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ようこそ。 西洋文化と日本文化の接点を、誤解と理解という視点から眺めています。

鈴木繁夫

図像から探るイギリス・ルネッサンス文化
図像から探るイギリス・ルネッサンス文化
2017/01/08

ロバート・フラッド『両宇宙誌』Part02 <人工>の猿が模倣するもの

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人間能力への讃歌

 フラッドの問題意識の発端は、人間がいつも行っている自然に働きかける活動はもちろんのこと、ときに行う画期的な発明も、自然の営為を模倣している活動であるということだ。人間の活動は、自然がその原初から定めている枠組みから出ることはできないということを意識すれば、人間の矮小さの自覚に通じる。ところがその一方で人間営為を肯定的に捉えると、自然を模倣すべく次々と人工物を生産していくその活発なエネルギーは瞠目にあたいするし、人間は動物・植物・鉱物のいずれもとってみても、それらを遥かに凌駕しているではないか。

ハムレットも述べているように、

人間とはなんとすばらしい作り物だろう。理性においては高貴、

能力においては無限、その姿は均整が取れ、

挙動は目を見晴らせ、振る舞いはまるで天使のよう、

理解する力はまるで神のよう。この世の美、動物たちの模範。だが、僕にとり、

塵の精髄である人間は何だというのか。人間は面白くもない。(『ハムレット』22303-307行)

ハムレットはここでは最後に「人間は面白くもない」といっているが、その反面では、人間には素晴らしい能力が備わっていることを認めている。

技術という<人工>

 ハムレットがここであえて見ていなかったものは、「理解する力はまるで神のよう」な人間が、火の発見に始まって、建物を作り上げ身を守ることに工夫をこらし、直近では大砲、銃などの火器を使って人力の攻撃を未然に防ぐ方法を編み出している、そういう技術向上のめざましさだ。また可視の技術ではなく文化という手には直接触れることのできない知的なものについては、人間は知識が次世代に伝わり、広く見知らぬ人々にまで伝播するよう写本を作成してきたし、ハムレットの世紀には印刷術により高価で数少ない写本に代わり廉価で多数のコピーとして本が出回るようになった。
 ハムレットが父王の亡霊を見るエルシノア城の防壁は築城術にしたがって設計されていたはずだし、この城を最後に占拠するフォーティンブラスの軍隊は移動式大砲を所持していたはずだ。ハムレット王族の死に弔砲をはなつこの城には、もちろん大砲が備わっている。また廷臣ポローニアスにどんな本を読んでいるのかと問われたハムレットは、歩きながら本を手にして読んでいたが、それはページが薄くて
1ページに活字が多く詰まった携帯本が印刷術により可能になったからだった。

「理解する力はまるで神のよう」な人間は、その力を使って発明、工夫を繰り返して人間が自然によって打ち負かされないような生活、他の動物よりも優れた文化を構築するという目標を達成すべく努力してきている。その努力は技術と今の私達ならいうが、この時代の人々は、<自然>natureと対比させて<人工>artとして意識していた。

 <人工>“art”と<自然>という対立は、前項で述べたように、遺伝子組み換え食物と自然食品との対比といったよう区別立てての際には私たちの意識に上るが、“art”という言葉からむしろ私達が思い浮かべる観念は、<芸術>“art”である。

そしてこの<芸術>“art”と対立するものが、<技術>technologyである。たとえば、技術文明について批判的な批評家ルイス・マンフォードは第二次大戦後まもなくの1950年代に、『芸術と技術』のなかで、「芸術“art”がもつ意義とは、科学と技術にはものを利用できるようにするという意義があるのとは異なる次元にある」として、両者を極度に対立するものとして提示している。[1]

そして、私たちは技術の恩恵をスマホなどから嫌というほど意識化させられている。このハムレットとは間逆といってよい状況下に私たちはいるので、<技術>は生活の不可欠の一部で、<技術>抜きの生活は不可能だという観念を抱いている。こうして、本来は<自然>と対立する観念であった<人工>が、現在では<芸術>に小さく囲い込まれ、本来であるなら<人工>の一部であるはずの<技術>が、意味転用を起こして<人工>全体を代表するようになっている。

