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(形像文化の世界へ)

ようこそ。 西洋文化と日本文化の接点を、誤解と理解という視点から眺めています。

鈴木繁夫

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2011年5月17日開始

紹介

鈴木繁夫
名古屋大学大学院 名誉教授
国際言語文化研究科 (2015年退職)

■学歴
上智大学文学部卒業
大阪大学文学部博士後期課程満期退学

■留学
ウィスコンシン大学大学院 (Rotary Foundation Scholarship)
ハーバード大学客員研究員 (Harvard Yenching Scholarship)
オックスフォード大学客員研究員(文科省海外先進教育研究実践支援プログラム)

■主要著作

Milton in Context(Cambridge University Press,  2010年)共著〔米国Irene Samuel 賞受賞〕

『考える英語習得: アクション・インクワイアリーからグローシアン英語へ』(英宝社, 2007年)

Milton, Rights, and Liberties(Peter Lang,  2006年)共著

『フーコーの投機体験―『これはパイプでない』探求』(渓水社,  2005年)





Misunderstanding can go both ways


2017/02/08

『国富論』の「義理」と「名誉」(1)

固定リンク | by:geoschita
 21世紀になっても読み継がれている『国富論』の邦訳は五種類あるが、そのなかでもっとも読者の手に届かず、稀にしか読まれていないのは竹内謙二訳(1959-60年)であろう。他の邦訳が、岩波、河出書房、中央公論、日経といった大手からのものであるのに対して、竹内訳は慶友社という小出版社であった。初版は1921年(大正10年)、戦後まで改定を重ね1960年には改定5版を出している。1969年に版元を東京大学出版会に移し、竹内の死後、81年には千倉書房へと変えてこの訳は出回ったが、それでも岩波、中公の翻訳に押されて、一般の目に触れることはほとんどなかった。


竹内は大正8年に東大経済学部を卒業しているから、この翻訳は卒業後の大きな業績であったはずだ。現在ではわかりにくくなっているが、当時は、名著を翻訳することは、著作を執筆することと同じ程度の業績とみなされていた。

名著の翻訳は、現在でこそ、翻訳をしたそのことにではなく、いかにうまく訳しているかという翻訳の質から評価されるようになっているが、当時は名著の翻訳というだけで業績として高く評価されていた。その理由は、翻訳には訳者の理解がともなうはずという前提があり、この前提から、名著は訳すものではなく訳者の高い知的水準があって初めて訳せるはずだという先入観が生まれ、多数の辞書を机に積み上げ、あれこれ単語の意味を詮索しながら行う根気のいる作業だと考えられていた。

しかも翻訳という業績には学術吸収という実利が伴っていた。欧米で蓄積されてきた学問を吸収するには、その分野の名著を読破しなくてはならないが、原典(英・独・仏語)で読むスピードと邦訳されたものを読むスピードでは格段に異なっている。翻訳がもたらす学術的貢献は多大なものがあると学会では実感されていた。

ところが、知的に優れているはずの碩学が行った翻訳に誤訳がまぎれており、原典の意味を不正確に、場合によっては原典からまったく離れた内容を伝えているとわかったら、どうであろう。ネズミがかじった跡がある米俵は、俵の中の米全部がサルモネラ菌で汚染されているわけではないが、その米は事故米として捨てられるだろう。同様に、誤訳が何箇所か、それも中級レベルの文法を知らないかのような箇所が十箇所以上もあれば、その翻訳全体の信憑性が薄れ、この文の訳は正しいのかという疑いの眼をもって読者は神経質に文を追って読んでいかなくてはなる。


 実は竹内は、岩波版と河出版の翻訳について、数十箇所にわたって詳細にその誤訳を指摘している。その本のタイトルは『誤訳』だが、副題が「大学教授の頭の程」という手厳しい調子になっている。そこから伝わってくるように、竹内は、岩波版(旧版と新版)、河出版(後に岩波文庫入り)の誤訳を時には誹謗中傷とも取られかねない語り口で次々と挙げていく。しかも竹内はまえがきの中で、

私の正訳を人の誤訳と同日に見、扱われては甚だ迷惑だ。英語の出来ぬ者は何とでも言え。私は独り、私の訳こそは正確無比、と潔き良心にちかつて確信しているのだ。


と述べ、正訳は自分の側に、誤訳は相手の側にありと宣言している。英語を母語としていない日本人がどこまで英語で書かれたものの文意を正確に読み取れるかという疑念の尺度を、まるで持ち合わせていないかのようなのだ。

竹内が誤訳とする指摘を追っていくと確かに納得がいく箇所が多いのだが、本当に誤訳といえるのかどうか疑問を持たざるをえないような箇所も散見される。そんな例が“in honour bound”をめぐる指摘である。


The banks, they seem to have thought, were in honour bound to supply the deficiency, and to provide them with all the capital which they wanted to trade with. [Cannan
(1950) 304ページ]


スミスがこの箇所の前で述べていることをおおまかに要約すると、企業家(原文の
they)が運転資金をうまく調達するために、企業間で次々と融通手形を振り出し、そうした手形を銀行が手形の支払い額面よりも割り引いて受け取ることが、この当時、よく行われていた。銀行が引き受ける手形の額が次第に膨らみ、しかも企業は自らが発行した手形に支払えるだけの準備金を持ち合わせていないという状況が生じていた。しかしそれでも、企業家たちは銀行が手形を引き受け、自分たちの運転資金が提供されることを当然のことと考えていたようだというのだ。

