は外部も内部もない一元的な場であった。この状態をはずれることは、人間の思考と言語をぜっする状態であった。

両者が一元的にロゴスをつうじて対等に交流することを可能にしている条件は、神への従順を守りつづけることにある。従順であるかぎりにおいて、神的存在と人間との間に霊性の度合いの違いという差があっても、それは無視しうる誤差なのである。一元性を保障しているのは、自由意志によって契約を遵守することであって、しかもその契約の内容は「〜をせよ」という肯定形の命令ではなく、「〜をしない」という否定形の規則である。否定形であるということは、禁じられていることをしないかぎりなにをしても自由であり、肯定形のようにたえず定められたことだけをしているという息苦しさはない。交通を可能にしている条件は、否定形で語られる契約内容の遵法なのだ。神への従順という絶対者との関係における上下の観念があるといっても、人間の側の主体的な意志がどうありたいかという意欲の自由が、最大限に許容されている。

にもかかわらず人間は神にたいして不従順の罪を犯し、その一元性に裂け目を入れてしまう。ここにおいて、たんに物質的な意味における交流だけではなく、広く精神的コミュニケーションまでをもふくめた広義の交通が破綻する。交通は、外部の異質なものとの出会いとして、意識されるようになる。これまでスムーズであった交通のよどみをあらわす典型的行為が、人間の堕落後に、人間を裁くために楽園にやってきた神の子にたいする、人間の対応である。人間は、神の子の「声」(10116行)を聞くと、むしろ恐れるようになり、神の子と出会わないように樹の茂みに隠れる。無辜である神的存在と、罪を犯した人間との間に生じてしまった根本的な裂け目は、ロゴスへの恐れ現象として顕在化する。堕罪とともに人間は、神的存在にたいしても、天というトポスにたいしても、スムーズに流通しないロゴスのよどみをもつようになる。人間は、距離を隔てて相対するようになる。このよどみは、もちろん「知識の樹の実を食べてはならない」(4423-424)という神との契約・言葉を守らずに、堕落したことから起こっているわけだが、言葉を守らないことは、ロゴスの還流にただたんに歯止めをかけていることなのではない。その堕落は、交換システムの転倒までをも含んでいる。

堕落がなぜ起こったのかを神の子に申し開きしたアダムの説明を、神の子はこう要約している。「お前は神の言葉よりも女の言葉に従った」(10145-146行)。交通において重要な媒介となっている言葉は、たんに相手との意思疎通をはかるための手段などではなく、宇宙全体の秩序そのものをも転倒しかねないのだ。

こうしてすべてが内部であって外部が意識されなかった楽園は、もはや後戻りすることのできない理念的空間となって、追憶の対象になる。楽園から出ていく二人の一歩目の着地は、未分化な所から、分化がすでにいつもある場へと、これからいつも人間を否応なしに追いこんでいく。空間は絶対空間となり、時間も「時の流れ」(12554)として、均質で計測可能な連続量になり、いわばすべてが内部というこれまでの状態をちょうどネガにしたような状況のなかで、堕落後の人間は生きていくことになる。内部にあったはずの楽園も、地理空間という緯線と経線の割りふりによって碁盤の目状になった地球のある特定の一地域(メソポタミア)に指定される(11829-831)。いっぽう天は、人間の歴史のはるか延長上に訪れる終末において実現される場であって、このいまの地上とは質的にまったくことなり、いまの時点ではけっして融合できない外部として意識される。その外部がふたたび内部となるのは、御子が雲に乗ってやってくる終末まで待たなくてはならない。「〔劫火%ごうか%〕の塊のなかから、清められ精錬された新しい宇宙と地球があらわれ、終わりなき時代が続く」(12547-549)

ひとたび楽園から追放された人間には、楽園状態にあったときのように、もはや神的存在とまったく自由な交流が可能な生活は、許されなくなっている。堕落後の人間は、神的存在と人間、天と地という対立下において生きることを、よぎなくさせられている。堕落後の人間にできることは、外部が支配的な二元対立のただなかに生きながら、そこで出会う困難や労苦にいたずらに不平をいわず、それらを神の摂理にしたがって甘受することである。

 

 

2.2.                    内なる楽園

では新世界にあっては、すべてが外部化してしまったのかというと、そうではない。かつてそれまで潜んでいた楽園の土から神の手によって出現したアダムは、自分が楽園に所属する存在であることを強く意識している。楽園は「最終の安息地、生まれ故郷」(9957)である。その意識は、「生きているあらゆるものの母」(11160)という楽園の呼称(「あらゆるものを産みだす母」(5338))を思わせる名でよばれるイーヴへの愛着とも等しいといってよいだろう。その愛着は、ちょうどイーヴにたいして感じた「自然の絆」(9957)があるように、アダムの内部にまで浸透している。アダムはそのイーヴとともに、楽園からの離脱を余儀なくさせられるが、いったん楽園の外部に着地しても、強烈な大地への郷愁と、失われた楽園へのメランコリーの感情をいだきつづける必要はない。外部の自然は、むしろ歴史のはるかかなたにやがて来るべき、こんどこそ永遠の楽園の到来を予表し、その予告にあふれているのだ。外部の自然のなかの「平地でも広野でも、神はここ[楽園]にいるように[楽園以外の場所でも]存在し、同じようにその臨在がみいだされることだろう」(11349-351)。神が自然のなかに存在していることの〔徴%しるし%〕は、神学では「神の足跡」といわれている。ルネッサンス期にはこの考え方は随所にみられる。[4]自然は、聖なる要素をことごとく剥奪された、ただたんに計量計測化される事物としてあるのではない。神が刻みこみつけた徴が粒子となっていたるところから出現しているのだ。

神の足跡をつうじた人間と神との交流は、「内なる楽園」(12587)として確保される。「内なる楽園」という、この詩を神聖喜劇として語るときによく引用されるもうひとつの楽園が、新世界にあっても準備されている。終末までの一連の人間の歴史をみて、信仰を深めるアダムに、天使ミカエルはもはやエデンの園から嫌がらずに立ち去ることができるだろうという。こういいつつ、荒野にして外地である新世界で生きていくときには、人間はこの楽園よりも、「はるかに幸せな楽園を心のなかに所有するだろう」(12586-587)という。それまですべて内部であった空間は外部、つまり外在化する計測可能な具体的場に変貌し、楽園もその例外ではない。ところが、その外部とは別に、精神という場に内面化される「内なる楽園」という内部がここで生まれている。不可視の神的存在と自らの心のなかで対話を行なうことは、瞑想といわれるようになり、内なる言葉による内的交通によって生まれる精神的空間が、内なる楽園となる。[5]

もちろんこれは宗教思想に独自の考え方ではない。絶対空間を全面的に支持するデカルトでも、その視覚モデルにおいて暗にこのような計測不能の内的空間はきちんと確保されている。計測可能な外的世界の個別具体をみる肉眼は、鏡が外界を映しだすように、外界の実在をその網膜に映しだしている。その映しだされた網膜像を、知性は精査するわけだが、どうやって精査するかというと、知性に備わった心眼によってである(図5)。劇場にたとえるなら、網膜像は舞台に登場するものごとであって、そのものごとを眺める観客が心である。この心は、舞台が縦横高さのある外的存在(延長実体)であるのにたいして、非延長実体として別系列のものである。内界は、外界の認識とは異なって、主体自らがそれを所有していることを疑いえないが、外界の延長実体に関しては所有を疑うことが可能である。延長実体には現われと実在の区別があるのに、非延長実体である内界にはその区別がない。現われがそのまま訂正不可避に実在なのだ。主観的に訂正不可避という意味では、この楽園は神への信頼が揺るがないかぎり、きわめて強力な鉄壁でかためられた場になっている。

 

 

2.3.                    内部の優越、外部の矮小

ここからあとは、もうすでにおなじみのデカルト主義心身二元論と、そこから派生する道徳的成長論の世界が、展開する。精神という内部に、外部とは異なった原理原則で律せられる理念を、堕落したアダムは、ミカエルの見せる光景とその語りをつうじて手に入れた。「神の足跡」が散在しているとはいえ、外部となった社会のなかで生きていくために必要な道徳価値が、アダムにおいて内在化されるといってよい。「内なる楽園」をもつという天使の預言にさきだって、アダムは天使にむかって、「神に従順であるのはよいことだと、いまからわかるようになりました」(12561)という。そういいながら、神への愛と信頼、逆説的力関係への誇り、御子の範例にならう堅忍といったキリスト教の徳目をまとめている。天使もそれに呼応する徳目をあげていく。これは、あるべき姿のキリスト教徒として、外的世界のなかで生きる一般的指針になっている。たとえ外部の世界において、人間にとっては理不尽の受けいれがたい出来事が起ころうとも、最終の審判による帳尻合わせによって、その不合理は解消されるのだから、こうした道徳を受け入れよと勧めるのだ。判明―明晰という方向性をもって外界に対処していく内的理性が、なにかを解明不能と判定しようとも、終末への期待とともに、「神が現存するかのように歩む」(12561)ことによって、それに耐えていくのだ。他人や外的な権威などに左右されないような内的な世界を確保しているかぎりにおいて、世界はどんなに不条理にみえようとも、神の義が貫徹している閉じられた均衡の体系が、そこに確立されているのだ。時間において終末観、空間においては神の臨在とともにある内的精神世界――この両者への確信によって、多種多様でありえる外部世界は、一義的な明解な言語によって説明しつくせるものとして理解されるようになる。

こうして堕落によって成立し、楽園出立ととものはじまった外部は、終末までの中間時の経過途上に出現しているものとして位置づけられる。終末が完成時であって、それまでは完成に至るまでの中間時なっていて、この世という意味の世界は、堕落前の楽園と終末後に完成する楽園という、それぞれすべてが内部の状態である時代に両側からはさまれた歴史のなかでおこる、朽ちていくものなのだ。外部がすべてが内部であった時と、終末においてすべてが内部になる時と、そういう二つの時にはさまれることになる。「そのとき[終末時に]地上はことごとく楽園となり、エデンの楽園よりもはるかに幸せな場所となり、はるかに幸せな日々が訪れる」(12463-46)のだ。堕落、楽園出立は、そうした内部の普遍的な時空に生起した出来事にすぎない。内部と外部という二項対立は、確保されながら消されていく。始源と中間時と終末という三対項によって、終末という完成した段階から始源も中間時もとらえなおされ、すべてが内部になっている。外部と内部との対立は、内部が終末に置き換わり、終末が天から突然降ってくるような形式で、始源と中間時を終末の準備の時代としてとらえる。この構造によって、すべてが内部化されているのだ。

