エンブレム集の誕生


 本人の意思とは無関係に新しい文学ジャンルを考えついた16世紀の法律学者がいた。アンドレーア・アルチャートである。 16世紀西ヨーロッパでローマ市民法の三大権威の一人とあおがれていたアルチャートは、『ローマ市民法大全』のなかの一章をしめる『言葉の意味について』という項目について、単著の形で次のように述べている。

言葉というのは指し示す役目をし、物は指し示される役目をはたす。しかし、物もまた、ときには指し示す役割をになえる。例えばホラポッローやカエレモンの神聖文字がそうである。このことが頭にあって、詩の形で一冊の小さな本を書き上げた。それが『エンブレーマタ』である」。 [カエレモンは、アレクサンドリア出身の学者で、暴君ネロの教師]

アルチャートのエンブレム集は、古典時代の作品で言及されている人物や出来事、またアルチャートと同時代の風物などについて、そうした広い意味の事物がどんな道徳的寓意をもっているのかをあきらかにしている。そのことはこの本を実際に読んでみるまでもなく、この本についてアルチャートが友人にあてた手紙のなかでも述べているこの本のねらいが、教えてくれる。

このサトゥルヌス祭期間に著名なアンブロージョ・ヴィスコンティ様に命ぜられて、エピグラムの小さな本を一冊作りました。それの表題は『エンブレム集』です。それぞれエピグラムにはなにか優雅な意味をもつものを創作しました。これにならえば、画家、金細工師、鋳物師などは、私たちが盾 (scuta) とよんでいるもの、外出用帽子 (petasus) に付けるもの、標章 (insignis) として携えるもの、つまり、アルドスの錨、フローベンの鳩、長いことお腹を大きくしているが何も生まないカルボーの象といったようなものを作り上げることができるのです。(1522年12月9日付)

Gianluigi Barni, Le Lettere Di Andrea Alciato Giureconsulto (Firenze: Felice Le Monnier, 1953) 24.

エンブレム集というエピグラム

エピグラムというのは、ギリシア文学の一ジャンルで、記憶に値するような人や事績について述べた詩で、墓碑や願かけなどに記載され残されることが前提となって作られたものである。墓碑・願かけに記載されることから推測がつくように、この詩では簡潔な表現による豊かな余韻が重んじられ、しかも詩行は短くなくてはならなかった。エピグラムとして現代の私たちにも知られているのは、テルモピュライの戦い(前480年)で玉砕したスパルタ人の墓碑銘である。

旅びとよ ラケダイモンの人びとに 行きて伝えよ 
御国(みくに)の おきてのままに ここにわれら 討ち果てたりと[1]

エピグラムが一ジャンルとして現在に至るまで伝わることに貢献したのが、エピグラムを集めた『ギリシア詞華集』(Anthologia Graeca, 12-3世紀頃成立) である。内容は当初の墓碑・願かけに加えて、恋愛、教訓、世間諷刺、キリスト教に関連した墓碑・願かけも含まれている。この大量の数行詩の集成(訳3700, Loeb版各巻500ページ程度で5巻本)は、フィレンツェで1494年に印刷出版される。人文主義者たちは自らが気に入った詩をこぞってラテン語に訳していった。そうしたなかでバーゼルの出版者ヨハンネス・コルネリウス (Johannes Cornarius)は、『ギリシア詞華集』のラテン語による抄訳を計画し、出版された『抄訳集』(Selecta Epigrammata) には、アルチャートのものが154点採用されている。そしてそれらのなかのかなりの点数が、『エンブレム集』にそのまま採用されている。

社章からエンブレムへ

 アルチャートが書簡のなかで例としてあげているアルドスの錨(図)、フローベンの鳩(図)、カルボーの象はいずれも出版者(当時の出版者は個人個人によって信念と方針があり、出版社の名前がそのまま社名であった)が本の表紙に大々的につけた社章である。ここでアルチャートが暗にいわんとしていることは、紋章にあらかじめ規則があってかってに作っても紋章にならないように、記章も自分の思いつきで作ってはたいしたものができない。ところがこの本にのっている記銘詩(エピグラム)にもとづいて、記章をつくればいいものができるということだ。


[1] 中務哲郎 and 大西英文, ギリシア人ローマ人のことば : 愛・希望・運命, 岩波ジュニア新書 (岩波書店, 1986). 57.


アルドゥスの出版者章
フローベンの出版者章

ここでいうエンブレムとは、自然の事物をたんに視覚的に美しい形で意匠化すればよいのではなく、そこに含蓄のある意味を充填しなくてはならなかった。

古典文学の教養と教訓


 不幸にもこの手紙で言及されている『エンブレム集』という本の存在は、いまだに発見されていない。 21年に出版されていたはずのこの本の存在が確認できるのは、1531年である。この31年版のあとアルチャートが没する1550年頃までしだいにその内容を増補しながら、この本は成長していく。しかもよくぞこれほどまでにと思うほど、大量の注釈を編集者によって加えられながら、17世紀までには175版を重ねることになる。

エンブレムというジャンルの成立


 この本は16世紀だけでも、その版数でいうならラブレーの『ガルガンチュア物語』をうわまわる大人気をはくした。この本がきっかけとなるというとやや正確さを欠くが、この本の類書が16世紀から17世紀にかけて多く出回るようになる。19世紀の古書目録では、図像とそれを解説する文書からなるこの一大ジャンルを便宜的にエンブレム集(emblemata) とよんでいたが、その呼称は現在でも踏襲されている。
 一枚ごとのエンブレムの構成は、格言、諺、モットーなどの題銘(inscriptio)、図絵の解説(subuscriptio)、そして図絵(Pictura)というこの三つの基本的な要素からなっている。これに欄外註や末尾註がつくことがある。これら三つの要素のレイアウトは、たとえばにあるように、一ページのなかに図絵を中心とすると、図絵の上に格言がつき、図絵の下には説明がつくというようになっている。エンブレムでは題銘や図絵が、アルファベット順、主題別、そのほかなんらかの体系にもとづいて整理されているのがふつうだが、とはいっても、格言や諺を脈絡のないままにページからページへとばらばらに列挙し、それを一冊にむりやり収めたという色彩が濃い。だがそれにもかかわらず、一冊の作品を通覧通読したあとには、かならずといってよいほど教訓や諺にたいする作者の独特の構えをみせつけられる。最終的に約210葉に落ちつくエンブレムは、そのほとんどが古典作品からの引用にもとづいた、健全なる教訓書になっている。