「民主主義は最悪の政治制度」という逆説的チャーチル演説 (1): 堺屋太一『歴史の使い方』


堺屋太一『歴史の使い方』(日経新聞社, 2013年)


堺屋太一というオピニオン・リーダー

 近未来小説というジャンルを日本で最初に開拓したのは堺屋太一で、その処女作は石油危機を予言した『油断!』であった。堺屋太一は、作家といったレッテルには到底収まりきらないような活動をしつづけてきた。元は、通産省(現 経産省)の官僚として1970年の万博の招致、企画を行い大成功に導いた実践家であった。その一方で、知価社会、団塊の世代、失われた10年といった日本の経済や文化を読み解くためのキーワードを数多くの評論集のなかで作り出した。作り出すのにとどまらず、それらの用語を一般の日本人が皮膚感覚で理解できるようにと、日本の歴史に題材を取りながら歴史小説(時代小説ではない)として表現していった。このように広範囲な知的啓蒙活動を展開していった堺屋は、同時代の人々に、どうすれば日本が経済的にも文化的にも沈没せずに進んでいけるのか、その指針を示す賢者であった。知識人、経済界、政界はもちろんのこと、一般大衆にも広く受け入れられたオピニオン・リーダーであった。現在の先進諸国を見渡しても、ここまで幅広く活動し、また人々にきわめて好意的に受け入れられている人物は稀有といってよい。
 通産官僚としての道を捨てて、在野の人となり、政治制度・経済政策を啓蒙する評論活動を活発に続けていった堺屋には、民主主義が政治制度としては日本にふさわしいという信念があった。これは堺屋が教育を陸軍将校が経営する大阪(かい)(こう)社付属小学校で受け、軍国主義の理不尽さを味わったことに由来しているのかもしれない。それと同時に、規制で経済活動を縛り、前例にこだわって、自由な発想や創造力の発揮の芽をつむ官僚の体質から脱却しなくては、民主主義はその本来の力を発揮できないと考えていたこともあったのだろう。軍国主義、官僚制にからめて、堺屋は民主主義について、次のように述べている。
 

(1)民主主義は許容できる最悪の政治制度である」といったのはイギリスの政治家ウィンストン・チャーチルだが、すぐ続けていっている。「(2)それにもかかわらず、これに優る政治制度を人類は発見していない」。チャーチルにとっては、独裁制や官僚制は許容できない制度なのだ。これらが途方もない独善と偽善に陥り、修正しようもない失敗を犯すのは’戦前のナチズムや日本軍国主義、戦後の社会主義でも明らかだ。これに対して民主主義の欠点は、金銭疑惑と衆愚政治である。

堺屋太一『歴史の使い方』 264-65.

 ここでチャーチルの言葉が引用されているが、該当箇所は、チャーチルが1947年にイギリスの庶民院(日本の衆議院)で行った演説の一節である。チャーチルはイギリスを第二次大戦の戦勝国へと導いたが、戦後最初の総選挙(1945年)で労働党に敗北し、47年には野党である保守党党首を務めていた。この前年にはあの歴史に残る「鉄のカーテン」演説をアメリカで行っている。そしてこの有名な「民主主義」演説である。
 この演説は、「1911年議会法」の修正審議にあたり、11年当時、ロイド・ジョージ率いる労働党の閣僚として、この議会法制定にチャーチルが関与していたこともあり、チャーチルは、「1911年議会法」制定にどういう立法意志があったのか、その説明を求められたときのものである。「1911年議会法」とは、貴族院(日本の参議院)は庶民院が通過させた財政法案について拒否権を発動する権利がないとするもので、この議会法によってはじめて庶民院が貴族院に優越することが定められた。この優越性をさらに強化しようとしたのが、「1911年議会法」の修正法案で、この法案は後に「1949年議会法」といわれることになる。与党労働党が、修正法案を提出したのは、党として、航空、製鉄、鉄道の国有化をめざしていたが、国有化法案が貴族院に阻止されることを恐れてのことであった。

一瞬の思考の


 チャーチルは「1911年議会法」の立法意思は、民主主義が正しく実行されることにあったと回答をしている。そして、それに続けて、

Many forms of Government have been tried, and will be tried in this world of sin and woe. No one pretends that democracy is perfect or all-wise. Indeed (1)it has been said that democracy is the worst form of Government (2)except for all those other forms that have been tried from time to time. Winston S. Churchill, 11 November 1947.

罪と苦悩のこの世界で多くの統治形態がこれまで(ため)されてきており、そしてこれからも試されることでしょう。民主主義が完全だ、至極賢明だなどとあつかましくもいう人はいません。それどころか、(1)民主主義は統治の最悪形態だといわれてきています(2)ただし、今までに試されてきたすべての政治形態を除いてはですが。(拙訳)

