Stephen B. Dobranski Ed. Milton in Context (Cambridge University Press, 2010) pp. 383-393. "Marriage and Divorce" 共著 |
ミルトン自身の三度にわたる結婚の記録を追いながら、性格の不一致による離婚は聖書の教えにかない、市民法でも認可されていることだというミルトンの離婚観が、20世紀英国で認められるまでの軌跡を、歴史文書を追いながらたどった。 |
『考える英語習得−アクション・インクワイアリーからグローシアン英語へ−』(英宝社, 2007年) 単著 全184ページ | 学生自身による学習の自己点検(アクション・インクワイアリー)を行い、授業での自己取り組み型タスクを「通じる英語」(グローシアン英語)でこなす、授業展開の必要性を訴えている。こうしたタイプの授業が現場で行われれば、学生が生きていく上で大切な自己教育力が培われるというメッセージを発している。 |
Christophe Tournu and Neil Forsyth,
Eds. Milton, Rights, and Liberties (Peter Lang社 2006年) pp.155-167 “Milton’s Legitimatized Divorce and its (Un)creative Interaction” |
世紀の言論人ミルトンは四冊の離婚論を出版し、性格の不一致による離婚が聖書、古典、同時代の神学においても認められていること主張した。しかしその主張を導きだすために用いた数々の引用文献はミルトンによる歪曲が加わっており、実際には彼の議論を支持していない。しかもその主張の根幹にある「誠実」という新観念をミルトンがこのような形で提唱することで、社会一般における結婚のあり方やその価値を下落させ不誠実なものにする触媒機能を果たしてしまっている。 |
『フーコーの投機体験―『これはパイプでない』探求』(渓水社 2005年) 単著 |
ルネ・マグリットの絵画を、西洋絵画の伝統を脱臼させるものとして解析するミシェル・フーコーの思考をたどりながら、その言説空間への自己の投企を経て、フーコーとともに投機体験することへと読者を導く。 |
『摂理をしるべとして』 新井明・野呂有子編(リーベル出版 2003年)共著 pp.77-107. |
ミルトンを中心とした作品論。執筆箇所は「驚異をごらんあれ−−『失楽園』における叙事詩的願望」。叙事詩の語り手がこの作品のなかで道徳的で実践的な従順を説き勧めるのにたいして、読者はミルトンが真理とする描写のなかに疑問をつぎつぎと投げかけ、確定断言という語りの網の目にくさびを打ち込む必要があることを説明した。 |
『ミルトンとその光芒』 新井明編(金星堂 1992年)共著 pp.18-30. |
ミルトンを中心としたルネッサンス期の作家、ワズワースを中心とする19世紀の詩人、ハックスリー、エリオットの中心とした20世紀の作家についての論文集。執筆箇所は、「呪われた渇望(サクラ・ファメス)−−『失楽園』における富の視覚芸術」。『失楽園』におけるサタンの富追求の態度は,17世紀の経済人の態度とエートスの上で類似している。アダムたちがそのような態度から自由であるのは,被造物感覚があるからということを解明した。 |
『ルネッサンスと美術』 ルネッサンス研究所編(荒竹出版 1991年)共著 pp.135-158. |
ルネッサンス芸術と文学との影響関係を扱った論集。執筆箇所は「痛みの視覚芸術−−人間リアの忍耐」。シェイクスピアの『リア王』にみられる痛みが,ルネッサンス視覚芸術作品で初めて表現されるようになった痛みの表現と合致していることを示した。 |
『17世紀英文学とヨーロッパ』 17世紀英文学会編(金星堂 1989年)共著 pp.69-88. |
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『現代ラテン語会話』[共訳 他2名](大学書林 1993年) |
古典ラテン語で,現代の会話を状況別に再現したもの。格言・俚諺なども含み,古典ラテン語を生きた言語として学ぶためのテキスト |
『世界シンボル辞典』[共訳 他1名](三省堂 1992年) | 世界の宗教や神話にかかわるシンボルを,アルファベット項目別に整理したもの。原著にはない図版を約100点加え,用語集や参考文献を添えた。 |
CALL型授業から社会認知協調学習としてのネットワーク型プレゼン授業への展開 「名古屋高等教育研究」 9号(2008年)
"Through my heart her eyes' beamy darts be gone": The Power of Seeing in Renaissance Poems and Emblems of Love in Multivalence and Multifuncionality of the Emblem,eds. Wolfgang Harms and Michael Waltenberger (Frankfurt am Main: Peter Lang, 2002), pp. 725-734.