フラッドの求知心

<技術>が<人工>を代表し置き換わるという事態が顕在化するのはいつ頃だろう。イギリス産業革命期の大型機械の利用をヘて、ヘンリー・フォードが開発した大量生産方式が工場モデルになってからと考えてほぼ間違いない。この18世紀中葉から20世紀前葉までの約二世紀間で西欧の人々が、そしてその伝統を接ぎ木した私たちが見失ってしまったのは、<芸術>も<人工>の一部であり、<芸術>は「科学や技術」“science and technics”と同じ範疇に入るという観念である。<人工>の広義の意味が狭義に狭められたこの狭窄視野によって、私たちにとても見えにくく理解しづらくなってしまったのは、広義の<科学>に対する観念だ。マンフォードの先ほどの引用が暗示するように、私たちにとっては科学=技術、科学技術=機械であって、芸術と科学技術とがそれぞれ異なる次元にあるが、それは現代の観念であって、産業革命以前のかつてでは、<科学>は<自然>を対象としてそこに隠されてしまっている神の創造の痕跡を探り当てるという求知心にもとづく営みであり、<自然>の中にある「ものを利用できるようにする」<技術>とは別物であると意識されていた。

 フラッドは、技術という意味での<人工>、現在の学部の区分でいうなら工学部で実践していることに非常に興味を持っていた。サルを中心に描かれた<人工>が統括する11部門のうち、少なくとも4部門、すなわち戦争術(築城・軍隊編成法)、運動術(土木工法)、時間術(時間の精確な計測)、地理(測量による地図作成)が技術系であることは、フラッドがいかに実践的技術に傾倒していたかを物語っている。


 現在でいう技術を生み出すことにより自然が人間に課してきた条件を変えるという意味での技術への関心は、フラッドには高かった。たとえば地下水組み上げ機にみられるように、腕力を使ってシャベルで穴を掘り、桶を落として地下水を掬い、桶を引き上げて水を取るという自然によって課された条件は、水の落下力と歯車の力の伝播により桶の上下運動を使った機械に置き換えることを考案した。これにより人間の負担を軽減し、水を汲み上げる効率はあがる。

負担軽減と効率上昇は現在であるなら企業が市場で生き残るための重要な原則であるが、フラッドにとっては、このいずれも原則ではなく、宇宙を貫く原則を人間が知恵を働かせて<人工>的に利用することよって生じる付加加価値でしかなかった。フラッドにとっては、機械考案が善でありうるのは、宇宙を貫く原則としてある数比、すなわち重さにおける物と物との比例、長さにおける線と線との比例、速度における時間と距離の比例・反比例を利用しているからだ。

フラッドには、<自然>は客観的なさまざまな実体とそれらが運動することによって成り立っており、それら実体がどのようなものであり、それらがどのような運動をしているかは、目の曇りさえとれれば、誰にでも共通に理解しうるものであるはずという確信があった。こういう観念はフラッドに限らず、ケプラーやガリレオといった私たちに馴染みのある科学者も共有していた。ただし、フラッドはこれらの科学者と一線を画していた。目の曇りを取る手段への考え方が、正反対の方向を向いていた。

ケプラー、ガリレオ、そしてイギリスでは王立協会(ロイヤル・ソサイアティ)が観測や実験という時間と場所に左右されない追試可能な方法によって、<自然>の姿を明らかにしようとしていた。これに対して、フラッドは、ピタゴラスやヘルメス・トリスメギストスなどのような古代の叡智、それも人間的誤謬に侵されていないと信じられうる隠秘的な源泉に遡ることを第一の手段とし、それらの智者の言葉を理性を駆使して解釈し、それらの言葉に符合するような<自然>の姿を体系的に提示しようと試みた。人間が古代においては所有していたが、今は不幸にも失ってしまった叡智を啓示として、宇宙に含まれる物事を分析していくこと、それも個別的な分析に終わらせずに分析が宇宙全体を総合的に体系的に解明することに連なるような有機的関係を追求していた。叡智を啓示とする点では、世間一般の迷妄からも浅はかな合理的科学思考よりも、きわめて醒めていることになるが、しかし世間一般の常識や科学思考の観測・実験による裏付けからすれば、啓示や直観に自らの議論の拠り所するのは、気違いじみている。もう少し別な言葉でいえば、観測によって暖味さなしに<自然>の姿を検証する近代を方向づける科学主義ではなく、思索と文献に強く依拠しつつ、ギリシア、ヘルメス文書などの膨大な資料にあたりながら、数比学、占星学、化学的医学(錬金術)といった現代では擬似科学と見下される隠秘主義に傾倒していた。

だからフラッドにとって技術とは、近代科学が位置づける技術とは異なっている。神が宇宙を創造したときに利用したはずの数比が<自然>には埋め込まれている。その数比を今度は人間が利用して、神が天地創造の時点では作り出さなかったものを、人間が天地創造後に神の後を追うように新たな被造物を作り出すのが、機械考案だったからである。



■図像解説
上段 フラッド『両宇宙誌』戦争術の挿絵 籠城の説明   下段 フラッド『両宇宙誌』水力による水の組み上げ
▶▶参考文献

荒俣宏 1985 99万年の叡智:近代非理性的運動史を解く』平河出版社.

