■二枚の巻紙は巻かれておらず広がっているが、広がっていられるのはなぜだろうか。上の巻紙の右端と下の巻紙の左端を、前腕付きの手が、それも肘頭から翼が生えた手が押さえつけているからである。翼があるということは、この二枚の巻紙は宙に浮いているのだ。■超自然的ななにものかによって、文字が書かれた紙が宙に浮いたままになっているというのは、西欧の象徴体系の中ではそれほど奇妙なことではなかった。
■マルティーニと同じシエーナの画家で、マルティーニが教皇庁のあったアヴィニョンで活動するためシエーナを去った後に、シエーナの筆頭画家となったのは、アンブロージョ・ロレンツェッティであった。ロレンツェッティは、シエーナ市庁舎の一室に善政と悪政を主題とする巨大フレスコ画(1338-9年)を部屋の四面の壁に描いている。そこにはいくつも文字が
■書かれた紙が宙に浮き、それを支えているのが美徳や悪徳の名のついた天使たちである。たとえば悪政の壁画には、空を舞いながら右手に剣をにぎり、左手で帯状の巻物をもち広げている<恐怖>の天使がいる。そこに書かれているのは、「各人が自己利益を追求するためにこの国では正義が僭制に屈する」[前半部分]というイタリア語の寸鉄詩である。


■ペトラルカ写本とほぼ同じ頃に描かれているこのフレスコ画でも、画像と文字が同一空間に共存し、文字が画像を解説し、画像を見る人の意識を描き手の意図どおりに誘導する役割を果たしている。ところでこの天使の頭のすぐ上にはTIMOR(恐怖)とあり、この天使の画像が恐怖という、誰もが知り経験していてすぐにそれとわかる抽象概念を表しているのだと、描き手は誘導している。巻紙に書かれた寸鉄詩が画像全体の出来事を説明しているのに対して、このように一人の人物像、場合によっては一個のものの像の説明することもあるのだ。詩や一単語があらわす抽象概念をひとつの画像として表現することは、西欧の中世ではひとつの思考習慣として定着しており、それはペトラルカ―マルティーニの14世紀には確実に根を張り生きていた。このような画像は寓意(アレゴリー)とよばれていた。ロレンツェッティのフレスコ画は、「善政と悪政」ではなく「善政と悪政の寓意」とよばれることがむしろ普通になっているが、「寓意」とわざわざことわるのは、これが善政・悪政が実際に行われて、たとえば善政なら人々の食卓に食べ物が豊富にあるといったような実情を前面に押し出して描いているのではなく、クッションに肘をついてシュロの枝を膝から立てている穏やかな顔立ちの女性の姿(平和の寓意)を描いているからである。
■定型の抽象概念を一つの画像に凝縮して表現する形態が寓意であることはわかった。しかし、ここですでに触れたセルウィウスの秘密に戻ってみよう。流れ星とその軌跡についての記述のなかに、この文法学者は字義通りのレヴェルの向うに、アエネーアースの将来の出来事が象徴されているように読み込んだ。ウェルギルスは、あるひとつの事柄を述べながら、それと同時に、その事柄とは別の象徴的なことも伝えているのであり、字義通りにしか読まない読者はその象徴的意味を読み落としてしまう。文法事項、語法、過去の類例など字義レベルの説明は注解(glossa)とよばれ、字義の背後に隠されている象徴的意味の説明は釈義(commentaria)として区別されていた。そして象徴的意味もまた寓意とよばれていた。
■中世において、非キリスト教であるにもかかわらず古典がその伝統をほそぼそとではあっても維持できたのは、7世紀にセヴィリアの司教を勤めたイシドロスの功績が大きいが、なかでも決定的だったのは『語源論』(Etymologiae)である。これは分野別にその分野に関連する単語をあげて、その単語の語源と意味を解説したもので、取り扱っている単語の数といい、その的確なわかりやすい解説といい、現代の百科事典の前身を思わせるものになっている。この文法学者にして神学者でもあったイシドロスは、解説にあたり、アウグスティヌスなどの初代教父の文献からだけではなく、ウェルギリウスはもちろんのこと、古典の詩人や歴史家たちの著作や、ギリシアではホメーロス、プラトン、アリストテレスからの引用もしている。
■この学者による寓意の説明は次のようになっている。
