◆日英語の認知相違◆ 5.《日本語認知の基本》 不確かを確かにする受け手の美


日本語: 不確かなメッセージを意味の通った確かなメッセージに変える

 このように受け手の側に復元・察しが要求されるのが、日本語表現の特質のわけですが、こうした習性は日本の伝統のどういう見方に起因しているのでしょうか。起因の一つとして考えられるのは、日本文化に底流としてある、受け手は送り手の出す不確かなメッセージを確かなものに変えて、送り手に共感するという姿勢です。不確かなものを確かなものに変えて共感するというのは、自分に提示されているものはなんであれ、それを完成されたものとはみなさないで、そこに自分で多少なりとも想像力を働かせ補って、相手のメッセージに呼応するということです。
 たとえば高校の教科書にもよく掲載されている次の歌はどうでしょうか。

月やあらぬ春や昔の春ならぬ わが身ひとつはもとの身にして
(在原業平『伊勢物語』124段)
月は違う月なのか。春は過ぎた年の春ではないのか。ただ私の身だけが前のままで変わっていない。

これは、業平の恋歌です。業平が恋していた女性が突然、身を隠して、住んでいた御殿から消えてしまいました。消えてから一年たったある夜、その御殿を訪れた業平が、捨てられた自分の思いを吐露しています。この歌にこめられているその思いとは、逢った女性ともう逢えないことを嘆く心情と表面的には読めてしまいます。
 しかし、業平は歌聖・紀貫之によって、「その心余りて、言葉足らず」(『古今集』「仮名序」)と評せられるほどの歌人です。「心余り」なのですから、もう逢えないことを嘆く情感は超えてあふれ出ているはずで、また「言葉足らず」なので、その限度を超えた気持ちを表現するのにそれに見合う言葉が十分に提供されていないはずです。ではこの歌のどこが「言葉が足らず」であるかといえば、「月も春も、昔のままのものではないのでしょうか」という問いかけです。
 この問いに対する答えは、月も春もめぐりめぐって変わらずにやってくるので、「昔のままです」となります。しかしそうすると、月も春も一年前と同じ月と春だとなり、昨年と同じなのは「わが身ひとつ」ではなくなってしまいます。にもかかわらず「わが身」だけは昨年と同じだと歌っているのです。「わが身」だけは昨年と同じなら、月も春も「昔のままではない」と歌わなくてはなりません。いやそもそも「わが身」は一歳、年をとったわけで、本来なら、「わが身」だけは昨年と違うといわねばならないはずです。
 一見すると、この歌は女と逢えないことを嘆く心情を、ストレートに述懐している確定形のように読めてしまいます。しかし同じ・違うをめぐって、この歌にはあきらかに「言葉足らず」の「不確かさ」があるわけです。それに読みては気づいて、業平の奥深い心情、すなわち「心余り」を察して、その「心」を復元し確かなものとして完成させるその過程が読み手に求められているのです。
 試みに、確かなものへと完成させてみることにしましょう。まず上の句「月や」と「春や」の係助詞「や」は、「…や…や」と並列的に用いられて疑問をあらわしています。ただしこの疑問は疑問でも、業平が「去年と同じである」という常識的な答えを確認したいがためのものではありません。平常であるなら当たり前で、疑問にもならないはずの疑問を、それも冒頭であえて出すのは、そう問いかけを出したくなるほどに、その当たり前に疑問符を付けたくなる思いが募ってきているからです。付けたくなる原因は、月や春が去年と同じであることが疑問として浮かび上がってきて、疑問符を打ち消そうにも打ち消せないほどの精神的な惑い(「心余り」)が業平の気持ちを占有しているからに他なりません。月も春も去年と同じという常識的に現実であるはずのことが、とうてい現実と思われない実在性をもって業平の心に迫ってきているのです。
 そして下の句にある、一年経っても「我が身」が変わらないのは、逢えないことの嘆きの量も度合いも、時の経過によって減ることはなく、心は癒やされないまま嘆き続けているからです。現実には歳を取るだけではなく、その深遠な嘆きによって身体は疲弊していて、「我が身」は変わっているはずです。にもかかわらず、そういう現実を忘れさせるほどに、嘆きの大きさだけが心を席巻し、その大きさに微塵も変化がないので、自分は昨年から何も変わっていないと心理的事実を打ち明けているのです。
 こうしてみると上の句も下の句では常識的な感覚がくつがえされながら、自然界に起こっていると自分の身に降りかかっていることとがつながるように歌われていることがわかります。受け手はこうしたことを察して、作者の嘆きの深さを復元し、メッセージを確かなものにし、作者の心に共鳴することになるわけです。
 通常の日本語ではこれほどまでに想像力を働かせて復元・察しを行う必要はありませんが、「言葉足らず」が日本の伝統文化に流れていることは了解していただけたと思います。なお「言葉足らず」にさらに付け加えていえば、受け手がこうした復元・察しという作業過程を経て、送り手の不確かなメッセージを意味の確たる実質を伴ったメッセージへと変身させることに、日本人は美しさを感じてしまうようです。「不完全さ」を「確たるもの」に変貌させることを、岡倉天心は次にように説明しています。

The Taoist and Zen conception of perfection, however, was different. The dynamic nature of their philosophy laid more stress upon the process through which perfection was sought than upon perfection itself. True beauty could be discovered only by one who mentally completed the incomplete.  Kakuzō Okakura, The Book of Tea (Shambhala, 2003) 70.

道教でも禅でもその本質は動的であるから、できあがった完成よりも、完成に至るその過程を大切にする。だから本当に美しいものとは、不確かなものを心のなかで確たるものにさせることのできる人だけがわかるのだ。