女性の眼から矢が飛び出し、矢が男性の心臓をつらぬき、その女性への恋に男性の心は燃えるという図像が16世紀にはいくつかある。美しい女性の眼から飛び出す矢というグロテスクな姿は、当時の恋愛詩で用いられた慣用句(クリシェ)であるばかりか、当時の視覚理論や哲学思想と結びついた知的な裏づけのある姿であることを説明した。
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交わりの拡張と創造性の縮小:ミルトンの四離婚論をめぐる諸原理について 『名古屋大学言語文化論集』26巻第1号(2004年)
造物主願望と不可視の導線:フィレンツェ人コジモの建築・写本・政治熱 『言語文化研究叢書 3 都市と文化』(名古屋大学大学院国際言語文化研究科 2004年)pp.65-126
イエス誘惑の場面の描写は、同時代のオランダ絵画作品にみられる。このような対応関係は、ミルトンがオランダにみられる宗教・経済上の変容を経験したことによる。実際、誘惑を総括するアンタエウスとスフィンクスの比喩は、神が最終的な創造主にして富の贈与者であることを教えている。ところが誘惑者サタンによる無からの創造行為は、オランダ絵画の「虚栄」という道徳的警告も、神の中心主義という宗教上の軸も狂わせるほどの力をもっている。
創造主への問いはメタレベルをこえているか:『失楽園』における秩序への回収と反復抹消願望 『名古屋大学言語文化論集』22巻第2号(2001年) pp. 93-133.
『失楽園』において、根源に神の遍在を据え、善悪などの二元対立によるひとつの閉じた円環の体系なかで、世界と倫理を叙述しうるかのように物語が展開する。ところが世界と倫理の完璧無比な表象・再現前化が不可能であることは、この叙事詩の節々にほころびとして出ている。このほころびを執拗に指摘するはずのサタンは、最終的には秩序世界のつきなみな宗教倫理に回収されてしまっている。
「僕にインキをつけさせておくれ」―『アストロフェルとステラ』におけるエロスの発現― 『藤井治彦先生退官記念論文集』 玉井章編(英宝社 2000年) pp.175-186.
この詩や同時代の宮廷絵画がもっているなまなましいエロス性は、道徳的な安定した有機的解釈によって囲い込まれ馴致された形で提示されてきた。しかしそんな従来の解釈を破るような特異点の出現(エロス性の発現)箇所に注目すれば、むしろ道徳的抑圧に屈せずリアルに表象しようする誠実な精神的構えがみえてくる。
メルカトルのコンパス:『失楽園』における揺らぐ〈無限〉 『言葉と文化』1巻 (2000年)
pp. 275-304.
無限に広がる近代の宇宙空間や地球世界は、地図によって平面に投影された。『失楽園』でも、無限なる神を、円が象徴する有機的まとまりによって囲いこんでいる。近代地図製作者メルカトルを悩ませたのは、無限を平面の地図上にどうやって反映させるかであった。その煩悶は、後の地図製作者たちによって、地図という架空の表象こそがリアルであり、実在の現前化と思いこむ錯視によってうやむやにされる。同様に、無限がもつリアリティの希薄化が、『失楽園』においても神の子による世界創造、サタンの道行きなどにおいておこっている。
記号化の胎動:ギリシア・ローマ時代における記憶技芸の系譜 『名古屋大学言語文化論集』21巻第1号(1999年)
pp. 69-110.
プラトン以来つづく西洋記憶技芸は、物事を効率よく覚える記憶術とはことなり、記憶の権利や身分を人間の認識の枠組みや言語記号論という枠組みでとらえようとしていた。この哲学的記憶技芸が認識と記号という二つの地平においてどのように変化していったのか、プラトンからクインティリアーヌスまで、原典を引用しつつ概説した。
矮小化された象徴形態:ソシュール『一般言語学講義』における恣意性からみた文字 『名古屋大学言語文化論集』20巻第1号(1998年)
pp. 43-75.