堕落という罪ゆえに、内部と外部と二元化し、それに引きつづく外部荒廃の過程を正当な視点から語りうる資格をもっているのは、内部を見据えた言葉でしかない。内部はふたたびやがてやってきて、いまでこそ確固不動でそのまま存続するかのように思われる外部を、内部という領域に包摂するのだ。外部の言葉は、たとえそれがどれほど明瞭に現象やその現われを語りうるとしても、けっして一度失われた内部とやがてくるはずの内部とのあわいにあって、内部の実相には到達しえないのだ。内部と外部の心身二元論は、この両者を決定的な対立関係に追いこむ。実相にとどきまたとどいている内的なものは、現象と対面しその記述だけに終わってしまう外的なものに、いつもかならず優越する。まるでプラントン主義やストア派哲学のように、外的なものは内的なもののなかに包みこまれてしまう。内部は外部に先行し、かつまた後続するのであり、そして内部は内部自身に根ざした清純で霊的な言葉で、その事実を語ついでいく。内部は、外部にたいする絶対優越性を記述し、それを記憶しつづける。そのことこそが、外部世界で生きていくための知恵であり道徳にほかならないのだ。

 

 

3. 問うという愚鈍:内部からの離脱と内部への回帰

3.1.                    生産的な作品の意味内容

サタンは、すべてが内部であるはずの世界において、おそらく最初に外部と内部の二元対立を産みだした創造者である。創造者としてのサタンの偉大さなどというと、この作品においてサタンは悪を代表する寓意人物であるから、そんな人物像に偉大さといった積極的価値をあげつらうことは、神学上うけいれがたいし、当時の文学慣例にも反することだとして、〔一蹴%いっしゅう%〕されてしまうかもしれない。事実、この詩のサタンにみられる偉大さを、最初に公言した19世紀ロマン派の詩人たちの批評は、20世紀の批評によって、実証的に否定されつづけてきた。[6]今世紀の批評は、初代教父からピューリタンにいたるまでの神学と、ルネッサンス期の文学慣習とを、丹念に洗いだし巧みに要約し、秩序と論理に反逆する自我へのあこがれ、情動の安易な発露に共鳴するロマン主義者たちの誤りを訂正してきた。サタンは傲慢によって堕ちたという聖書釈義をもちだして、それをこの詩のサタンの行動にあてはめた解釈がなされた。[7]御子の地位への嫉妬、あるいは栄光や支配への欲望が、神にたいするサタンの反逆動機であるから、サタンにみられる勇気、志操堅固といった古代ギリシア・ローマ型の英雄の美徳は、割り引いて考えなくてはならないといった警告も発せられた。[8]読者受容論の立場からは、私たちがサタンに少しでも共鳴することによって、「ミルトンは、読者にたいして、罪の源は読者自身であることを充分に認め、そうした事態を読者が嘆かざるをえないようにしむけているのだ」とも分析されてきた。[9]

こうした方向の批評に一貫しているのは、作者が作品を統括し、作者の頭のなかにある意味内容を、作品という言葉の集合体によって表出しているという構図である。この構図にしたがっているかぎりは、そこにもられた意味内容、この場合でいえばサタンの偉大さに、プラス価値を認めることは、そのまま自動的に作者は「悪魔の徒党」であったという認定証をだすことになってしまう。厳格なピューリタン詩人ミルトンが、悪魔の仲間であるわけがないではないか、したがってサタンに偉大さは認められない、ということになる。これは論点先取の誤謬といわないまでも、作者が作品にもりこもうとする意味内容をいついかなるときも統整するという、作者=操作者の発想に自縄自縛されてしまっている。操作者の意図が、言葉による意味生成をいついかなるときも水路化しているはずだから、正しい作品の読み方とは、作者の頭のなかにそもそもあった意味内容を読みとることだ、という単純な等式が成り立つ。ここで作者の意味内容は、起源として特権化され、私たち読者はその忠実なるコピーを再現することを迫られるという、抑圧の運動がはじまる。[10]

特権的起源として作者の意味内容は、作品という言葉の集合体に読者が読みはじめる以前からすでにレッテルのようにはりついている。しかし現代思想の洗礼を受けた私たちは、そのような読み方は複数ある読み方のひとつであって、そんな読み方だけが唯一絶対ではないことを学習済みである。ひとつの作品のなかには、その作品に固有のひとつの意味内容が封じこめられているなどという一義性を、私たちはもはや信じていない。かといって言葉の集合体には、さまざまな意味内容がいろいろな層をめぐって縦断していると安直に考え、意味内容の多義性を認めることが、作品のこれまでとは違った新しい読み方なのだといっているわけでもない。そうではなく、ここでいわんとしているのは、解放された一義性であって、デリダが散種といい、クリステヴァはゲノ・テクストと呼び、フーコーが言表と名づけているものである。作品を、その時その場で、誰が、どういう状態で、その人の精神に喚起されるどんな諸系列の連想と共鳴しながら読み進むかによって、異なった意味を生産していくということである。その結果、当然のことながら、作者はもはや作品に固有の一義的意味を付与する起源としては、特権化されなくなる。

意味を生産するテキストという観点にたつと、二元世界の創造者としてのサタンに偉大さをみいだす禁忌から、私たちは自由になれる。ひとたび自由になるなら、サタンの偉大さは「問う」ということにありそうなことがわかってくる。サタンの偉大さは、神に反逆したことでも、負けたあとも負けると知りつつ反逆を続ける滅びの美学の実践にでも、人間や天使たちを雄弁によって誘導しまんまとだます詐術にあるのでもない。そんなものなら、ちょっと気のきいた扇動者でもなんとか模倣できなくもない。

そうではなく、すべての被造物が疑問をもたなかった、被造ということを自らへの問いとして受けとめて、それを自らの理性によって詰めていき、外部から降るようにやってくる自己規定を破ろうとしたことである。外部から降るようにというのは、「創り主よ、私を土くれから人間にかたどって造ってくださいと、お願いしましたでしょうか」(10743-744)といったように、こちらの意志とは無関係に勝手に、気づいたときにはすでにいつもそうなってしまっているという状態のことである。そうなっていることに、こちらから苦情や不平をかりにいうことがあるとしても、そういう苦情や不平をいいうる意志そのものが、外部から降った結果としていまここに自分がいるからこそ生じている。降ったことによる自己規定を問うとは、神によってあるいは神の贈与というものをそれは強制なのだと受けとめて、その強制によって構成される秩序なり構造なりを疑い、すでに既成のものとなっている構造の外に出ようとすることである。

 

 

3.2.                    質問者のアダム

すべてが内部であったとき、そこにはロゴスのよどみなき循環があったと述べた。その例のひとつとして、アダムがラファエルにする質問とその解答をあげた。アダムのだす質問には、ほとんどきまってそれにふさわしい解答がそなわっている。

アダムが間接的にだが、地上の食物は天の食物と異なっているはずだから、天使の口には合わないという質問にたいして、すべての事物は天も地も同じ素材でできているから食べられるという解答があたえられる。「神への従順を欠き、神の愛を捨てる」(5514-515)ことができるはずはないという疑問にたいしては、サタンの反逆という前例を引いて、それが可能であることを教える。天地創造の由来というアダムの次の疑問には、御子を創造主として神が委託したことがわかりやすくていねいに語られ、被造物界では人間が支配者であるという教訓も、そこにつけくわえられている。天が動くのか、地が動くのかという科学的問題には、それはどちらでもよく「謙虚にして賢明であれ」(8173)という解答が待っている。このような一連の問題も、知りたいという「欲望を節制することが必要」(7127-128)だという、道徳的注意によって抑制されている。どこまでも問題を出しつづけてよいわけではない。欲望を自然に抑止することが、要求されているのである。

アダムのだす問題とラファエルの解答は、いわば二重の意味において、算数教室で生徒がだす質問とその答えのようなものだ。先生は生徒の質問にたいして、あらかじめどのような答えが正答なのか、正答のすべてを握っている。先生は、質問者にむかって、自分が前提としている体系内から導きだされる正答を開示する。しかもその正答の提示は、コンピューターのだす正答のようにあじけないものでなく、教訓がいつもつきまとっている。5006パーセントが30であることはたんに算数上のことだけではなく、一年後の貯金に利子がいくらつくかの計算として役立つといった、実生活に密着した教訓のおまけがついているのだ。質問への答えは、質問者をますますその秩序内へと引きこみ、秩序の正しさをゆるぎなく確信させる。

そこでの正解は、科学でいう追試によって確かめられる答えと同じであって、たしかにその説明体系内では誤っていないのだが、その答えの正当性なり答えの背後にある秩序体系の正しさそのものを疑うことは、暗黙のうちに禁じ手になっている。500630も自然数であるが、自然数のすぐ隣にある無限小数も、自然数よりもレベルの上がった虚数ではパーセントという割り算は有効かといった問題の立て方は排除されている。解答がまず先にあって、問題が後からでてくるようになっているといってもよい。[11]

このような形式下においては、うなずいて理解することと、次から次へと浮かぶ疑問を節制をともないながら言葉にしようと努力することは、肯定的に受けとめられる。従順の鏡たるアダムの態度は、ほぼ全面的に是認される。ラファエルの解答を突いて食いさがり、異なった秩序にもとづく別な体系を構築しようと、哲学的批判に覚醒している、そんなアダムは想像することができない。実際にアダムは、イーヴにたいして感じた愛によって理性が揺らいだ状態を説明して、強くラファエルから注意をうけると、自分の品位を下げるようなことをいってしまったと恥いり、ややあわて気味に申し開きをする。「私の諸感覚はさまざまな対象と出あい、さまざまな形で現前しますが、それでも私はとらわれず自由に、最高のものを選んでいます」(8609-611)。天使にむかって抗弁することは、思いも浮かばない。すでに既定の秩序からはずれることや、そういう秩序とは別な秩序を自らの知性によって構築することは、許されてもいないかのようだ。

もっとも天地創造のあと神の子と議論するアダムの場合には、アダムは神の子にむかっておそるおそる反論を一度だけする。ここでの神の子とアダムの関係は、ラファエルとの関係ように、もちろん教師と生徒の非対称の上下階層はゆるがないのだ。ここでの神の子は、産婆術をつかい弁証法の渦のなかに相手を巻きこんでいくソクラテスのように、皮肉(イロニー)にあふれている。アダムが提起する問題にたいして、神の子は一応の解答をだすだけであって、それはまだ解かれていない問題へのひとつの解答の試みにしかならないように、暗に意図される。種が違っていれば「交わり」(8383行)はありえないという疑問にたいして、神の子は、神自身に次位のもの、似ているもの、等しいもののいない単独の超越者であるという解答をだす。するとアダムはその答えに控え目ながら反論して、人間は一にして全である神の子とは異なって「単独では欠陥です」(8425行)と答え、やはり「対等の愛と親しい交わり」(8426行)が必要だとして、自分がこのままでいることに疑問を投げかける。ここで神の子は、アダムが人間と他の被造物の違いを了解していることの確認していた。神の子は、おおいに満足げな口調で、アダムの識別判断力を試していたのだといって、アダムに全面的に同意する。ここでもしょせん最終的な解答をあらかじめはじめから握っている、教師=神の子がいる。神の子はソクラテスと同様に、相手の能力を試しつつ、相手を正答へと導いていく。

