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(形像文化の世界へ)

ようこそ。 西洋文化と日本文化の接点を、誤解と理解という視点から眺めています。

鈴木繁夫
 

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2011年5月17日開始

紹介

鈴木繁夫
名古屋大学大学院 名誉教授
国際言語文化研究科 (2015年退職)

■学歴
上智大学文学部卒業
大阪大学文学部博士後期課程満期退学

■留学
ウィスコンシン大学大学院 (Rotary Foundation Scholarship)
ハーバード大学客員研究員 (Harvard Yenching Scholarship)
オックスフォード大学客員研究員(文科省海外先進教育研究実践支援プログラム)

■主要著作

Milton in Context(Cambridge University Press,  2010年)共著〔米国Irene Samuel 賞受賞〕

『考える英語習得: アクション・インクワイアリーからグローシアン英語へ』(英宝社, 2007年)

Milton, Rights, and Liberties(Peter Lang,  2006年)共著

『フーコーの投機体験―『これはパイプでない』探求』(渓水社,  2005年)




 

Misunderstanding can go both ways


2016/12/28

『国富論」のためらい(2)

Tweet ThisSend to Facebook | by geoschita
スミスのためらいの気持ちが出ていることをわかりやすく比較するために、該当箇所を切り出すと次のようになる。
[1-原文]The commerce and industry of the country, however,(1)it must be acknowledged,(2)though they may be somewhat augmented, cannot be altogether so secure,
[1 大内訳]とはいえ、断っておくべきことは、たとえこの国の商業や工業はいくぶんかは増進するにしても、必ずしも……安全ではない、ということである。
[1-水田訳]その国の商業と工業は、いくらか増大するにしても、……全く安全ではありえない。

念のために、[1]の各節・句を現代英語の通常のスタイルで置き直すと次のようになる。
[1-改変](1)it must be acknowledged, however, [that](2)though they may be somewhat augmented, the commerce and industry of the country cannot be altogether so secure,
ためらいの雰囲気は、下線部(1)が"be acknowledged"という語句からもうかがえる。
  "acknowledge" は、認めたくない事実を渋々認めるということだから、その事実に対してスミスは嫌悪感を抱いている。どんな事実に対してかといえば、国の商業や工業が生産活動を行い、生産された商品を供給するにあたって、金貨・銀貨のように実物によってその価値が保証されている貨幣によって人々が取引するのではなく、紙券を介して取引し、その取引が金の価値にリンクしていないため「必ずしも…安全ではない」という事実に対してである。
 しかも "I must acknowledge" ではなく "must be acknowledged" として "acknowledge" する主語をぼかしているから、「必ずしも…安全ではないということは、認めざるをえないだろう」となる。スミス自身は内心では安全だとは思っていないが、安全ではないという事実を認めたくない読者がいることをスミスは承知しているので、自分としても進んで認めたいわけではないがというポーズをとって、そのような読者にも自分の議論を一応は認めさせようとしているのだ。
 したがって下線部(1)は[1- 水田訳]のように、「全く安全ではありえない」と客観的に断定しているわけではなく、また[1- 大内訳]のように「ということである。」と事実を淡々と述べているのでもないのだ。
 次に下線部(2)だが、ここも下線部(1)と同様に受動態になっていて主語が明示していないが、訳文[1]からだけではほとんど類推できない。実は、明示されていない主語は本文[1]の直前にある、これまた長い文の主語(「慎重に行われるべき銀行業務」"the judicious operations of banking")が、ここで明示されていない主語になっているのだ。この点を踏まえて訳しているのが、大河内一男監訳『国富論』(中央公論社, 1988年)である。
[1- 大河内訳]けれども、次のことを承認しておかなければならない。すなわちこの国の商業や工業は、たとえ銀行業の操作によっていくらかは増進するにしても、……絶対安全ということはありえない、ということである。[この訳文は共訳者・玉野井芳郎が担当]

 ここでいう銀行業務は、先に触れたように、銀行券を介して売り手と買い手の決済サービスをするということだ。そうした銀行業務がからむことの恩恵を受けて商工業の規模が大きくなることをスミスがやはり不快に思っていることは、"somewhat" が概して否定的な内容を修飾する副詞であることから推測できる。

[鈴木訳]銀行が慎重に業務を行うことで、それはこの国の商工業を拡大することにまあある程度は何かの足しになるかもしれないが、商工業そのものは必ずしも安全ではありえなくなるということは、認めざるをえないだろう。

 以上のように、[1]の長い一文をここまで考えて読んでいたのでは、全体で約38万語から『国富論』は一生かかっても読み切れないだろう。しかしスミスはこうした微妙なニュアンスを読者にしっかりと感じ取って読み進めてもらうことを期待していたことは、節の配置や単語の選び方から伝わってくる。ただ現代英語を読む私達には、こういう書かれ方をした文章に出会うことはきわめて少ないから、スミスの文章は[1-改変]のように現代英語風に読んでしまい、スタイルから伝わる書き手のニュアンスの陰影ではなく、そこに書かれている内容を読み取ろうと悪戦苦闘してしまう。この苦闘によって文章一般の読解力や思考力は付くだろうが、英語力が付くかといえば、それは副次的な産物だろう。

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