ある事柄を音にだして述べながら、別な事柄が理解される。ちょうど「三匹の雄鹿が海岸をさまよう姿を彼は見た」[『アエネイアース』1巻184-5行]というのが、ポエニ戦争における三人の将軍あるいは三次のポエニ戦争を意味しているようにである。(『語源論』1巻37章22節)
■トロイアから船で脱出したアエネーアースが海上で暴風雨に遭遇し、船がアフリカのカルタゴに漂着したときの出来事が、ローマがやがてハンニバル率いる強敵カルタゴと戦うポエニ戦争を象徴的に示しているというのだ。
■20世紀の古典学者による注釈は、注解(glossa)であることを心がけ、釈義にまで踏み込もうとしないので、イシドロスの寓意の説明は掲載されていない。20世紀の古典の読み方は寓意にまで踏み込まないという線で展開されているといってもよい。これは、テキストに寓意を読み取ることが、物語の本来の筋と基調音に対して雑音を入れ、筋の流れを見失わせることになりかねないからであり、それに加え、寓意釈義は釈義者による解説が作者の意図から離れた恣意的な説明ではないことを証明することがきわめて難しいからである。

■もちろんテクストの中に著者が明らかに意図的に仕掛けておくという場合もある。たとえば『薔薇物語』(1275年)では、若者が夢の中で見たバラの蕾に恋をし、それを手に入れようとする筋よりも、恋愛をするときに湧き起こる感情の葛藤が寓意によって提示されており、それを知ることの方がむしろこの物語を読むという行為に正当性をあたえている。
■ペトラルカの時代から17世紀まで西欧の文化は、作品制作者の制作意図からはずれることを極度に恐れるあまり、作品に無理矢理押しつけた二義的解釈というレッテルを嫌うわけではなかった。イシドロスの釈義のように、字義の層における直接的な文脈の至近距離のなかにではなく、将来の出来事などをあらかじめ象徴的に表現していると解釈したり、『薔薇物語』のように、作品の外にあって作品を実はささえている価値や観念の体系である宮廷恋愛の掟と作品を照合させて読解をすることは、空想的というよりも創造的として肯定的に評価された。
■では寓意が字義通りとは異なった別な意味をもち、その別な意味は直接的には不明だというなら、推測によって正解にたどりつく謎とどう違うのだろうか。これもイシドロスが回答を与えてくれている。
謎(aenigma)とは、説明がなくてはなかなか解答できない曖昧な問題。「食べる者から食べ物が出た。強いものから甘いものが出た。」[「士師記」14:14 サムソンが披露宴で出した謎]のようなものである。…寓意と謎との違いは、寓意には二重の力があり、ある一つの題材を別な複数の題材の様相のもとで比喩的に指し示すが、謎では[指し示す]意味がただ曖昧なだけで、イメージを通じてその解答が暗示されている。(『語源論』1巻37章26節)
■言葉によって指し示される事柄が何であるかによって、寓意と謎との違いがでてくるのではなく、言葉と事柄とがどういうかかわりになっているかによって違いが生まれるというのだ。謎の場合には、事柄がイメージ化されていて、言葉はそのイメージの一端を指示するだけなのだ。サムソンの謎の場合には、解答はライオンの口からとった蜂の巣だが、食べる者、強いものはライオン、食べ物、甘いものが蜂の巣ということになる。一方、寓意の場合には、流れ星の落下という一つの題材が、別な土地でのトロイアの再興、アエネーアースの脱出と航海といった別な題材との関連で、それら別の題材を間接的に指示する働きをもっているのだ。
■これを本来の寓意とすると、ロレンツェッティの絵画のように、鋭く尖った剣をもつ恐ろしい形相をした天使という一つの具体的な画像であり、その天使であり剣を表現していながら、その画像が恐怖という一つの抽象概念を表現することも寓意ということになる。なぜなら、剣をもつ天使という題材が、悪政によってもたらされる市民への恐怖という別な題材を指示しているからである。そして『薔薇物語』の挿絵がそうであったように、何の寓意になっているかを描き手は文字を使って一語で表現までしてくれている。
■■■ポイント:言葉は、別な文脈に置き換え二重読みする必要がある■■
■■■ポイント:二重読みが可能な表現方法を寓意という■■