アダムの態度は、あきらかに教師―生徒型にみられるように、ただ従順に相手の教えの理解につとめ、言葉の意味を理解しようとする、たんなる受動的な質問者ではないことはない。だがだからといって、どこまでも問い続けていく強靭な意志と、それこそ「規則も基準をも越えて」(5297)解答と質問の連鎖を無限級数的に迫っていく意欲とが、アダムからは抜け落ちている。ラファエルからの警告にあるように、質問をするアダムの意志も意欲も、「人間の分限」(7640)の範囲にいつもおさまっているのだ。アダムの精神はあくまでも内部に留まりつづけていて、神─天使─人という共同体以外には考えられないのだ。アダムの停留状態は、「分限」という言葉が尺度、量的比較の基準という意味でもあることが暗示しているように、やがて暴力的に侵入してくる外部の秩序(新世界秩序、サタンの秩序)といっけんすると背を向けているようだが、その実、類比の関係にあるのだ。

 

 

3.3.                    問いかける傲慢のサタン

「分限」の内部に留まるアダムとは異なって、サタンには、神によって表象される存在のあり方や、存在の生い立ちそのものが、問いとして迫っている。アダムにとっては質問であり、天使が正答を与えることができる種類の問題が、サタンにとっては問いとなっている。「この世界と物事の外形の始まりは最初にどうあったのか」(7636)というアダムの質問は、アダムの「記憶が成り立つ前に、なにが起こったのか」(7637)ということだから、アダムよりも時間のうえでは先に生まれている天使には答えることができる。だいいちアダムの質問は、ラファエルの解答と同様に、どういうことがどんな順序で生じたのかを客観的に記述をすることが、第一目的ではない。天使に崇敬の念をいだいているアダムは、それこそ人間の分限を守ることに熟知していることをはっきりと言葉にしながら、質問している。「私たちが神の永遠の国に問うのは、その秘密をさぐるためではなく、多く知ることで、神のみ業を知り、賛美するためです」(795-97)。たんなる好奇心から、質問しているのではない。盲目的あるいは独善的に神の業を賛美するのではなく、神による世界内に現象する事柄についての知識を豊かにすることで、知識とは異なった信仰を深め、自らの倫理性を高めようとしているのだ。ところがなんと神がどのようにして創造したのというこの同じ質問が、サタンにとっては、「記憶が成り立つ前に、なにが起こったのか」を知りえないがゆえに疑わしいことであり、神にしたがう多くの天使たちのように、充分に納得ができる再認の対象とはならない。

もちろん自分は神によって造られたのかというサタンの問いと不信は、サタンが自らの欲望を正当化するために捏造し、むりに自ら信じこみ、多くの天使をサタンの側に引きこもうとして公言しているのだと、考えられなくもない。ラファエルは、サタンが神に不従順となったのは、メシアと宣言された神の子への嫉妬と、御子の登場を自らの地位の下落ととりちがえる高慢だという(5662-665行)。そのラファエルが天上でのサタンの演説を正確にいまアダムに伝えているという条件を全面的に認めたうえでの議論になるが、サタンはほかの多くの天使たちとは違って、神に服従することに不満を感じている。[12]神への拝跪だけでもうんざりなのに、御子にまでもするのは、自らの尊い称号にもかかわる屈辱だと思っている。

サタンはそもそも天に生まれた、天の子である自分たち天使は、かつては誰にもいっさい支配されていなかったと信じている。「全員が平等というわけではなかったが、支配されずに自由である点では等しかった」(5791-792)。秩序と階級があって互いに横並び一列ではなかったが、それだからといって自由が阻害されるわけでなく、自由があった。「全員が平等というわけではなかった」わけだから、サタンは、神が上下の秩序によって天使たちをそれぞれ階層づけることには反対していないかのようだ。天使たちはかって気ままに行動しているのではない。それでいて天使たちが、「支配されずに自由」でありえるのは、神はなにか事柄を決定するなり執行するときには、たとえば自然法にかなったことをしているから、ということになる。ところが、神が「生んだ」(5603)御子は、あたかも世襲君主のように、自由に生きている天使たちのなかで最高位と神によって指名され、天使たちの「頭」(5606)に任命される。神が御子を頭として上下の秩序を神の都合のいいように改変するのは、これまでの自然なあり方に反している。自ら天使と等しいものであるはずの御子は、たんに現在の王たる神の直系という理由で、天使たちを治めようとしている。

こうした問題の立て方をすることによってサタンにみえてくるのは、神による君主制である。上下階層秩序はあるのかもしれないが、それは神を頂点とするものである必然性はない。神の子を神に次ぐ第二の地位につけることは、神が王として君臨する以前からあった、自由の保障された上下階層秩序のあり方を、転倒させるものである。神の〔縁者ひいき%ネポティズム%〕は、秩序の自然に反する行為なのだ。サタンのロゴスは、「『失楽園』における鏡であって、この鏡をとおすと神が暗く見えてくる」のだ。[13]

もちろんこれにたいして、神の側についている天使から、反論があがる。神は御子を通じて、天使を含めてあらゆるものを創造した善なる存在なのだ。こう反論する天使アブディエルは、サタン、そしてもちろんアブディエル自身をも含めて、神=創造者、天使=被造物であるがゆえに、平等ではないという根本的規定をおこなうのだ。CS・ルイスの単純明快な僭制の定義を借りていいかえるなら、「自然に平等な者たち」の一員でありながら、「自然に平等な者たち」を支配するのが僭制なら、神は「自然に平等な者たち」の一員ではないのだから、天使という「自然に平等な者たち」の集団を支配することは僭制ではないということになる。[14]むしろ御子が神であるにもかかわらず、天使に代表される被造物の一員としてその頭になることは、被造物全体の幸福をまし、格上げすることになるではないかと説明する。

 

 

3.4.                    創造への問い

それでもサタンは、「創造の技を目撃したものがいるのか、創造主がきさまを造ったときのことを、覚えているのか」(5856-858)という。良識にもとづいた常識的な解答によって、サタンの問いは威圧されない。[15]視覚という正確に外界を把握する経験的感覚にもとづきながら、実際に観察しておまえは話をしているではないだろう。神礼賛の議論の根にある経験事実とやらは、なんのことはない、お前の直観ないしは推測ではないかと、問うのだ。アブディエルは、あたかも神による創造を目撃したかのように語ってはいるが、神以外の誰もそんな行為の目撃証人でありえないではないか。そんな記憶をもっていないではないか、というのだ。

アダムの場合には、自分が神によって造られたことの記憶こそなかったが、「心眼ともいうべき想像の部屋は開けはなしてあった」(8460)ので、自分のあばら骨を素材にして、イーヴを神が創造したときのことは、きちんと覚えている。ところがアダム自身も自らが創造されたときのことは記憶にないし、天使たちもそれは同様である。「我々は、現在のように自分が存在していないかつての時などは、知らない。我々が存在する以前に存在していたものなどは、知らない」(5859-860)。記憶がたまたま薄れていて、自分が今ここにある以前の時や、以前に存在していたものを思い出せず、正確な記憶像を心のなかに形象化できないのではない。そもそも自己意識がなかったのだから、自己意識成立以前の時がどんな状態であるかがわからないといっているのでもない。天上の天使たちにとっては、時は永遠の今aevumであるはずだから、自己が成立する前と後という区分は永遠の相においては意味をなさない。自己は永遠の存在であり、自己意識成立以前の時も、成立以前の存在というものも、論理的には存在しない。[16]そこで「自分自身の生命力によって、自ら生まれ、自ら出現した」(5860-861)という自力発生説になっていく。[17]生成の力が、未発のままに内蔵されていて、この未発の生成力が、ほかからなんら働きかけもない状態で自然発生的にあらわれでる。その瞬間から、天上独自の時間と空間の様式が展開していくのであって、この発生を始動する第一動主などは、時間と空間が展開していく途上で、事後的に仮構されたものにすぎないのだ。[18]

サタンが罪を犯す行為にでたのも、アブディエルが推測しているように、「神への不敬の怒り」(5845)にまかせているわけではない。サタンのここでの言葉を信じるかぎりで、サタンは被造物であることが信じられなかったからだ。アブディエルのような自己同一性を、単純に信じられなかったのだ。そもそも自己同一性というのは、主体が自分は何であるのかを自らむかって語り、自らによって語られた内容を確認しまた吟味しつつ、自らを形作ることである。ンヴェニストが別な文脈でもちいる言葉を使っていえば、堕落以前の人間と天とのあいだに存在していたロゴスによる交通とは、他者との対話である以前に、主体との対話であって、主体が確認していることを語っている。[19]確認や理解不能なことを語ってしまう場合には、それが主体自ら理解できないことに気づいている。サタンは、神による支配への徹底した不信をひとつの自然とみなし、そのいかにも不自然な自然とは別な、もっとも自然であるはずの自力発生の秩序像を描きだす。いま実現している神の秩序とは異なった秩序を、言葉によって仲間の天使たちの心の内部に築きあげる。その意識が天使同士のあいだで共有されるかぎりにおいて、内部の自然な秩序(自然な自然)において、自分たちの尊厳と平等が実現していたはずの平和な光景が現在モードで描きだされる。その平和は、本当は僭主にすぎない神による、不自然な外部の秩序(不自然な自然)が実現していると信じこむことで、成り立っている。その平和は、そうやって内部と外部とのあいだに境界線を仮構する。その仮構は、自然な秩序なるものが天使たちの心のなかで共有され、あるいはまたサタンの心のなかで所有されるかぎりにおいて、信憑性のある事実として認知される。

ここで肝心なのは、仮構された自然秩序が虚偽か、不純な動機によって構成されたものだとか、ましてや神の意思に反する悪だなどということではない。なぜなら、虚偽、不純、悪はその反対の概念なしにはありえず、その真―偽、清純―不純、善―悪の二元性が生まれてくる背後にある秩序を誰が成り立たせるのかを、サタンは問いにしているからだ。二元性というオブジェクトレベルにかんする質問は、アダムのような従順な被造物にいっさい任せておいて、二元性の源である超越存在が誰なのか、その主権をめぐる争いというメタレベルにむかって、サタンは問いをつきつけているからだ。

あるいは記憶との関係でこういってもよい。創造の過去は、そもそも本当は記憶されているが、経験的にはたまたま一時的に忘れてしまっていて、記憶によって再生できるといったようなものではない。経験的に忘れさられてしまったことは、かつて私がこの眼で見て、理解し、思考したものなのだから、記憶の力を働かすことによって、それをいまいちど捉えうることは原理的にはできるはずである。ところが創造がおこなわれたそういう過去はいわば大文字の過去であり、かつては経験によって直に捉えていたが、いまは時間の経過によってその経験への記憶が薄れ失われてしまったものなのではない。最初から思い出しえないものである。だから、ひとつの偶然的な過去の断片でもなければ、記憶のたまたま抜けおちている箇所でもない。過去そのものの存在とか、時間全体の過去といえるのであって、記憶の限界の向こう側に、記憶されるべきこととしていま現にここに生きていて、それを感じることが要請されているものなのだ。