 竹内が生前には目を通すことができなかった大河内訳(中央公論版)では、ここの箇所は次のように訳されている。


[中公版・大河内訳]銀行は、面目にかけてもこの不足分をおぎない、かれらが事業に用いたいと思う資本のすべてを提供してくれなければならない、などとかれらは考えていたらしい


竹内がここで誤訳だとしているのは、
”The banks werein honour boundの訳し方で、岩波版と河出版では次のようになっている。


[岩波・旧版:大内訳]彼等の考えでは、いやしくも銀行たるものは、かくの如き不足を補い、
……資本を供給することを以て名誉と心得るべきであった。


[岩波・新版:大内・松川訳]かれらは、かりにも銀行というからには、この不足分を充足すること、つまり自分たちが事業上必要とするいつさいの資本を調達することを光栄ある義務とこころえるべきものだ、とでも考えていたように思われる。


[河出版・水田訳]銀行は、この不足をおぎなうこと、
……資本を、かれらに提供することを光栄にも義務づけられているのだと、かれらは考えていたらしい。」


竹内はこれらを「とんだ誤訳」、「
とんでもない誤訳」だと評し、honourを名誉や光栄と訳したことにかけて、「名誉でも光栄でもない誤訳」という見出しを付けている。しかし本当にそうだろうか。竹内のいう正訳は、


[竹内訳]彼等は銀行は義理にもこの不足分を補給し、彼等の事業に必要とする資本を十分に彼等に提供すべきだと、考えたらしい。


「名誉でも光栄でも」なく、竹内が訳したように「義理にも」が本当に正訳なのだろうか。

 まず、「義理にも」という訳語を竹内は、斎藤秀三郎『熟語本位英和中辞典』からおそらく拾ってきている。


③(名誉対面を惜しむ)廉恥心、節操、義理。
I am bound (in honour) to succeed.義理にも成功せにゃならぬ。


まず、英文解釈から始めると、
be in honourが元の形であって、このときのin“be in danger”などと同じで、~という状態下にあるという意味で、~の状態にすっぽり包まれている感じである。だからbeの代わりにfeelで置き変えれば、その人の主観として、「自分が~という状態だと感じる」ということになる。

honourは通常であるなら、個人や団体がそれが属する社会において評価されている美徳、社会の中での良い評判のことであり、その誠実さ、業績、貢献ゆえに社会から勝ち得ている信用という意味である。しかしここでのhonourは誠実さや貢献とみなされる振る舞い方、オックスフォード英和辞典の定義にしたがっていえば、法的にはそのような振る舞いをする義務がないにもかかわらず、道義上の責任からそれが当たり前として慣用的に考えられている振る舞い方のことである。だから”you are in honourとあれば、「~のことをしているかぎりは、道義上の責任を果たしている」ということで、逆に「~にあることをしない」ならば、法的には何ら罰則を受けることはなくとも「社会的な対面は失う」ということになる。

念のために~にあたる箇所は、ここではboundで始まっているが、boundは「拘束する」、精確には「人を規則に従わせ、やってよいことの範囲を制限する」で、oblige「義務として人を何かをさせる」と置き換えることもできる。

したがって、“The banks …… were in honour bound”とは、企業家は、発行した手形の額面を引き受けるだけの準備金が不足している場合でも、銀行は手形を引き受け、企業が潤沢な資本を手にできる状態にすることは、銀行側にはそのようなことをする法的義務こそないが、「やってよいこと」であり、道義上そうすることが社会的な対面を保つことになるというのだ。

 果たしてこれが、「義理にも」だろうか。「義理にも美味しいとはいえない料理」というように、「義理にも」は今では「お世辞にも」という意味で使われることが多いが、斎藤秀三郎の「義理にも成功せにゃならぬ」は、「体面やつきあいの上からでも」ということだろう。

義理の対語である人情とからめると、「義理とは人情のないところに、人情がある時と同じように見せかける行為、また見せかけなければならないと思う規範意識」(板坂元『日本人の論理構造』)である。「義理にも成功せならぬ」というのは、成功しなくてはならないとは理性的には導き出せないし、義務があるから成功しなくてはとはどうしても思えないが、成功することを人情として感じなくてはならないから、成功しなくてはと感じているだけのことである。

しかも理性や義務の命じるところを越えて、「主観的衝動的に[自分の感じる]好き嫌いにもとづいて」(板坂・同書)、成功せねばと感じているのである。

 ところが英語の“be [feel] (in) honor boundは、「~することが道義上、社会的な対面を保つことになる」である。

「~すること」の内容は主観的に選択できるわけではなく社会の規範としてすでに決まっていることである。また「~する」ように振る舞うことを選択するのも衝動的にではなく、社会の規範だからと納得しつつその振る舞いを選び取っている。

だから、竹内が訳したように、「銀行は義理にも…提供すべき」とすると、まるで銀行が理性や義務の命じるところを越えて、主観的衝動的に資金を提供するかのように読めてしまう。

銀行が社会的対面を保つために道義的に資金提供が必要というのだから、少なくとも資金提供を「光栄ある義務とこころえる」(岩波・新版)は意味を汲み取った正訳といえるだろう。

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