名称目録説の否定から恣意性の肯定へというソシュールの提起は、表音文字(アルファベット)世界で成り立つことであり、「表形文字」(漢字)にはあてはまらない。表形文字は、物質性を孕みもち、記号表現と記号内容とほとんど同時に喚起させる。しかも表形文字は、人為的な法にたいする「無為の自然」(ピュシス)と密着しつつ、人間技術(テクネー)に対抗する「自然の技」(ピュシス)になっている。表形文字(漢字)までをも、恣意的としてしまうと、表形文字がもっている象徴形態を矮小化することになる。
眼矢の綺想――オット―・ファン・フェ―ンの『愛のエンブレム』(1608年) 『日本図学会創立30周年 図学は今 図学研究 記念号』日本図学会編(1997年)p. 163.
フェーンのエンブレムのひとつに、女性の眼から矢が飛び出し、矢が男性の心臓をつらぬき、その女性への恋に男性の心は燃えるという図像がある。美しい女性の眼から飛び出す矢というグロテスクな姿は、当時の恋愛詩で用いられた慣用句(クリシェ)であり、むしろ優雅にして可憐な姿であったことを説明した。
エラスムス流知的外国語学習の復権:古典格言へのアプローチ 『特定研究シリーズ:マルチメディアネットワークを利用した外国語教育』第7号(1997年)
pp. 79-90.
エラスムスの『格言集』に反映している知識人という新人間像が,エラスムス肖像画という視覚化された形になっている。異なった言語体系と,それと抱き合わせになっている文化との接触から,自らの思考基盤を問い直すその知的人間像のあり方は,現代ではギリシア・ローマ古典文学の格言との接触から可能になることを論じた。
16-7世紀のヨーロッパ・エンブレムと江戸時代の判じ絵の比較 『イフ・レポート』(石田財団)第22号(1995年) pp. 443-448.
エンブレムは理性の次元における道徳性と倫理が支配する世界へと向いている。これにたいして、物質のなかに受胎している運動性やトーンをできるかぎり生のまま開示して、鑑賞者を無限につながる霊の自由な領域に飛翔させるのが、中国画である。ところが江戸時代の判じ絵や摺物は、理性が支配する論理・説話の領域と、幽玄で深遠な霊的世界との中間地帯を遊走し、言葉によって相対的に固定された世界を解体しこわばりをほぐしていく。
剽窃の倫理―ジョージ・ウィザーの『エンブレム集』とガブリエル・ロレンハーゲンの『エンブレムの種』における模倣と逸脱― 『名古屋大学言語文化論集』15巻第2号(1994年) pp. 31-52.
ウィザーは,ロレンハーゲンの作品の図像とその構成をそっくりそのまま「借用」している。にもかかわらず,図像の解説詩においては,ロレンハーゲンを意識して模倣しつつも,ウィザーなりの新解釈と自らの詩風を図像に吹きこんでいる。この模倣と逸脱の構図は,ローマ法学の注釈の伝統が歪められた形で受け継がれているがために可能になっていることを証明した。
彼は法学研究を復興した―アルドレア・アルチャートの墓像彫刻とルネッサンス・ローマ法学―『名古屋大学言語文化論集』15巻第1号(1993年) pp. 123-136.
これまで図像研究者によって幻の存在であったアルチャートの墓像彫刻が,パヴィーア大学内に現存することを示した。また,この巨大な彫刻像が当時の人文主義者墓像の伝統線上にあり,アルチャートの生涯や作品と密接な関係があることを論じた。
偶像破壊者の聖像崇拝―ミルトンの政治ソネットと英雄の視覚芸術― 『名古屋大学言語文化論集』14巻第1号(1992年) pp. 203-241.
ミルトンが,チャールズ一世の図像を偶像崇拝の典型として糾弾したのは,神の恩寵という波動を人間に送る、イコン本来のあり方に反するからである。<像>のそうしたあるべき姿の復権を,ミルトンは英雄聖像崇拝という形式を利用することによって,明示していることを論じた。
ペリカンとピエタ―『リア王』における痛みの視覚芸術(2)― 『名古屋大学言語文化論集』 第13巻第1号(1991年) pp. 67-87. [この二点の論文の論旨を発展・要約したものが、『ルネッサンスと美術』所集の論文]
リアが表現する痛みは,リア自身が既成の道徳律から離陸し,怪物的理性による自然の把握に至ったことのあらわれである。幾何学的な整然とした理性からおぞましいバロック的な理性へというこの変化が,視覚芸術の表現にもみいだされることを示した。
ペリカンとピエタ―『リア王』における痛みの視覚芸術(1)― 『名古屋大学言語文化論集』 第12巻第2号(1991年) pp. 167-188.
