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(形像文化の世界へ)

ようこそ。 西洋文化と日本文化の接点を、誤解と理解という視点から眺めています。

鈴木繁夫
 

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2011年5月17日開始

紹介

鈴木繁夫
名古屋大学大学院 名誉教授
国際言語文化研究科 (2015年退職)

■学歴
上智大学文学部卒業
大阪大学文学部博士後期課程満期退学

■留学
ウィスコンシン大学大学院 (Rotary Foundation Scholarship)
ハーバード大学客員研究員 (Harvard Yenching Scholarship)
オックスフォード大学客員研究員(文科省海外先進教育研究実践支援プログラム)

■主要著作

Milton in Context(Cambridge University Press,  2010年)共著〔米国Irene Samuel 賞受賞〕

『考える英語習得: アクション・インクワイアリーからグローシアン英語へ』(英宝社, 2007年)

Milton, Rights, and Liberties(Peter Lang,  2006年)共著

『フーコーの投機体験―『これはパイプでない』探求』(渓水社,  2005年)




 

Misunderstanding can go both ways


2018/05/05

日本の難点と同害原則

Tweet ThisSend to Facebook | by geoschita

 宮台真司は、ブルセラと援交を研究対象として、そのフィールドワークも体を張って行った実践的な社会学者として、1990年代からその名を馳せてきています。宮台のブログを見ればわかるように、宮台が書き表したものの量は日本の他の社会学者の量を圧倒的に超えています。量だけではなく、宮台の書くものは、多くの学者にありがちなように、あるひとつの領域について深く浩瀚に論じるという立場をとらず、宮台が強く影響を受けているドイツ人社会学者ルーマンのように、社会システム理論の立場から、社会のさまざまな事象について、広範な分析・批評を行っています。

 『日本の難点』(2009年)についても、そうした立場と対象をそのまま継承し、タイトルが日本とあるにもかかわらず日本と欧米をまたいだ広範な社会現象・問題にたいする分析・批判を行っています。しかもその分析・批評から宮台が導く数々の処方箋は、個人の心がまえの変更・修正や政策レベルにおける小手先の対策ではありません。私達がいまここで生活している世界を、個人・社会・公共という三つ巴からなるひとつの構成体系として通時的に俯瞰しつつ、社会学、政治哲学、社会心理学の理論を駆使しながら、「これが答えだ」と処方箋を提示しています。処方箋を導き出すその道筋は、目も覚めるような切れ味があり、読者としてはうっとりさせられます。

 しかし『日本の難点』のなかで、現象・問題として扱われる事柄はあまりにも多いのです。そのためなのか、学者としての引用の仕方としては時折、粗雑という印象を拭えないこともあります。

 たとえばこの本の中で自己決定をめぐる議論の途中で、次のような記述があります。

 

ミルの原著『OnLiberty』での「他者を侵害する」の表記は“harmful to others” となります。harmful (侵害する) とは一体どんな意味なのでしょうか。ミルの時代にはこのharmfulはゲバルトを指すと了解されていました。言うまでもなく、盗みや傷害や殺人や強姦や放火などの暴挙です。

 

自分である行為を自己決定して、自分の幸福を求める権利は、人間にはあるはずですが、行為を決定するにあたり、社会に生きる人間として、どんな行為をしても許されるわけではありません。そこで公権力が、個人が自己決定するにあたり、個人に介入してくることがあります。ミルは、公権力が正当に介入できる場合とは、唯一、その個人が「他者を害することを妨げる」ときのみだといいます。この原則は、現代の法哲学や倫理学で、「他者危害原則」(harm principle)と呼ばれています。

したがって宮台が引用している「他者を侵害する」という箇所は、ミルの『自由について』(1859年)の中でも特に引用される有名な部分なのです。にもかかわらず、宮台によるこの原文の引用“harmfulto others” は誤っています。

 

That the only purpose for which power canbe rightfully exercised over any member of a civilised community, against hiswill, is to prevent harm to others. His own good, either physical or moral, is not a sufficientwarrant. (John Stuart Mill, On Liberty. 赤字は鈴木による)