この大文字の過去がなんだったのか、その問いをどこまでの突きつめていくなら、それによって感性は感覚されるべきものを感覚せよと強制され、次に強制された感性は、本質的に忘れられているものを、思い出せと記憶に強制する。その結果、記憶は、それまでの記憶の経験的限界をこえて、超越的に行使され、感覚されえないものであった思い出されるべき創造の過去を想起する。その思い出されるべきものに至ろうとするなら、理性をふくめて身体感覚は暴走する。その途上にみえてくる一応の解答は、サタンのように、自分自身を王とする秩序といった出来合いの、誰でも安易に考えつく答えにはなるはずがない。だいいち「創造の技を目撃したものがいるのか」と直観ではなく直接経験に訴え、経験にもとづいてこそ事実認定ができるのだとという論理は、サタン自らに振りかかって自然発生説をくつがえしてしまう。「自分自身の生命力によって、自ら生まれ、自ら出現した」(5860-861)ことは、自分のより遅れて生まれてくる生物の場合には「目撃」できかもしれないが、自分自身が自生することを自分ではみることができない。サタンは自らの論理によって、自分がよってたつ基盤を引き裂いているわけで、神に復讐しようとする「不屈の意志」(1106)とおなじヴォーテージで、創生の問いをつきつめるだけの意気は、阻喪しているかのようなのだ。

 

 

3.5.                    再認の秩序への回収

サタンは創造の過去を、どこまでも問いつづけて、向こうから迫ってくるものとして最終的にはうけとめてはいなようだ。サタンの問いは、御子が登場し天使の首に任命されることによって、「自分自身の価値が貶められたと思い」(5662)、秩序のなかでの自らの真価の再認に失敗し、それまで疑いもしなかったであろう秩序を疑っているようだ。サタンは、神の秩序はあるべき体制ではないではないか、本当に神は私たちを創造したのかと、疑問を投げかけている。しかしせっかくのこの懐疑的問いは、あらゆる前提を拒否する懐疑ではなく、局所的な懐疑に堕しているのだ。[20]この問いが徹底した懐疑論であったなら、サタンは結局、神の形而上学と並ぶ、もうひとつのサタン中心の秩序体系を構築するという帰結に、導かれなかったはずだ。ましてやその新たに構築された秩序のなかで、サタンは自らが真価と思うものを自らのうちに再認するという観点にはまるはずはない。

サタンとアブディエルが同じ境位にあるといえるのは、真(起源)とそのコピー(言葉による主張)とのあいだに類似性がなくてならないという視点が把持され崩れていないからだ。両者はそろって、疑われている秩序も創造という事件もともに、真なるものはこうだった、だから自らの主張は正しいという論理に支配されている。神の秩序を信じるものにとってはもちろん、その秩序とは別な秩序を信じようとするいわゆる堕天使にとっても同様に、信じそう考える者たちの意志は良識にあふれるという前提も、共通して生き残っている。アブディエルにしても、サタンにしても、それぞれ相手の主張は現実に起こったことを忠実に反映していない偽、その主張をする意志は良識を欠き、怪しげな推測、臆病、傲慢などの自己に都合のよい欲望が混じっていると、相手に突きつけている。真と良識が、起源とコピーとのあいだになくてはならないという出発点に、二人は立っているのだ。

したがってこの出発点にひびをいれさえすれば、その出発点から紡ぎだされ構築されている秩序にどれほどの調和があっても、それは脆いものとして価値が減じられる。アブディエルもサタンも、その主張する秩序はそれぞれ異なってはいても、お互いの感覚や理性によって確認されえる有機的体系であって、そこに自らの思考を関係づけている。どちらの表象化された秩序も、諸感官や共通感覚が共働している範囲内にあるのだ。それらの秩序が超越者を神にするか天使の誰か一人にするかという点で、両者はまったく正反対に向いているが、ともに思考されうる再認の有機的対象という意味では、同じ土台のうえの議論なのだ。

図像化されるサタンには鈎爪がつきものだが、『失楽園』のサタンの爪には再認の有機的対象を引き裂くだけの暴力性はない。サタンの問うという行為は、自らの思考の内部に自分の意志とは無関係に強制的に引き起こされてしまい、自分の意志によっても理性によっても統制できずに、絶対必然的に自分が動かされない。その結果、問う行為の成果は、まるですっかり欲望に飼いならされてしまっている僭制秩序という解答になっている。その解は、再認の対象であって、向こうから無理にこちらにやってくる遭遇の対象ではない。サタンの問う行為には、自分の能力で感覚するものであって、諸能力の範囲を超えて感覚されるべきものではなく、「思考を、永遠につづく可能態から目覚めさせる敵意」が含まれていない。[21]

あるいはサタン自らが実際にそうでなかったかどうかというよりも、詩人ミルトンが私たちに喚起するこの詩のサタンは、問いを再認の対象にしているかのような動機にもとづいて発言し、実際に行動をしている。問われていることは、向こうからうりうりと自分の感覚と思考に迫ってきて、サタンの魂を根底から困惑させるような対象になる以前に、流産してしまっている。感性も知性もその問いに対面して、感性や知性のそれぞれの能力の限界が振り切れるような、超越的な使われ方をしているわけでもない。やや単純化して要約してみると、創造の過去へと問いと格闘することで、サタンの諸能力を機能させまとめあげていた共通感覚の〔箍%たが%〕がはずれるわけではないし、それぞれの能力がばらばらにはじけて、おのれの限界を超えるわけでもない。それぞれの能力は互いに齟齬もせず、共通感覚の下にこの問いを理性と感性の枠内に囲いこむのである。

サタンの問いには、問い続けていくうちに、問う主体と問われる問い、問うという行為そのものも問いになるほどの強度がない。サタンは問うことにおいて、問う自分自身の磁場のなかに巻きこまれ、巻きこまれたまま、サタン自身が問いを包みこみ、次には繰りひろげ、今度は繰りひろげつつ巻きこまれるといったように、身体が錯綜し諸感覚が暴走しつづけることがない。オイディプスは、スフィンクスの問いを解くことによって、さらに問い続けるはめになり、自らが問いの主体であると同時に、問われる主体でもあるという自己言及性の渦に呑まれていってしまう。そんな強度がサタンにはかけている。

創造への問いをめぐるサタンの感情、欲望、思考は、もうひとつの有機的な秩序に回収されてしまうがために、まるで粗大なざらざらした塊のようなものに、成りさがっていってしまっている。問いとして生成していたときにあったはずの数々の微細にして霊妙な感情、欲望、思考が、単純な秩序に束ねられ釘づけにされ、失われてしまっている。ファシスト的な価値の一元化、サタンの自己愛を満たすような固定した秩序・道徳がめざされてしまった。サタン自らが神に投影した僭制の鏡像にあたるような、僭制の成立と維持発展に、サタンの意識がしばられてしまっている。サタンは中途で自らの能力と妥協して、サタン自らがもうひとつの有機的建築をはじめている。しかもその構築物はサタンが頭になるという、神の子が頭となるのと同じような有機的濃度の高い秩序体系を造りだそうとしているのだ。創造的過去への問いによって、既存の神的秩序から逸脱しているはずのサタンは、こうして神的秩序と同じ境位に、論理的に回収されてしまっているのだ。

サタンの悪魔性は、サタンの傲慢が神の秩序に反するという道徳的な理由で咎められてきた。しかし神の秩序にとりこまれている錯覚を暴きながら、なおかつ自らが神の秩序を成り立たせている体系に、その傲慢ゆえに呑みこまれている。これこそ皮肉というほかはない。サタンのロジックは、神の形而上学を破るにはとうていいたらないのだ。構造に回収しえないものについて問い、未知を新知識で解明するようにみせながら、自己の欲望にみあうような構造を造りだしてしまうのだ。

 

 

4. 反復嫌悪の表象:内部世界への回帰

4.1.                    青白き犯罪者のサタン

なぜこのような再認への妥協に、サタンは陥っているのだろうか。どうしてどこまでも問いに拘泥することができなかったのだろうか。サタンは、理性のうえに超理性的な先験的存在を設定する根源的存在様式を問いにしていた。この問いにたいして誠実にむかいあったからこそ、御子が天使の頭となる宣言をきっかけに反逆を犯したのだろうし、また神に勝てる見込みがあると思ったのだろう。ところが、サタンが他者との関係のなかで発言していることと、自分自身との関係において語っていることとのあいだには、数多くの矛盾がある。とくにアブディエルとの議論、地獄での堕天使への説得といった華々しい他者関係におけるサタンの発言と、自分のこれまでの行為を過剰なまで自意識的に反芻するサタンの告白とをくらべると、数々のくいちがいと正反対の内容が浮かびあがってくる。天上や地獄では、「我々が戦いに勝つつもり」(6290)だとか「勝つ見込みは充分にある」(1120)と発言していたほどサタンは、自分の内心においては、最終的に「天の比類なき王」(441)である神に勝てるとは確信していない。神の被造物を堕落させるとの妙案も、たとえそれが成功したところで、サタンの予見や能力の及ばない所で、逆転されられそうなことは薄々気づいている。「恐怖と疑念とは、サタンの悩める思いを混乱させる」(418-19)。自分自身にむかって語ることをかりに真実とし、サタンの真顔なのだとすると、「俺は神への復讐をする」などと他者にむかってしゃべるサタンは仮面をかぶっていることになる。

心なる真情の吐露という点でもっとも肝心なのは、自らにむかって語るサタンが、神は「俺を輝かしき高位につけて創造した」(443-44)と述べて、自分自身が神の被造物であることを認めていることだ。「自分自身の生命力によって、自ら生まれ、自ら出現した」(5860-861)という自力発生とは正反対の考え方をしているのだ。これを仮面の下の素顔から真実の告白だとすると、サタンは、自分よりも先にただ一人の創造主がいることに疑問をいだいたから、神から離反したわけではないことになる。己の起源を忘れて、自らを完結したものと思いこんだわけではないようだ。

神による創造を認める独白は、次のように解釈されることが多い。[22]この同じ独白のなかでサタンはさらなる堕落へと下降していく。人間のほうは最初の堕落の後には祈るという上昇的な行為をしており、対照をなしている。この対照は、人間がサタンのようにさらなる仮構の可能性をあの堕落の時点でもっていたにもかかわらず、改悛によって180度の方向転換したからである。サタンの独白は、人間の道徳次元においては、これ以上サタンのように堕ちてはならないことを教示し警告しているのであると。しかしこれもまた、あまりにも神の秩序に回収されている見方だ。私たちも叙事詩の語り手を教師として、堕落前のアダムのように従順にその語られた内容を信じる生徒になってしまう。

また、これまで繰り返し、それこそしつこいまでに指摘されてきたように、神が創造主であることは、「創世記」(1)に書いてあり、御子がすべての創造に先立って存在していることは「コロサイ書」(116)で銘記されている。サタンには、自己の主体的な判断によって人間の行動の下に、自己の欲望に固執しようとする宗教道徳的な高慢という罪があることがここで暴露されたのだと、声高に主張することはもちろん可能である。[23]しかし聖書の記述を全面的に信頼して、ゆえに自らが神の被造物であることを問うサタンは不敬だというのでは、聖書を教師として私たちがあくまでも生徒であることに、終わってしまう。それではカトリック教会の聖書解釈権や初代教父の解説に盲目的によりかかり、長年にわたる解釈蓄積の重厚さの前に、それ以外の解釈の可能性にまったをかけることに、そのまましたがうことになってしまう。[24]そんな妄信的信仰こそ、散文作家ミルトンは唾棄していたし、そもそも人文主義とはそういう信仰から自らを自由にするための方法であったはずだ。[25]