志村史夫 2003『文科系のための科学・技術入門』ちくま新書

フリーマン・ダイソン(Dyson, Freeman) 1990 『多様化世界:生命と技術と政治』(鎮目恭夫訳)みすず書房

[1]L Mumford,Art and Technics(New York,: Columbia University Press, 1952) 16-17.

02:42
2016/12/30

ロバート・フラッド『両宇宙誌』Part01 <自然>と<人工>の対比

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図像1 フラッド『両宇宙誌』第一巻表紙絵


自然 vs. 人工
 遺伝子組換えの種から取れる穀物は人体に安全かどうかは、20世紀末から問題になっている。遺伝子銃を用いて、自然の種の中にあるDNAを強引に組み替えて、人間が栽培に都合が良く、収穫高も上がるような人工的な新種を作ることは、自然の法則に反するのではないか、反するようなものはきっと人体に害があるに違いないという判断があるからである。この判断の底には、<自然>と<人工>とを対比させ、<自然>が本来の善であり、<人工>には畸形をともなう悪が潜むという、自然礼讃、人工卑下という見方が生きている。
 とはいえ、こういう見方をする私達は、<自然>が作った洞窟に住んでいるわけではなく<人工>の塊である家屋で生活し、そは<人工>の恩恵が数え切れないほど詰まった場所である。そうした人工の恩恵を足元から受けているにもかかわらず、その恩恵は一時的に視界の外に追いやり、<人工>には悪が潜むから遺伝子組換え穀物は危険だと思い込んでしまう。つまり、<人工>に囲まれ<人工>による生産物なしには生活がまったく成り立たない私達は、<自然>と<人工>の対立関係を極度に有徴なものとしては感じていないのだ。
 ところが西欧では、古典のローマ時代から17世紀にかけて、人間をどういうものとして位置づけるか、世界はどのようにあるのかということを考える際に、基軸となったのが<自然>と<人工>という対立であった。<自然>と<人工>の対立軸が、とくにルネッサンスから17世紀にかけて、人間観、世界観を考える際の必須参照枠であったことは、たとえばギリス人神秘哲学者ロバート・フラッド[1574-1637]の『両宇宙誌』(Utriusque cosmi, majoris scilicet et minoris)[1617-21]の挿絵(第一巻目次後に挿入)(図像1)が教えてくれる。


図像2 表紙絵の銘題

銘題(図像2)には、「清らな<自然>の鏡と<人工>の像」(Integrae Naturae Speculum, Artisque imago)とある。銘題を割るようにして光る雲がある。この雲の中央にあるヘブライ語文字は「ヤーウェ」と書かれている。<自然>は、人間が神に対して犯した原罪によりすでに堕落し汚れてしまっているが、ここに描き出された<自然>は堕落前の「清らな<自然>」を映し出したものであるというのだ。ギリシア・ローマの神話に従うなら、銀や銅や鉄の時代ではなく黄金時代の<自然>ということになる。


図像3鎖によるつながり:神, 自然, 人工


銘題を割る雲から飛び出し伸びる腕は誰のものだろうか。「ヤーウェ」(エホバ)は旧約聖書の神の名であるから、神の手ということになる。
 神の手から光とともに鎖が伸びて、裸体の女性の左手の手首の輪(図像3)につながっている。神の手につながれたこの裸体の女性こそ<自然>である。神の手は鎖を操ることで<自然>を自由に操作できること、また<自然>は宇宙世界における神の代理人であることを象徴している。


図像4  『両宇宙誌』のプトレマイオス宇宙像


 <自然>の姿を上から順に負い、その背景にある宇宙図と対応させてみると、(1)頭がある領域、(2)首がある領域、(3)胴体から脚膝までがある領域、そして(4)脚膝下がある領域と、4つの領域に分けられる。これらの領域は、外側から順(図像4)に、