 

このように原文ではharmという名詞であって、harmfulという形容詞になっていません。宮台は、この引用後に数ページにわたりharmfulと英語を何度も引用し、その意味している内容がゲバルトにあたるものであり、ゲバルトが指す意味は、「盗みや傷害や殺人や強姦や放火などの暴挙」であって、ミルがこの文を書いた頃には、自分が相手にされて嫌だなと感じる「迷惑」は含まれなかったと説明しています。しかし、ミルの原文に対するこの説明は正確とはいえません。

 まずharmharmfulと取り違えることで、原文“prevent harm to others” という語句に、連想として隠れている“do more harm than good” という言い回しを読み落とすことになります(赤字の語に注目)。harmという名詞と、結びつきやすい語句が、“do more harm” です。この表現は日本の大学受験の英語問題でも出てくる「熟語」なので、指摘されれば思い出す方もきっといるはずです。

 この「熟語」は、何かをすると、その何かは一見すると良い影響をもたらすかのように見えるが、実は害をもたらすという意味です。たとえばミルと同時代に発刊されていた月間誌の記事には、神を暴君として描いているような本があるが、「そのような本は、異教徒の出版物がもたらす害よりももっと大きな害をもたらす。」(Such books do more harm than is done by the infidel press. The New Monthly Magazine (1870) Vol. 146) とあります。フランス革命により一時的とはいえ教会が一掃されたのは1794年、『共産党宣言』は1849年、マルクスの『資本論』は1867年に出ています。革命や共産主義に寄り添うような本により人が啓発されて良い影響をその人に及ぼすかのように思えるが、それは実際には大きな害をもたらすといっています。そしてここでもう一つ注意したいのは、harmの意味ないようです。harmは、本の読者に精神的な害毒となるであって、宮台のいう、「盗みや傷害」などの暴力に訴えるゲバルトということではありません。

 さてミル自身は、『宗教についての三つの試論』(Three Essays on Religion, 1874 ) のなかで、神を「強権をもった善良な、世界の統治者」と見なして元気になっている人たちは、神を全能だとは信じていないと断言しています。先の月刊誌から引用した記事の著者なら、神は全能でないというミルの記述を、ミルはなるほど「神を暴君」としてこそ描いていませんが、「そのような本」の一冊に入れたことでしょうし、ミルとしては、そのような著者を「元気になっている人たち」の一人に含めたことでしょう。

 ミルは、そのような元気な人達ですらも、「統治者[=神]は、その気になれば、人々が歩む個々の道からトゲをことごとく除去することもできるが、それをすれば必ず誰か他の人にさらに大きな害をもたらしてしまう。」(he could, if he willed, remove all the thorns from their individualpath, but not without causing greater harm to someone else)――このパラドクスにおそらく気づいているはずといいます。

 たとえば、『自由について』の出版から半世紀ほど戻り、ミルが幼少の頃にあった、「ラダイト運動」がこれにあたります。手織り職人たちは長い年月と苦労をして技術を身につけますが、産業革命により紡績機械が登場することで、職人の技術が不要になります。しかも織物の大量生産が可能になり、織物の価格も下がっていきます。

 織物の生産を一手に引き受ける主からすれば、また織物を購入する消費者からすれば、紡績機械の登場はまさに「トゲ」の除去です。しかし長い年月をかけ習得した技術が不要となってしまった職人とその家族にとっては、経済的にも自己尊厳の剥落という意味でも、その人たちにとっては紡績機械登場という「便益」goodにまさる「さらに大きな害」greaterharm です。ここでも「害」は宮台のいうゲバルトではありません。

 ミルは“to preventharm to others” の直後で、「便益」goodについて、「物理的にも、道徳的にも」と断っています。それに合わせて考えても、「害」は、「暴挙」やゲバルトという「物理的」に限定されたものとするよりは、自己尊厳を低下させ、節制・忍耐を弱くし、勇気をくじくような「道徳的な」ことまでも含んでいると考えるべきでしょう。




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