ミルトンは散文時代にカトリックのように伝統によって積みあげられ作りだされたキリスト教教理に黙従することを、たとえその教理が真理であるとしても許しがたいこととしている。旧約の幼児的な信仰から解放されている私たちは、ただ教会の権威がそう教えるのだからそれは正しいと鵜呑みにするのではなく、新約の時代に生きる大人として、理性を行使して教義を精査吟味しなくてはならないと述べている。

 

人は真理をもちながらも異端者となりうる。つまりもしただ彼の牧師がそういうからとか、[ウェストミンスター]会議がそう決定したからというだけで……事柄を信じるのであれば、その信仰がたとえ正しくとも、それにもかかわらず彼の信じる真理そのものが異端となるのである。プロテスタントやピューリタンのなかにも、……黙従的信仰をもって生きかつ死んでいく者がいることは、周知のとおりである。[26]

 

神による創造をサタンが問うことは、たとえどれほど不敬と響いても、その内面的な次元においては、まさに黙従的信仰の克服という基本的構えとかさなりあっているのだ。

人文主義の基本的視点は、人間はほかのどんな動物にも備わっていない理性を授けられ、自由意志で行動できるのだから、人間は神にたいしても自由に応答できることのうちに人間の尊厳がある、ということだった。これは、理性にもとづく考察は、どこで誰がおこなってもことなるものではないという発想となっていく。事実を確定し、できるかぎり精査された明晰な説明体系のたちあげが、めざされるようになる。とするなら、サタンが神への反逆行為を内省し、私たちの目の前で心も感情も自家中毒症状のように吐きだしさらに病んでいく姿を描きだすこの詩の意図は、応報賞罰のわかりきった道徳を物語にして、再度流布しようとしたのではない。そんなわかりきったこと説くのも知るのも、ちょっとした理性さえあればをできることで、わざわざ理性だ、理性が必要だ、などと強調する必要はない。

この詩全体の基本的主張は、そもそも神は絶対的存在者として定立され、絶対善と同一とみなされ、被造物にたえまなく恩寵を降りそそいでいるという事態である。その無限の恩寵にたいして被造物は「感謝を支払う」(447)ことが要請されており、その要請は、こちらがそれに気づいたときには、もうすでにいつもこれまでずっとそうなっているという関係性において、定まっている。被造物は神によって創造されたかぎりにおいてはなるほど善であるが、「自由意志」(3102)をもって神の恩寵に応じるように創造されている。被造物に降りそそがれている神の愛にささえられて、神の呼びかけに応答していくことが、無条件に正しいことなのである。にもかかわらずその神の愛を無視して、意志が自由であるがゆえに、なにか一時的な対象に精神を集中する可能性もまた保障されている。自由意志によって、理性は自己の欲動にとらわれかしずき、神から離反しうるのだ。そのとき神の恩寵ほどに現実性をもっていないものに、自己をゆだねることになってしまう。せっかくの善性を失いかねないのだ。

その自由意志にもとづいて、サタンは堕ちた。そのことを、サタン自らがここでそう告白(471-72)し、またサタンの一連の行動をながめる神もそう断定(3102)している。しかもサタンのここでの告白からすると、神による恩寵が自分にも降りそそがれていることを認め、それにたいする見返りとして神への「賛美」と「感謝」(446-47)をささげて応答すればよいことも、サタンは充分に理解している。無限増大する感謝の「累積債務」(452)は、神と被造物とのあいだに非対称の上下関係を決定づけるが、被造物にできることといえば、その債務にたいしては神が贈与する恩寵に誠実に応答することしかない。とするなら、仮面をかぶり傲慢な問いかけをするサタンに道徳性をみいだすとしたら、それは、「神にはいつも従順に仕えましょう」などという表面的な従順の道徳ではないことになる。神に応答する責任主体としての成人した信仰者たれということになる。[27]

しかしまさにこのような道徳性こそが、「人間の分限」(7640)ならぬこの詩の「分限」、限界ともいえる。なぜなら主体が行動するときに、個人の恣意性をこえるような表象の関係に、まったく目が向けられていないからだ。行動を起こすまえに未来の時点に自らの行動をおいて現時点で眺めるときと、行動してしまったあとになってから、過去モードでその行動を振り返るときとでは、行動の主体である自分は本質的に異なった相貌をみることになるという、表象の視点がまったく欠落してしまっている。行動を起こす以前に、どれほど明確にその行動を表象するとしても、主体は実際の行動を完全に意識化することができない。これはデリダがいうように、表象が実際の原型のコピーにすぎず、ズレをはらんでしまうという意味ではない。私たちがあらかじめ模索していた行動を、どれほど意志の力を働かせて、意識的にその行動を忠実に演技するとしても、実際の行動がもつ生まの感覚は、当初の信念や思いが抽象的な観念にすぎないことを暴露してしまう、ということだ。

罪を犯した者について、ニーチェは犯罪者が実際にやった行為と、その行為をあとでふりかえって考えるとき思考(構想力)が産みだす心像とのあいだには齟齬が生じてしまい、この齟齬が犯罪者を錯乱に陥れ、活力のなえた「青白き犯罪者」にすることを指摘している。

 

「思考と行為は別のものである。さらに行為の残す心像は別ものである。これらは因果関係で結ばれているのではない。……この蒼ざめた人間がその[犯罪]行為をあえてしたとき、かれにはその行為をやってのける力があった。しかし、その行為をなしおえたとき、かれはその心像に堪えられなくなった」。[28]

 

サタンは、神への反逆行為をおこなったときには、現にその行為をやってのけるだけの力能があった。反逆行為に充分に匹敵するものであったのだ。だが、ひとたび反逆行為を自らの力でなすと、自ら反逆行為を過去モードで反芻して、心のなかに表象する。表象してできあがるその心像に、サタンは耐えられなかった。「自分がどんなものであったのか、いまはどんなものなのか、これからさらに悪くならざるをえないこと」(424-26)を、にがにがしく思い出し予測するのである。

さらに詳しくいいかえれば、サタンが御子を神に次ぐ存在して認めず反旗を翻すという具体的な行為をあえて行なおうとするとき、自らの行為と等しくなるものとして英雄的なふるまいをした。その反逆ぶりもしたたかで、新考案の大砲によって、一時は神の側についた天使群を圧倒ほどであった。しかし天での戦いに敗れ、地獄に落とされ、かつての輝きを失っても、それでもサタンは、地獄での境遇に満足せず、ほかの天使たちの思いもよらなかった復讐法を考案する。しかしそのあと、その英雄的な行為が過去モードとなり、太陽をみて自らのかつての輝ける姿を回想するサタンは、自分がおこなった行為のそのイメージに耐えられなくなくなる。サタンは、「あの方は、かの輝かしき高位についていたあの俺を創造した」(442-43)などと、告白してしまう。ルネッサンス期の文学慣行では、独白をする人物は自己の心情についてうそ偽りなく語るということになっていたから、これこそサタンの心になかにある真実だなどと短絡的に考えてはならないのだ。かといって、サタンの心情に180度の方向逆転がおこったと考えて、反逆をしかけているときの心情と反逆を完了したあとの心情との矛盾を解消しようとしてはならない。たとえば、サタンはここで「今まで忘れようとしていたこの重大な事実を思い浮かべたのだ」とか、太陽をみて思わず堕落前の輝かしい自らの姿を想起しこれまでの自然発生観をすてて被造物感覚をとりもどしたのだ、などというのだ。[29]これでは、心のなかにそれまでにあった確信を、別な新しい確信が追いだし心を占拠したというのに等しい。

行為を観念的に外側から眺めているときと、実際におこない内側からそれを表象化して評価するときとでは、ズレがあるのだ。ファウストゥス博士しかり、マクベスしかりである。超人的な知力と活力をもった人物をはじめとして、良識に逆らって自由意志を最大限行使しようとした人物たちは、ことごとくこのような運命をたどっているではないか。その運命は、自らを秩序から疎外すると、心理的に不安定になるだとか、疎外された秩序に復讐をしようとするなどという心理パターンを物語っているのではない。自らの根源的存在様式を問いつづけられなかったサタンは、青白き犯罪者にすぎないというのでもない。なぜそのようなサタンとして描きだされてしまったのかという、叙事詩の語り手の語り口に目を向けなくてはならない。堕落後のアダムにとって外部すらも内部の歴史の出来事にすぎず、すべてが内部となるような存在様式に、叙事詩の語り手がサタンの問いを回収しているのかを、さぐらなくてはらない。私たちは問いの立て方が不徹底だったのだ。サタンはなぜ問いに巻きこまれつつ、問いを掘りさげていかなったのかではなく、なぜこの詩は、ルネッサンス文学のスローガンともいうべき「楽しみつつ教える」という道徳の宗教版に、最終的に回収されるような書き方がなされているのか、それを問わなくてはならないことになる。

 

 

4.2.                    語ることの不全観

『失楽園』において語ることは、二重の構造になっている。まずこの詩全体を語る叙事詩の語り手がいる。その語り手は、第1−第3巻、第10巻において地獄でおこったことを述べ、サタンをはじめとして数人の天使たちがどんな演説をしたのかを直接話法で語る。語り手によって描出される堕天使が、自らの言葉で演説をしている。こうした入れ箱式の構造は、第3巻、第10巻における天の出来事の描写と、神と御子との対話についてもいえる。神と御子とのそれぞれが、叙事詩の語り手によって、直接話法でどのように語ったかが、私たちに伝えられる。この語り口は、第4巻のアダムとイーヴとの会話から、人間と天使ラファエルとの対話でも踏襲されている。最後の2巻で天使ミカエルがこれから将来のことを見せまた語るところでも、そのまま受け継がれている。

叙事詩の語り手が語りながら、直接話法で各人物たちが語っていくという二重構造がもう一重複雑になるのは、第4巻においてラファエルが、天上で起こったことを語るところである。アダムにせがまれて、本来は秘密である天の事柄を天使はあえて語るとき、ラフェエルの直接話法のなかでは、さらに神、御子、サタンをはじめてとしてさまざまな登場人物が直接話法で語る。ラフェエルの直接話法のなかに、各人物の直接話法が組みこまれるという構造になっている。しかしそれだけなら、他の巻に典型的にみられる二重構造をもう一重ふやしただけで、二重構造の階数をひとつあげるにすぎない。ここの叙述方法を他の巻の二重構造と質的に異なりユニークにしていることがある。それは、ほんらいは人間の言葉によっては語りえない事柄を、人間の言葉で語るという跳躍だ。「人間の感覚の手が届かないことが一番うまく表出されるように、霊的な形相を肉的な姿に類比させて、描出することにしよう」(5572-574行)。天のことがらは、人間の感覚によっては捉えられない。そこで、天の霊的なことがらを、地上の肉的なものに翻訳して語ろうというのだ。彼岸の事柄を此岸の類比で表象するときに、類比を手段にする。類比とは、神のいる超越の世界が、人間と同型の神が天という居住空間に住むといったたぐいのことである。ところで類比を媒介とした跳躍は、ラファエルの直接話法のほぼ全体についても、そのなかでの各人物の直接話法も、いつもどこかに不全感覚の影を投げかける。