(1)「天国」三層(上位三隊の天使, 中位三隊の天使, 下位三隊の天使)
(2)「恒星天」一層
(3)「惑星天と二元素」九層(惑星天, 火元素, 風元素)
(4)「二元素」三層(水元素, 地元素)(動物界, 植物界, 鉱物界)
となっている。
 ガリレオ[1564―1642]が自ら屈折望遠鏡を作成し、天体観測の結果をもとに『天文対話』を刊行し、太陽中心説を提唱したのが1632年であった。よく知られているように、太陽中心説は、地球が宇宙の中心であることを強く示唆している聖書の記述とは合わないため、ガリレオはカトリック教会の異端審問所に出頭を命ぜられ、異端の嫌疑をかけられる。カトリック教会から離脱した英国国教会のイングランドでは、ガリレオの17世紀には太陽中心説を口にしたからといって異端の嫌疑をかけられるわけではなかったが、太陽中心説よりも地球中心説の方がまだ一般的には人々が信をおく説であった。
 地球中心説は、ギリシアの天文学者プトレマイオス[2世紀前半]が唱えたもので、中世からなんと18世紀に至っても西欧では支配的な宇宙観であった。プトレマイオスの宇宙像は、周転円説といわれ、私達が軌道と現在考えている仮想の円あるいは楕円ではなく、チューブ上の円管が玉ねぎのように層状に地球を中心として包み込んでいると考えていた。フラッドの図像が、地球を中心して同心円状に層が重なっているのは、プトレマイオスの周転円説を踏襲しているからである。
 <自然>の足裏は、大地と海を踏みしめているが、その大地と海に向かって<自然>の乳首からは陽光(左乳房の覆いは太陽)が降り注いでいる。世界という自然の領域は、動物、植物、鉱物の三種類からなっているが、これらは陽光からの恵みなしにはその存在が脅かされる。
 神の手が<自然>を鎖で統制するように、<自然>はその右手から鎖を下方に降ろし、<自然>のちょうど真下にある球の上に座る猿、すなわち<人工>の左腕の輪につなげ、<人工>を支配下におく(図像3)。<人工>が猿の姿をしているのは、猿が巧みに人真似をするように、<人工>は<自然>を模倣するからである。猿は右手に作図・建築用のコンパスを、左手には地球儀をもち、地球儀というミニチュア版の世界にコンパスをあてて、新たな構築物を作ろうと目論んでいる。


図像5人工の象徴・猿


猿が座る領域(図像5)は次のようになっている。
人工:四技能(より自由な学芸, 動物界における自然を補う技能, 植物界における自然を助ける技能, 鉱物界において自然を正す技能)

「より自由な学芸」(Artes Liberaliores)の「より自由」とは、中世では自由学芸は七つの部門とされているが、さらにその部門を増やしているという意味で、時計の12時位置(猿の顔)から、時計回りで、①算術、②音楽、③幾何学、④透視画法、⑤絵画、⑥築城術、⑦工法、⑧時計、⑨地理、⑩天文、⑪土占の11種から成っている。同様の図像は、『両宇宙』の第二部の表紙絵にもあり、そこでもほぼ同じ順番でこれらの学芸(ただし①は数秘術)が配列されている。


図像 6 <人工>の技能2巻の表紙絵


そして『両宇宙誌』第二巻はこの11種の分野について、それぞれ別個の章立てをして数多くの図像を使いながら、詳細な(そして退屈ともいえる)説明を付けている。私達がフラッドを出典として目にすることがある奇妙な図像は多くの場合、この「より自由な学芸」に付けられたものから採られている。
 神秘哲学者であったフラッドは、現在の私達からすると、土占いや数秘術といった奇妙なことにその英知と時間を注いだと思う。その奇妙さは動植物・鉱物に人間が手を加える人工の技能についてフラッドが、図像1に記載していることを追えばさらに募ってくるはずだ。
 動物界における自然を補う技能(Ars naturam supplens in regno animali)では、同じく時計回りで記載すると、孵化術、薬術、養蜂術、養蚕術となっている。つぎの内円にある植物界における自然を助ける技能(Ars naturam adjuvans in regno vegetabili)では土壌改良術と接ぎ木術(品種改良術)の二つ。そして最後の円が鉱物界において自然を正す技能、(Ars naturam corrigens in regno minerali)で二種類の濾過器(ランビキとレトルト)が描かれている。これらについては、「より自由な学芸」のような記載がなく、フラッドのこの著作は未完のまま終わっている。

08:00