 ヒットラーの独裁主義と戦い、目下、スターリンの独裁主義との戦いに入っていこうとしている民主主義の英国のその議場において、(1)のような民主主義を腐す言葉を堂々と吐けるのは、ヒットラーを倒したチャーチルだったからだろう。ここで議場の議員たちははっと息の呑んだはずである。そしてこれに続いて(2)が述べられるが、訳文を読んでもわかるように、(1)と(2)をつなげる論理を聴衆は一瞬、頭の中で考える必要がある。この文の趣旨は、民主主義は最悪の政治形態なのだが、ほかの政治形態よりはましだといっているのだ。一般にいわれている言い回しを使えば、「悪いうちでもましな方」(the lesser of the two evils)ということだ。この論理を思いつかなくてはチャーチルの真意がわからない。その一瞬の思考の()を生み出すのがチャーチルの演説の妙味であり、チャーチルが秀逸な弁論家と評価されるゆえんである。
 この一瞬の思考の間を生み出す他の例は、たとえば、「始まりの終わり」演説だ。モントゴメリー英国将軍率いる連合国は北アフリカでの戦車戦で、「砂漠の狐」と評されたドイツの名将ロンメルを徹底的に打ち破った。これまで劣勢にあった連合国は、この勝利を転換点にして形勢を挽回していく。その勝利をたたえる演説で、チャーチルは、 “Now this is not the end. It is not even the beginning of the end. But it is, perhaps, the end of the beginning.” 「これは終わりではない。終わりの始まりですらない。だが、おそらく始まりの終わりだろう」といって、一瞬の思考の間を生み出している。これも一般的な言い方をすれば、「これは、戦いの序章が終わったということで、戦いはまだこれからも終章まで延々と続く」ということになる。
 一瞬の思考の間がチャーチル演説の妙味だということを頭において、原文と対照しながら堺屋訳に戻ってみると、どうだろう。

(1)it has been said that democracy is the worst form of Government
     (2)except for all those other forms that have been tried from time to time.

◆堺屋訳
(1)民主主義は許容できる最悪の政治制度である。
      (2)それにもかかわらず、これに優る政治制度を人類は発見していない

◆拙訳
(1)民主主義は統治の最悪形態だといわれてきています。
      (2)ただし、これまでときおり試されてきたすべての政治形態を除いてはですが。

 堺屋訳には原文にはない、「許容できる」、「発見していない」といった言葉が挿入されることによって、(1)と(2)とを読者が論理的につなげようとする一瞬の思考の間が、軽妙に、すっと流れるように、入り込むようになっている。しかも(1)のあとに、「チャーチルはすぐ続けていっている」(前掲引用『歴史の使い方』参照)とことわって、間を生み出す力を増幅させている。これに対して、拙訳では原文に忠実であるかもしれないが、この間が重すぎて、読者は頭を抱えてしまう。


やさしい言葉と笑い

 ところで、「始まりの終わり」も「最悪の政治制度」も、ともにゲンルマン語系の言葉(日本の大和言葉)だけを使って聴衆の心にすんなりと入るように工夫されている。もちろん「政治」 governmentはラテン系の言葉(日本の漢語)だが、日本語の「天皇」と同様にゲンルマン語系の言葉として意識されるのが自然なほど頻繁に使われている。
 心にすんなり入る言葉が一ひねり入れられて逆説表現になっているので、これは笑いを誘う。実際、チャーチルが「始まりの終わり」といい終えたとき、ほんの1-2秒ほど間をおいて聴衆から笑いが起こっている(This is not the end)。そして「最悪の政治制度」演説の(2)を述べた後で、場上の議員の間から笑いが起こったかどうかは記録が残っていないが、きっと起こったはずだろう。実際、この演説には、随所にこの種の逆説が埋め込まれていて、そうした箇所で笑いが起こったという記録が残っている(演説の翌日、タイムズ紙が約2面割いて、この演説を要約)。
 チャーチルの演説には、間を生み出す力、心に訴える言葉選び、逆説的メッセージ、誘う笑いという4点セットの文が随所に散りばめられている。この4点から判断すると、堺屋訳は、先ほど述べたように、間の力ははっきりと読み取れ、原文にはない言葉を入れて理解を助け、「悪いうちでもましな方」というメッセージがすんなりも伝わってくる。ただし、堺屋訳が笑いを誘うかといえば、これは読者の感覚しだいとはいえ、苦笑程度は出てくるであろう。こうしてみると、この堺屋訳は名訳といわざるをえないのではないだろうか。

「といわれつづけている」というチャーチル

 ただし、堺屋訳の(1)の末尾は、「制度である」とチャーチル自身が判断し断定しているように訳されている。原文は it has been said で、「制度であるといわれつづけている」とチャーチルは自分の判断ではないが一般にそういわれているとトーンをやわらげている。だからせめて堺屋訳では「制度だといわれている」とすればさらによかったのではと悔やまれる。そして次稿でも触れるが、この「といわれつづけている」の読み落としが、チャーチルのこのメッセージを部分的にだが、堺屋は読み違えている。
 なお、ここにみられるように、自己判断を一歩引く点もチャーチルらしいところだ。「最悪の政治制度」だといっているのはもちろんチャーチル自身であるが、それをわざわざ「といわれてきている」としているのは、「だれかそういっていたかなあ」とやはり一瞬の思考の間を入れ、それと同時に最悪などと口にするチャーチル自身に反感をもたれないためのクッションの役割を果たしている。
 最後に、付けたりだが、この数日後に王女エリザベス(現 女王)がフィリップとウェストミンスター寺院で、結婚式を挙げるが、チャーチルはわざわざ式場に遅刻して、参加者から拍手を浴びる。チャーチルは遅刻常習犯として名を馳せていたが、この場に及んでも遅刻とはと、聴衆を笑わせたのだった。

(本文中、敬称略)


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