 類比による語りによって、本来は人間の感覚や知力の範囲外にある天のことがらが、感覚と知力が到達しうるものに変換される。この変換はやむえずにするものであるが、ではそこで表象化されているものごとは、事実起こった事柄の見せかけにすぎないのだろうか。まったくの見せかけではないとでもいうかのように、ラファエルはすぐ次にこう付けくわえている。「とはいえ、地球は天の影にすぎず、天と地にあるものはそれぞれ類似しており、地上で考えられている以上に類似しているかも知れないとするとどうであろう」(5574-576行)。天の霊的ことがらと地上の霊的ことがらとのあいだにどれほどの類似があり、その類似性は人間が考えている以上にあるかもしれないと、わざわざ疑問文で暗示する。類似性の度合いこそ曖昧にしているが、それでも両者には類似が確実にあることはあるのだ。類比によって語られる仮象は、無作為に根拠もなく関連づけられた見せかけではなく、天という起源とそれなりに似ているという質によって関係づけられ、起源と適合している。とすると、ラファエルがこれから語ろうとすることは、たんなる見せかけというよりは、不完全な模写といったほうがよい。

ここの模写については、プラトン的解釈がある。たとえばラファエルによって語られる天の戦いは、プラトンのイデア論のように、「天の戦い」というイデアがあって、そのイデアを分有している地上の戦いが叙述されているのだ。これは天上の霊的なものを地上に肉的なものにスライドさせて、いわば天のものを地上のものに受肉化させるわけで、適合表象といえる。[30]その一方で、時間の流れという概念をいれた、〔類型法%タイポロジー%〕にもとづく解釈もある。類型法というのは、中世からルネッサンス期にかけてもちいられた聖書釈義の手法のひとつである。旧約聖書のなかの人物や出来事の記述は、新約聖書に出てくる人物や出来事の原型ないしは倒立型であって、新約において原型は完成された人物なり出来事となって出現し、倒立型は正立型となって成就する、といった具合に解釈をする。旧約から新約へと歴史が断絶をへた異なった時間の枠組みにおいて、不完全であったものが完成するという考え方である。ラファエルによる天の戦いという出来事の記述は、「やがて来るべきことがらの影であり、もっと個別的には、この世界の最後の時代、つまりキリストが来臨する時代の影になっている」と、解釈するのだ。[31]

適合表象なのか予表表現なのかどちらの解釈をとるにせよ、それらはいずれも、天の霊的なものを地上のそれに変換し翻訳することの必要十分な理由づけになっている。ところがそうではあっても、ラファエルによって語られるのは、天の戦いだけではなく、天の戦いにおいて語っている天使たちの発言や、神や御子の対話もふくんでいるはずである。どちらの解釈の立場も、天の戦いが適合表象だ予表表現だと主張するが、そこではほとんどいってよいほど、神的存在による発言や対話までもが、適合表象や予表表現になっているとは説明されない。ここまでふくめて考えるとき、どちらの解釈をとるかということのほかに、もうひとつ別な論点が浮かびあがってくる。霊的ことがらを肉的なものに翻訳せねばならないその不自由さ、翻訳し語る行為そのものが霊的なものを完璧には表象・再現前化しえない不完全さである。

この不完全さは、模像が充分にイデアを分有していないとか、叙述が歴史的時間をへなくては、完全なものにならないということをさしているのではない。その不全観は、このあとに出てくるラファエルの別な言葉のほうが、よくあらわしているかもしれない。ラファエルは同じくアダムに語っているさいちゅうに、神が御子にむかって語ったことを神の直接話法で叙述するが、その神の言葉について次にようにいっている。「神の御業は即座で、時間や運動よりもすばやいが、それが人間の耳に語られるとすれば、発話の過程を経なくてはならない。だから、この地上の能力でそれが受けいれられ理解されるように、語るまでのことだ」(4176-179)。ここで「神の御業」といってさしていることは、神が神の子にむかって語るという行為である。その神的語りという天的霊的なものが、人間の言葉という地上の肉的なものに翻訳変換されたのが、ラファエルによる神の語りなのである。ラファエルはアダムに天の戦争やその他のことを語りつつも、それは完全なる表象ではなく、表象されている対象とは質的にもはやいつも異なっていることに不全観があるのだ。時間と空間のなかに展開しなくてはならない地上の肉的表象は、どれほどラファエルが語りを練磨し純度を高くしても、けっして神のロゴス(ロゴスとはまた御子の別称でもある)にはならない、その不全観があるのだ。そんな不全観が天ではまったくありえないことをはっきりしめすかのように、ラファエルがもちいる人間の言葉とは異なって、「全能者[]は語り、全能者の語ったことを、全能者の〈〔言%ロゴス%〕〉、全能者の神なる子は実在化させた」(7174-175)。肉的なものには想像もつかないような、「いつもすでに」モードではない形で、天では意思疎通がおこなわれているのだ。

不全観は表面的にはイデアに至れない模像であること、終末時の完成に至っていない未熟な表現が原因になっている。しかしそうした個別の哲学観念、独特の神学教理を包摂するようにして、哲学神学上の要請からくるあるひとつの願望があったのではないか。実は表象を不十分にしかできない語りの不全観は、霊的という意味を広くとれば、なにもこの箇所にかぎられない。堕落前の語りにおいても、精確な表象はことごとく可能というわけではない。アダムはイーヴへの愛をうまく説明できない。イーヴは自分のみた夢がどういうものであったかを正しく描写できないで、もどかしさを感じている。それを解釈するアダムも、イーヴを充分に納得させるまでの表現はできない。翻訳なしには霊的なものは理解しえず、たとえ理解したかのように思っても、そもそも理解対象が「人間の知覚・悟性を超越している」(5571-572)から、その理解は完全なものではない。その事態は、表象なしには対象(愛、夢)を理解しえず、表象を介してたとえ対象を理解するとしても、そもそも表象とは、いまここにはないなにもののコピーだから、起源である対象の完全な代理にはなりえないということだ。ここに見え隠れするのは、反復を抹消しようとする願望である。

 

 

4.3.                    反復抹消の願望

反復を抹消しようとする願望とは、反復への嫌悪といいかえてもよい。ここでいう嫌悪とは、「語ること」を「聞くこと」によって、聞く主体が語られたことを反復として改めてたどりなおすことを、言葉の限界として感じるのではなく、たどるという行為そのものを嫌うということである。ラファエルは、一回かぎりでおこった事件を目撃し、またその事件に参加もした。そのラファエルの語りを通して、語りを聞きながら、アダムはその当の事件を反復として改めてたどりなおしている。これが、通常の「語ること」と「聞くこと」との関係である。この関係において「聞くこと」は、「語ること」によって描かれる内容を、いかに忠実に反映するかしないかをめぐって、その正誤がためされる。「語ること」は語られる対象となっている出来事をいかに精確に写しだすかによって、その価値が決まってくる。対象・出来事à「語ること」à「聞くこと」という三項のからまりあいは、いずれも先行する項である起源が、後続する項の反復を保障することによって成り立っている。

起源が反復を保障するからには、起源と反復は等価ではなく、当然起源が特権化される。しかも、ラファエルとアダムの関係は、一方が叡智的存在で他方が理性的存在である。ともに食物ような物質を食べることがあるとしても、叡智的天使の方は、食物の霊的部分を吸収するにすぎないのに、人間は物質的な栄養そのものが不可欠なのだ。霊的存在である天使にくらべれば、肉的存在である人間はどんなに霊性を神から授けられているといっても、起源を反復するということにおいては、二次的な資格しか付与されていない。

では起源はいつも特権化されたままなのだろうか。答えは否である。時間という形式によって、起源はいつか模倣者をもたなくなり、起源を特権化していた理由づけが解消する。神によって造られている被造物には、あらかじめ進化のプログラムがセットされているかのように、神的存在へとじょじょに脱皮し変身していく。禁断の実を食べる堕落前に、ラファエルがアダムに語っている指摘からもわかるように、被造物は「それぞれあてがわれた活動範囲で段々と神に近い位置を占め、神に向かうにつれていっそう浄化し、霊化し、純粋となっていく」(5475-477行)。堕落前にあっては、神に自発的に従順であることを守り、守るという行為を持続させていけば、季節は常春で、昼夜が同等の時間帯をもって循環する時間のどこかで、神的存在へと究極の変身を遂げる特異点にいたりつくのだ。また堕落後のアダムにむかってミカエルは、「大火の塊から、浄化され精錬された〈新しい宇宙〉、新地、その日々が終わりなき時代、それも義と平和と愛を土台にした時代が湧き起こり、賜物、喜び、永遠の祝福を生み出す」(12548-551)、と教えている。堕落後は過去から未来に向かって直線的に流れる時間のある一点において来臨が起こり、それを期に時間は永遠の領域に入り、そこではすべての義とされる被造物は、不断の祝福(至福直観)を受けることになる。至福というすべてが内部である世界では、神とともにあるすべての存在が、魂の状態と無媒介に接しつつ世界をあるがままに語りえるようになる。御子は神の意志をそっくりそのまま言葉として模写し、他の神的存在に伝えることができることによって、象徴的にあらわされている。「お前が今語ったことは、ことごとく我が思いにある通りのことだ、永遠の目的と決めておいた通りのことだ」(3170-172)。御子は神とは別な人格であっても、「御子のうちに父のすべては輝き、実体として表出していた」(3139-140)。終末において、類比によって媒介される反復という概念は消し飛ばされるのだ。

こうなると、叙事詩の語り手が人間を含めたすべての被造物にとって、最終的な理想としているのは、起源を特権化させ派生的な反復の運動を強いる環境からの解放、ということになる。類比による不完全な反復の必要がもうなくなるような、そういう状態だ。このような語ることと読むこと、そして書くことをもふくめて、中間時においてはエクリチュールはどうしても起源の反復をかかえこまざるをえない。こうしたメタレベルの反復とは別に、叙述された内容という意味でオブジェクトレベルにおいても、数多くの反復がみられる。天の三位一体は地獄におけるサタン・<><>の三位一体、神の統治とサタンの支配、サタンの堕落とアダムの堕落、アブディエルの逆境における剛勇とアダムの剛勇への心構えなどが、その例である。しかも時間的には、アダムが犯した原罪が起源となって、人類史においてカインの殺人、ノアの時代の堕落、ニムロドの僭制といったように、さまざまな罪が反復されている。[32]こうしたオブジェクトレベルにある反復を、レジーナ・シュワーツは構造としてとらえ、『失楽園』には創造と堕落の反復、いいかえるなら秩序の確立→秩序への混沌の侵犯→秩序の回復という三段階のパターンの反復が織りこまれていることを、論証している。こういうオブジェクトレベルのパターンが、この巨大な詩を縦走していることはけっして否定することはできない。しかしそのパターンも、やはりこの中間時においてやむなく生じていることであって、究極的には解消されるべきものなのだ。

