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(形像文化の世界へ)

ようこそ。 西洋文化と日本文化の接点を、誤解と理解という視点から眺めています。

鈴木繁夫

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2011年5月17日開始

紹介

鈴木繁夫
名古屋大学大学院 名誉教授
国際言語文化研究科 (2015年退職)

■学歴
上智大学文学部卒業
大阪大学文学部博士後期課程満期退学

■留学
ウィスコンシン大学大学院 (Rotary Foundation Scholarship)
ハーバード大学客員研究員 (Harvard Yenching Scholarship)
オックスフォード大学客員研究員(文科省海外先進教育研究実践支援プログラム)

■主要著作

Milton in Context(Cambridge University Press,  2010年)共著〔米国Irene Samuel 賞受賞〕

『考える英語習得: アクション・インクワイアリーからグローシアン英語へ』(英宝社, 2007年)

Milton, Rights, and Liberties(Peter Lang,  2006年)共著

『フーコーの投機体験―『これはパイプでない』探求』(渓水社,  2005年)





Misunderstanding can go both ways


2017/02/07

『国富論』の「義理」と「名誉」(2)

固定リンク | by:geoschita
                                                 
竹内謙二の生前に出版されていなかったために、竹内が『誤訳』で取り上げられることのできなかった『国富論』の主要な訳書は、本校の冒頭近くで取り上げた中公版・大河内訳の他に、水田洋監修による杉山忠平訳(岩波文庫
――この文庫だけでも総計三種類ある)と、山岡洋一訳がある。

今一度、水田・杉山訳と山岡訳との比較を容易にするために、原文と中公版・大河内訳をあげておくと、

The banks,(1)they seem to have thought, were(2)in honour bound tosupply the deficiency, and to provide them with all the capital which they wanted to(3)tradewith. [Cannan(1950) 292ページ]


[中公版・大河内訳]銀行は、面目にかけてもこの不足分をおぎない、かれらが事業に用いたいと思う資本のすべてを提供してくれなければならない、などとかれらは考えていたらしい。

ここが、最新版の山岡訳では、下線部(2)“in honour”が無視されてしまい、義務“bound”だけの訳になってしまっている。また山岡訳以外の先行する訳では、下線部(1) “they seemed to have thought”という挿入句を、「彼らは考えていたらしい」、つまり彼らは今はそのようには考えていないはずだという言外のニュアンスをきちんと映しているのに対して、山岡訳は無視してしまっている。さらには、下線部(3)“trade”(自動詞)で、「売買や交換などの商業活動を行う」という単語も訳出していない。

[日経版:山岡洋一訳]銀行には資金のこの不足を補う義務があり、借り手が希望するだけの資本を提供する義務があると、商人や事業主は考えているようだ。(『国富論』上 314ページ)

これに対して水田・杉山訳では、該当の箇所は、今述べた下線部(1)(3)をきちんと把握して訳している。


[岩波:水田・杉山訳]銀行は名誉にかけてもこの不足を補い、商売に用いたいと思っているすべての資本を自分たちに提供しなければならない、と彼らは考えていたようである。(『国富論』(二)
70ページ)

水田・杉山訳は、下線部(1)(3)をもらさずに把握した中公版・大河内訳を踏まえての訳のようなので、これら二つは、原文の単語の意味をしっかりと理解し、けっして単語を飛ばして訳さないという点で共通し、いずれも正訳であるといえる。

 しかしここで読者にはふと疑問が生じるはずである。それは、山岡訳には確かに訳し落としがあるのだが、その点を除外して訳の質という観点に立つと、山岡訳は他の訳よりも優れているという印象をもってしまうことだ。
 なぜこのような読みやすさが山岡訳にあるかといえば、該当箇所だけを上のように切り出して比較してみるとはっきりするのだが、山岡訳は読者が文を一読して意味がすっと通るように、冠詞、代名詞、指示形容詞が指しているものを山岡自身が言葉を補填して言い換えている。「この不足」を、「資金の不足」、「彼ら」を「借り手」や「商人や事業主」としている。また
”bound toand toという構文に対して、「~という義務」、「…という義務」と繰り返すことで、商人や事業主が考えていた義務がはっきりわかるようになっている。

『国富論』の誤訳をめぐっては、竹内の『誤訳』からほぼ25年後の1980年代に、ベック剣士と呼ばれた別宮貞徳が、水田洋(当時は河出版の訳者で、岩波文庫の監訳者ではなかった)との間での論争がある。この論争は、雑誌「翻訳の世界」に掲載されたもので、後に、別宮『翻訳と批評』(講談社学術文庫)に収められている。

別宮の立場は、「原文の逐語的な意味をはずさないように汲々としていることが、諸悪の根源」であり、翻訳における訳文は、「日本人の頭にすんなりはいる言葉の組立て方」でなくてならないとするものである。このに対して水田の反論は、「いわゆる達意の日本語は、しばしば外国語の論理的厳密性を犠牲にしてしまう」ので、読みにくい生硬な訳文であっても「論理的厳密性」を活かすならばやむえないという立場である。

ここでは詳述しないが、私自身は、学術書に関しては、「達意な日本語」である必要はないが、山岡訳に見られるような、冠詞や代名詞が指しているものに訳者が言葉を補うことや、原著者の主張の範囲がはっきりわかるように訳者があえて言葉を繰り返すことは必要だと考えている。そして逆に、「頭にすんなりはいる」ことに力点をおくあまり、原文の単語を飛ばし、原著者が原文に含ませている微妙なニュアンスを訳し飛ばすことには、とても抵抗を感じている。


[鈴木訳]銀行は道義上、事業の資金不足を補うべきであり、事業活動に必要だとする資本は全額提供されるべきだと、事業家や商人たちはかつて考えていたようである。


 

 

 

 

 

 

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