『リア王』の痛みに関する比喩と,痛みの変化にともなって起こるリアの精神変容が,当時の視覚芸術にみられる痛みや精神の寓意像と呼応していることを証明した。それによって,痛みにたいする当時の鋭敏な意識と,この作品のそれとが重ねあわされうることを示した。
結婚の時間―『ジェーン・エア』における男性原理と女性原理 『言語表現と時間』<特定研究>(1990年) pp. 37-49.
この小説が書かれた19世紀の工業化社会において,時間が客観的・計量可能な存在として意識され,いわば「男性化」した。その影響がこの作品にもみられることを指摘した。
ハーマイオニ彫像のスペクタクル遠近法―『冬物語』における浮遊の中心としての王と貨幣― 『名古屋大学言語文化論集』 第11巻第2号(1990年) pp. 71-102.
この劇では,王レオティーズが制度を支える絶対的な中心ではなく,近代資本主義の貨幣のように,メタ記号にしてかつ単なる記号であるという循環的存在であることを,視覚芸術の透視法理論に基づいて解明した。
『アストロフェルとステラ』における倒錯の美―図像による比喩の膨らまし― 『名古屋大学言語文化論集』 第11巻第1号(1989年) pp. 93-130.
この恋愛ソネット集は,図像集の図絵と対応する表現・比喩に満ちあふれている。なかでも「眼矢」,「翼の手」という奇抜なトポスを取り上げて,図像文学を用いることによって,現代では隠れてしまったソネット中のそれらの箇所の意味を解明した。
視覚イメージとシドニー、シェイクスピア、ミルトン 『名古屋大学言語文化論集』第10巻第2号(1989年) pp. 161-180.
ルネッサンス期に流行した図像(エンブレム)集の基本構成および倫理性,さらに今世紀における図像集研究の系譜を論じた。また,シドニー、シェイクスピア、ミルトンにおいて,図像文学とどのような関係づけが可能であるかを示した。
『マクベス』と時間 Mukogawa Literary Review 第24巻(1988年) pp. 1-14.
“Anti-Feminism in Paradise Lost”(英文)『武庫川女子大学紀要』 第35巻(1987年) pp. 49-64.
[この論文の論旨を発展・要約したものが、『17世紀英文学とヨーロッパ』所集の論文]
サムソンとドラゴン・イーグル・フェニックス―『闘技師サムソン』への図像学的アプローチ―Mukogawa Literary Review 第23巻(1987年) pp. 37-58.
知恵と三つの時間―『失楽園』における選択の構図― 『武庫川女子大学紀要』 第34巻(1986年) pp. 71-83.
『失楽園』の安息 『英語青年』第131巻12号(1986年) pp. 607-608.
“Robinson Crusoe: A Wanderer through
Repentance”(英文) Mukogawa Literary Review 第22巻(1986年) pp. 41-51.
“Moll
Flanders' Pursuit of Gold”(英文)『武庫川女子大学紀要』第33巻(1985年) pp. 35-43.
『復楽園』のイエス―忍耐の人間像― Mukogawa Literary Review 第20巻(1985年) pp. 65-76.
「強き強者」と「弱き強者」―ミルトンの二つの人間像― Osaka Literary Review 第20巻(1981年) pp. 97-109.
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Exploring Scientific Topics 共著(他 J. A. スタボイ)(註解)(三修社, 2010年)
Logical Essays for Listening & Reading with CD-ROM (『大学生のためのアカデミック英語学習<CD-ROM付き>』)(他 杉浦正利)(松柏社, 2009年)
Susan Woodford, Looking at Painting (註解)(松柏社
1994年)
J. H. Plumb, The Book of the Renaissance
(註解)(NCI 1990年)
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マンガの力とネットの活力:Task-based learningと間接対面読解学習
発表日:2006年7月12日(水)12時15分〜45分
場所:国際言語文化研究科棟ラウンジ(1階北 東奥)
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書評(新聞掲載)
伊藤博明 『エンブレムへの招待 綺想の表象学』 図書新聞 (2008年2月23日)[第28259号].
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