終末の理想の境地にあっては、起源と反復との区別がなくなり、事実上反復は起源の抑圧からまったく自由になる。もはや人間の言語とは異なったロゴスがまるで魔法の泉でもあるかのように、つぎつぎと表象が満遍なくつむぎだし、刻一刻と生産されていく表象は、忠実に即自現前作用をはたしている。『失楽園』の語り手によってのもっとも理想的な語りとは、語ることそのものが語られた表象となって、両者のあいだに対立・帰属・類似といった媒介をいっさいへずに直接現前することだ。それはいいかえるなら、すべてが内部というひとつの閉じた体系といってもよい。

叙事詩の語り手は、人間が存在する以前の過去から、この詩が執筆された現在をつらぬき、やがて調和が訪れる終末の未来というあらゆる時間において展開し、またサタンの反逆、人間の堕落、御子の贖罪と来臨という人類にとっての重大事件を、すべてが内部という表象形態に網羅しようとしている。しかし、イエスの来臨によってすべてが完成する終末は、楽園という内部がそもそも手にできないのと同じように、人間にとってはいつ来るかわからない不確かなものである。その不確かさを埋めるものが信仰であり、人間に語りかける聖霊の働きなのである。「救い主は、神に属する人々に、天から<慰める者>を送る。この者は、聖霊として人々の心のなかに宿り、……人々を真理において誤りなく導く」(12485-490)。「神の心を知り、神の深みを探り、それを人間に啓示する」(「第一コリント書」210説)、そういう聖霊の働きによって、通常の人間の感覚や認識の網の目にはかからない次元で、人間を超越する神と人間が接点をもつ。語り手の語り口に読み手である私たちが同化しようとして、そこに語られていることを信じるかぎりにおいて、語り手の表象による風景に参加し、その風景を共有しうる。

しかしその風景は、起源を拒むことも、反復に身を浸らせることも、そして問いつづけることも禁じられている窒息の空間でもあるのだ。根源的な問いに進もうとする意欲は、気づかぬうちにことごとくこの風景の磁場にからめとられしまう。それだけではなく、その風景に私たちの気分がほどよく融合し安住し、問いを問いつづけることから気をそらされてしまう。語り手は自らがつむぎだす表層のメロディーに満足し、私たちはその語り手の主旋律に自らの心を同調させてしまうのだ。この窒息空間は、呪縛の力ももっているのだ。叙事詩の語り手は、この詩の冒頭で、「神の道を正当化する」(126)と宣言している。この語り手は、その正当化がむかう対象である「神の道」は人間の理解を超えることを意識しつつも、「あとは沈黙」(シェイクスピア)というストイックな諦念と妥協せず、「神の道」を語ってしまう。終末を教える自らの言葉も、ほかならぬ中間時の言葉でしかないはずであるにもかかわらずである。語り手の語りは、なにもラファエルの語りだけに限らず、この詩全体に通奏低音のようにおいて不全観と反復抹消願望を奏でている。ひとたびそのことを私たちが意識すれば、語りの表層のあちこちに、反復しえないものを語ってしまうという陥没点がぼつぼつとあいていることに眼がとまるはずだ。陥没点とは、自由意志と摂理の関係における自由であってもいいし、神と神の子との関係における位階でもいい。サタンとともに単刀直入に、神は創造主なのかを問いでもよい。それらは、描かれた風景というオブジェクトレベルに私たちが貼りつくことから、そんなレベルを成りたたせせている語り・書き・読むというエクリチュールのメタレベルに視線を向けかえさえてくれる。私たちがここでもう一度おもいだす必要があるのは、「創造の技を目撃したものがいるのか」を問いつづけることである。それは「内面的豊穣を感覚しつつ神について断固たる沈黙を守りえる人こそ、もっとも美しく神について語りうる人である」(ディオニューシオス・ホ・アレオパギーテース)」を思いつづけることでもあるといってもよい。[33]その先には待ち構えているのは、「正しき理性」という人間の間尺にぴったり合致しあくまでも人間的な良識に根ざした「慰め」などからはほどとおい、愚鈍さであろう。

根源的な問いは、根源的であるがゆえに文章化することは不可能で、「Xとは?」といったような疑問命題の形式であらわすことはできない。そして、「Xとは?」といった日常経験レベルの問題にではなく、そこに含まれている根源的問題に向き合うためには、人間は普段から駆使している能力を調和させるだけでは、不十分である。普段の能力を最大限に使っても、やはり不十分である。問題をどこまでも問い続けることによって、日常私たちが頼っている共通感覚が撹乱され、私たちの諸能力も活動可能な限界域を打ち破られ、諸能力が超越して働くことが、根源的問題に向き合うためには必要である。諸能力が超越して働いたあとで、問題の解答が見えてくる。しかしその解答はあらかじめ予想されている種類のものではなく、また文章化されたその瞬間に解答ではなくなってしまう。そのために、根源的問題はどこまでも展開されるものになっているのだ。だからこそ、問題にたいする答えが出たかと思われるその瞬間に、その答えそのものを問うようなもうひとつ問題が出現し、またその問題に答えていかなくてはならない。無限に<問い―解>の連鎖が続くのだ。経験にもとづいた安易な答えによって、問題を威圧し、解答済みとして捨ててはならない。捨てないことは、常識(共通感覚)から見れば馬鹿げたこだわりとして嘲笑をかう愚鈍かもしれない。[34]しかしそこに思考の生殖性があり、精神の覚醒があると、どうやらいえそうだ。

 



[1] 拙稿「メルカトルのコンパス:『失楽園』における揺らぐ〈無限〉」『言葉と文化』1 (2000) pp. 275-304.

[2][2] Erwin Panofsky, Idea: A concept in Art Theory (1924; New York: Harper and Row, 1968), 122-123.

[3] 視覚の成立は、眼からなんらかの物質が放射されてそれが対象に触れることによって当の対象がみえるのだという視覚光線説は、17世紀になってもまだ有力であった。拙稿 “ ‘Through my heart her eyes' beamy darts be gone’ : The Power of Seeing in Renaissance Poems and Emblems of Love” in Microcosms: Proceedings of Fifth International Conference of Emblem Society, ed. Wolfgang Harms (Frankfurt am Main: Peter Lang, 2000)近刊。

[4] Peter M. Daly, Literature in the Light of the Emblem : Structural Parallels between the Emblem and Literature in the Sixteenth and Seventeenth Centuries (Toronto : University of Toronto Press, 1979), 112; Svetlana Alpers, The Art of Describing : Dutch Art in the Seventeenth Century (Chicago : University of Chicago Press, 1983), 93; Louis L. Martz, The Paradise Within: Studies in Vaughan, Traherne, and Milton (New Haven: Yale Univ. Press, 1964), 145-146.  新井明『ミルトンの世界』(研究社,1980年)226-228ページ。

[5] 「内なる楽園」というトポスが文学においてどのような扱われてきたかについては、十分な研究がなされていない。たとえば「内なる楽園」というこの用語をタイトルにした上述のルイス・マーツの研究書も、心のなかに思い描く楽園、ないしは心の安息の状態といったきわめて単純な意味で考えられている。

[6] Calvin Huckbay, “The Satanist Controversy of the Nineteenth Century,” Studies in English Renaissance Literature 12 (1962): 664; Amadeus P. Fiore, “Satan is a Problem: The Problem of Milton’s ‘Satanic Fallacy’ in Contemporary Criticism,” Franciscan Studies 17 (1957): 173-187.

[7] Arnold Williams, “The Motivation of Satan’s Rebellion in Paradise Lost,” Studies in Philology 42 (1945): 253-268。このサタン解釈には、カトリック、プロテスタントともに尊重されていたアウグスティヌスの言葉(『神の国』1411章)が典拠になっている。

[8] John M. Steadman, “The Idea of Satan as the Hero of Paradise Lost,” Proceedings of the American Philosophical Society 120 (1976): 23-294; R. J. Zwi. Werblowsky, Lucifer and Prometheus: A Study of Milton’s Satan (London: Routledge and Kegan Paul, 1952) in Milton: “Paradise Lost”: A Casebook, ed. A. E. Dyson and Julian Lovelock (London: Macmillan, 1973), 129-151.

[9] Stanley E. Fish, Surprised by Sin: The Reader in Paradise Lost (New York: St. Martin’s Press, 1967), 137.

[10] もはや旧聞にぞくするが、従来型の歴史主義が教えるような、作品が書かれた時代のひとりの読者となって作品を読めば、作者が意図したことを誤りなく読みとれるという主張は、脱構築などの批評が登場してからおおいに揺らぎだした。

[11]数学における問題と解答について、解決可能性が問題の形式から帰結しなくてはならないという方法がとられるようになった経緯については、次書参照。Gilles Deleuze, Difference et Repetition, trans. Paul Patton (New York: Columbia University Press, 1994),180. また、解が前提になって質問があり、解には道徳が付随するという形態があることについては、次書参照。Michael Allen, “Divine Instruction: Of Education and the Pedagogy of Raphael, Milton, and the Father,” Milton Quarterly 26 (1992): 114-8.

[12] ラファエルは天上の反乱、天地創造、宇宙論など過去に起こった事実を必ずしも正確に伝えず、いつかの点で誤ったことをアダムに語っている。読者は、天使によって語られた内容に、そのまま全面的な信憑性を与えることは必ずしもできない。Martin Kuester, “The End of Monolithic Language: Raphael's Sematology in Paradise Lost,” English Studies in Canada XV (1989): 263-276; Robert McMahon, The Two Poets of Paradise Lost (Baton Rouge and London: Louisiana State Univ. Press, 1998), 9.

[13] Thomas F. Merrill, “Milton’s Satanic Parable,” ELH 50 (1983): 285.

[14] C. S. Lewis, A Preface to Paradise Lost (London: Oxford Univ. Press, 1942), 76.

[15] 神による創造への懐疑は、サタンに固有の問いではない。「世界は[神によって]創造されたことは、説得力のあるいろいろな議論によって明らかにされてきたが、そういう議論もその立論の仕方も、万人に明白というわけではない」(トーマス・ラシントン『罪びとの贖い』(1646)245。引用は、C. A. Patrides, Milton and the Christian Tradition (Oxford: Oxford Univ. Press, 1966), 28.

[16] ここまでならルターも支持している。ただしルターは、この詩やミルトンの『キリスト教教義論』(17)にみられる、天地創造以前に天使が創造されたとする教義を、神聖冒瀆として痛烈に批判している。 Lectures on Genesis Chapters 1-5 in Luther’s Work, Vol. I, ed. Jaroslv Pelikan (St. Louis: Concordia Publsihing House, 1958), 10; Christian Doctrine in Complete Prose Works of John Milton, Vol. VI, ed. Maurice Kelley and trans. John Carey (New Haven: Yale Univ. Press, 1973), 312-314.

[17]自然発生説は、たんに始源において神が創造したということを否定しているだけではない。生物が親なしに自然にわいてでてこられる偶然性を認めているわけで、神の定めをも否定している。だからこそサタンは神による運命の支配を認めていない(1116-117)。またサタンの自然発生説は、突然なんらかの物質から自分たちが現れでてきたという素朴な自然発生説ではなく、この世界には生命の要素が埋蔵されており、それによって無機物が組成変化して生物になるという生気論的生成観にもとづく自然発生説である。ミルトンとは直接親交はなかったが、サムエル・ハートリーブ学派を通じてその業績をミルトンが知っていたはずのイギリス人ウィリアム・ハーヴィー(1578-1657)は、生気論的生成観の信奉者であった。またミルトンが知っていた形跡があるオランダ人レーウェンフック(16321723)は、顕微鏡によって生命の要素とも推定される微生物の存在を確認していた。ただし、ミルトンとほぼ同世代のイタリア人フランチェスコ・レーディ(162698)が自然発生説を実験によって最初に否定した。当時の生気論的生成観とミルトンとの関係については、次書参照。Stephen M. Fallon, Milton among the Philosophers: Poetry and Materialism in Seventeenth-century England (Ithaca: Cornell Univ. Press, 1992), 98-107; .  John Rogers, The Matter of Revolution: Science, Poetry, and Politics in the Age of Milton (Ithaca: Cornell Univ. Press, 1996). 103-129. 『失楽園』における創造一般については次書参照。Michael Lieb, The Dialectics of Creation : Patterns of Birth and Regeneration In 'Paradise Lost' (Amherst: University of Massachusetts Press, 1970).

[18] ここのサタンの生気論生成観については、歴史主義研究者たちから、サタン自身が信じていないにもかかわらず、「自らが神と等しいものであり、神への反逆を正当化するために考案された議論で、修辞的なもの」と解釈されている(John M. Steadman,  Milton's Epic Characters: Image and Idol (Chapel Hill: University of North Carolina Press, 1968), 166)。これにたいしてジョン・ロジャーズは、生気論生成観がこの詩の随所にみられることを指摘して、「サタンは手探りで進みながら、……自然発生fermentationについての生気論を直観的に把握した」と説明している(上述Rogers, The Matter of Revolution, 125)。

[19] 通常の機械的で平面的なコミュニケーション理論とことなって、言葉による相手との意思疎通は、話す主体が自らを他者化して、他者である自らに語りかけることを起点すると意思伝達論にたっている。Emile Benveniste, Problems in General Linguistics, trans. Mary Elizabeth Meek (Florida Univ. of Miami Press, 1971), 67, 198, 224-225.

[20] ルネッサンス期には、たとえばモンテーニュに典型的にみられるように、ある事例にかんして良識なり理性なりにもとづいて相反する見方にたち、そこから矛盾する解答を並立共存させ、どちらが正しいかの判断を保留にする、人文主義的懐疑主義があった。それは、とくに『アレオパジティカ』以前のミルトンの散文作品に流れる基本的傾向ともいえるものである。Victoria Kahn, Rhetoric, Prudence, and Skepticism in the Renaissace (Ithaca: Cornell Univ. Press, 1985), 116; Thomas O.Sloane, Donne, Milton, and the End of Humanist Rhetoric (Berkeley: Univ. of California Press, 1985), 91-93, 249-20..

[21] Deleuze, 139.

[22] Robert Crosman, Reading “Paradise Lost” (Bloomington: Indiana University Press, 1980), 128-130; Don Cameron Allen, The Harmonious Vision: Studies in Milton's Poetry (Baltimore: Johns Hopkins Press, 1954), 71-77; Joseph H. Summers, The Muse's Method: An Introduction to “Paradise Lost”(London: Chatto & Windus, 1962), 151-152; .

[23] James H.Sims, The Bible in Milton's Epics (Gainesville, University of Florida Press, 1962).

[24] George Wesley Whiting,. Milton and This Pendant World (Austin: Univ. of Texas Press, 1958), 237-241.

[25] 政治、家庭、宗教の三つの分野にまたがる散文でミルトンは一貫して、これまでおこなわれてきたしきたりや考え方を「伝統」や「因習」とよび、それらが「正しき理性」に照らすことなく無反省に踏襲され受容されることに警告している。たとえば『第一弁護論』では王政、『離婚の教理と規律』では離婚、『教会統治の理由』ではカトリックの公教要理を批判している。

[26]Areopagitica in Complete Prose Works of John Milton, Vol. II, Gen. ed. Ernest Sirluck (New Haven: Yale  Univ. Press, 1959) , 543.

[27] ラージャンは、アルミニウス主義の自由意志容認論の観点から、理性の精査をへて神に自発的に応答する責任ある主体のあり方が、『失楽園』にみられることを指摘している。しかし、神学者大木英夫は、自由意志のある責任ある主体というアルミニウス主義をミルトンは踏襲しながらも、終末まで人間には不完全な栄化しか可能でないという人間の限界とその罪深さに深い理解をミルトンは示しており、最終的にはミルトンをアルミニウス主義者と同一視していない。筆者も大木氏の立場である。Balachandra Rajan, The Lofty Rhyme : A Study of Milton's Major Poetry (London: Routledge & K. Paul, 1970), 56-78. 大木英夫「ミルトンにおけるピューリタニズムと近代化」所収 平井正穂 編『ミルトンとその時代』(研究社,1974年)99-104ページ。

[28] ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部6章「青白き犯罪者について」(氷上英廣訳 岩波文庫, 1967年)上59ページ。

[29] John Carey, “Milton’s Satan,” in Dennis Danielson ed. Cambridge Companion to Milton (Cambridge: Cambridge University Press, 1989), 137. ケアリーは、ウォールドックとエンプソンの名前をあげて、このように説明している。

[30] Roland Mushat Frye,. God, Man, and Satan: Patterns of Christian Thought and Life in ‘Paradise Lost’, ‘Pilgrim's progress’, and the Great Theologians (Princeton.: Princeton University Press, 1960), 7-15.この説は、「[この世界に]実在[していると私たちが感じているもの]とは、天空を模倣する技能である」というエリアーデに代表されるような神話学からも支持されうる。Mirca Eliade, The Myth of Eternal Return (Chicago: Univ. of Chicago Press, 1949), 14-15.

[31] William G. Madsen, From Shadowy Types to Truth: Studies in Milton's Symbolism (New Haven: Yale Univ. Press, 1968), 111.

[32] [『失楽園』の]ミルトンにとって、歴史とはすべて、ミルトンが語っている歴史の再演であり、反乱はすべてひとつの反乱の再演、堕落はすべてひとつの堕落の再演、英雄的行為はすべてキリストの英雄的行為の再演である。キリスト教のこうした歴史観を読者が共有すれば、[『失楽園』の]叙述の細部には可能性としてそうした結びつきがあることがわかり、その関係づけをやってみる気になるだろう」(Stanley Fish, “The Harassed Reader in Paradise Lost, Critical Quarterly (1965) in Milton: “Paradise Lost”: A Casebook, ed. A. E. Dyson and Julian Lovelock, 170)。Regina M. Schwartz, Remembering and Repeating: On Milton's Theology and Poetics (Chicago: Univ. of Chicago Press, 1993), 91-110.

[33] マイスター・エックハルトがディオニューシオスから引用した言葉。Meister Eckhart ,“On Detachment” in Mister Eckhart: The Essential Sermons, Commentaries, Treatises, and Defense trans. and introd. Edmund Colledge and Bernard McGinn (Mahwah: Paulist Press, 1981), 280.

[34] <問い―解>の連鎖から思考が暴走し、問うこと知っている人間にだけ固有で動物にはけっしてみられない愚鈍にいたることについては、ドゥルーズとエックハルトは期せずして一致している。「もしも神についてなにか知いると思っているならば、それはけっして神に属するものではなく、神についてなにか知っているかぎりにおいて、知っているがゆえに自らは不可解さに陥り、その不可解さゆえに野獣の愚鈍にいたるのだ。被造物である人間は理解にいたれないとき、それは野獣に似ているのだ」Meister Eckhart ,“Sermon 83: Renovamini spiritu (Ep. 4:23)” in Meister Eckhart, 207)。「愚劣は、動物の本質ではない。動物は、動物を愚劣な存在にさせないそれ特有の形式によって保護されている。……愚劣は思考と個体化の靭帯のおかげで可能になる。……その靭帯は、思考する主体の感性をすでに構成している強度の場のなかで成立する」(Gilles Deleuze, Difference et Repetition, 150-153. 邦訳『差異と反復』(財津理訳 河出書房新社, 1992) 234-235ページ)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

要約:

楽園の門から踏みだしたアダムとイーヴの足が新世界に触れる以前には、二人にとっては内部と外部の区別がなくすべてが内部であった。ところが触れた瞬間から、天も楽園も外在化され、もはや内部でなくなる。堕落行為と楽園別離に決定づけられた外部と内部の二元化にたいして、内部が示す反抗は、二段構えになっている。内なる楽園という内部を、悪による外部の汚染から守り、終末という予定調和を時間の延長上に設定する。こうすることで、終末におこる楽園回復を始源の楽園とドッキングさせる。外部の歴史は、完成されていない中間時とみなされ、普遍的な内部の歴史の一部に組みこまれる。内部と外部の二元化は、内部がもつ歴史という広い土台の脈絡において生起した出来事にすぎないこととされる。¶サタンは自らともに天使や人間を神に反逆させることによって、始源の内部に亀裂をいれた。この亀裂によって、すべてが内部であった場に、外部が誕生する。亀裂は、すべてが内部であったときに、その内部を根本的に支えている土台、つまり神は間違いなく創造主であるということにむかっている。サタンは神による創造ではなく自然に発生した生気論の立場から、現行の神の秩序が僭制担っていることを指摘し、別な秩序を造りあげようとする。ところが、その新秩序は、実際には神の秩序の擬似的な反復にしかなっていない。サタンの三位一体、サタンの統治など、いずれも内部であった秩序の鏡像になっている。サタンの問いは、内部が内部であることを揺るがすことになっているようにみえても、実質的にその内部に回収されてしまっているのだ。¶問うという態度

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

図番号

1 ジョヴァンニ・ディ・パウロ「受胎告知」部分。楽園追放

 

 

2 ウォルター・クライド・カリー『ミルトンにおける存在論、宇宙論、物理学』156ページ)

 

3 アルベルティ『絵画論』における視覚構造の復元図(サミュエル・エジェトン『ルネッサンス期の線透視法再発見』から再録)。視覚は眼から出た光線が外部にある対象にあたって触知して、対象が映像として眼にみえる。

 

 

4 マザッチョ『キリストの鞭打ち』

 

 

5 デカルト『屈折光学』(1637年)の挿絵。網膜に映った像を、心を象徴する人物が精査している。