アンソニー・トロロップ『エウスタス家のダイヤ』 Trollope, The Eustace Diamond (1873)
『エウスタスのダイヤ』
設定
186?年冬 スコットランド・クライド湾岸(グラスゴー北西部)およびロンドン
登場人物と梗概
リジー・グレイストック・エウスタス Lizzie Greystock Eustace, 借金まみれの軍人の父に育てられ、21歳で老人エウスタスと資産目当ての結婚をする。この夫との間にリジーは一人の子供をもうけるが、夫はまもなく死亡し、ダイヤのネックレスの他にスコットランドの邸宅を手に入れ、一躍資産家となる。
フランク・グレイストック Frank Greystock, リジーのいとこで、法廷弁護士にして庶民院議員。偶然から、貴族のフォーン家に住み込みの女性家庭教師と婚約するが、リジーへの恋慕の情が断ち切れず、リジーの苦難に寄り添い手助けをする。
ルーシー・モリス Lucy Morris, フォーン家に住み込みの女性家庭教師。貧しいが性格がすぐれており、フォーン家の娘たちから深く愛されている。
ルーシンダ・ロアノウク Lucinda Roanoke, アメリカ人であるが、イギリス人の叔母に引き取られロンドンで生活する。叔母の社交でストッランドのエウスタス邸宅に招かれ滞在する。
サー・グリフィン・ティーウエット Sir Griffin Tewett, 土地資産のある家の長男で、スコットランドのエウスタス邸宅に招かれ滞在する若者。
■梗概■エウスタス家の家宝であるダイヤモンド・ネックレスの所有権とその盗難をめぐって、話は展開していく。しかしネックレスの行方と並行して、女主人公であるリジーが、許嫁ルーシーがいる従兄弟のフランクとどのような関係になっていくかについても話は進んでいく。またサブプロットとして、リジー邸宅の客であるルーシンダが同じく客のサー・グリフィンと結婚に至るかどうかも話の推進力となっている。この三人の女性のうち、リジーとルーシーは好対照をなしている。リジーが自己の思い描く淑女像を傷つけないように嘘、演技、不実、誘惑で身を固めているのに対して、ルーシーは、人間の誠実さを疑わず、貧しくとも自らの誠実さを捨てようとしない。フランクは、そんなルーシーの人柄に惚れて結婚を申し込むが、彼自身の地位・職種からすれば財産が必須で、ルーシーよりもはるかに美人である資産家リジーに心が惹かれてしかたがない。しかし、ダイヤの盗難にあたってのリジーの嘘を始めとした手練手管に辟易し、最終的にルーシーと結婚する。ルーシンダは、トロロップの小説によく登場するアウトサイダーで、イングランドの社交規則に必ずしもなじめず、どこかイングランドの生活慣習を斜めに見て距離をおいている。アウトサイダーは、社会の中で当然とされている通念に従わず社会から孤絶することがあるが、ルーシンダの場合には、結婚式の当日、発狂し、式は執り行われず、ルーシンダの保護者である叔母は事実上、破産してしまう。
求婚:男性サー・グリフィンから女性ルーシンダへ(エウスタス邸宅にて)
<男性>1. Come;—I will have an answer. When a man tells a lady that he admires her, and asks her to be his wife, he has a right to an answer. Don’t you think that in such circumstances a man has a right to expect an answer?
<女性>2. In such circumstances a gentleman has a right to expect an answer.
<男性>3. Then give me one. I admire you above all the world, and I ask you to be my wife. I’m quite in earnest.
<女性>4. I know that you are in earnest, Sir Griffin. I would do neither you nor myself the wrong of supposing that it could be otherwise.
<男性>5. Very well then. Will you accept the offer that I make you?
<男性>6. It requires no more thinking with me, Lucinda. I’m not a man who does things without thinking; and when I have thought I don’t want to think again. There’s my hand;—will you have it?’
(Chapter 41)
■■【プロポーズの答えを要求する】
1. ねえ、どうしても答えてほしいいんだ。男性が、「僕、憧れています」といって、「お嫁さんになってくれませんか」と女性に告白したなら、何か答えてくれて当然と男性は思うでしょう。どうです、そんな場合には女性の方が何か返事をするのが礼儀というもんじゃないですか。
(女性はちょっとためらってから、真剣に)
2. そこまでおっしゃったなら、紳士の方なら返事を期待するのが当然ですね。
3. ならば、返事を。この世で何よりも君にあこがれているんです。お嫁さんになってくれませんか。大真面目でいっているんです。
4. サー・グリフィン、大真面目なのはわかっています。そうでないなんて思ったりする誤解を、あなたも私もしてはなりませんわ。
5. よろしい。ならば、この申し出、受けてくれますね。
(女性は、求婚の再考を求めるが、)
■■【告白の理由を自分の性格にからめる】
6. ルーシンダ、僕にはもうこれ以上考える必要はないんだよ。考えずに何かをするような男じゃないんだな。いったん考えが決まったら、もうそれ以上考えないんだ。僕の手を握ってくれるかな。
◆評◆
1の部分で、「当然」、「礼儀」と訳した言葉にあたる英語は a right 「権利」。告白したのだから、女性から何らかの返事をもらえる「権利がある」と、この男性はニ度も繰り返している。告白すれば、自動的に自分は回答を得られる権利が生じるのだという脊髄反射のような考え方には、告白という重大事件が相手に降りかかったとき、相手がどういう気持になるかということへの想像力もなければ、即答できない相手の気持の逡巡を推し量って、その場での回答ではなくゆっくり考えてからの回答をというように、相手に猶予を与える配慮もない。つまり、相手を自分のものにしたいという情熱はあっても、相手を愛する情熱が欠落しているのだ。
さらに「権利がある」という言い方には、回答を要求する自分の立場の正当性が前面に出ていて、そこには回答しない相手は義務不履行という負い目を感じさせる高圧的な構えがともなっている。愛があるなら、相手との一体感を作り出し、相手の心を自分の心につなげる絆を構築しようとするはずだ。しかしこの高圧的な構えは、そうした心の深い情に基づくつながりを相手に求めていないことを裏書きしている。しかもその構えには、この時代の若い女性(当時、彼女は18歳)なら誰もが結婚に求めていたロマンチックな愛における男性から女性に対する柔和な態度、抑えられない憧れの気持ち、過渡の理想化とは真逆の力が息づいている。
ロマンチックな愛では、身分違いの結婚、財産の多寡の隔たりといった現実とのギャップに恋人同士が苦しむことがしばしばだが、ここでは皮肉なことに、女性の心を理解しようともせずその心を手に入れようとする男性の側の無神経な態度という現実が、女性を苦しめている。だからこそ、女性の方は、男性の告白に対する返事として、2にあるように、「男性」ではなく「紳士なら」とことさら「紳士」を強調して、男性が紳士ならこのように高圧的に答えを引き出そうとはしないと暗示する。
唯一ロマンチックな愛を彷彿とさせるのは、3にある、「大真面目です」という熱意ある言葉である。しかし、その「大真面目」に対して、女性の方が真面目なのはわかっていますではなく、「私もあなたも」その点での誤解はないというと、またしても男性は脊髄反射をして、相手の女性は自分の告白が真剣なものだとわかっているのだから、即答できるはずで、自分の身分・地位から判断して相手からの答えはイエスに決まっていると思いこみ、5のように、再度、結婚の申し込みをする。
こうした傲慢と無神経さは、なおも回答をためらう女性が、再考されてはどうでしょうという提案をすると、6にあるように再考不要と提案を即時突っぱねる言葉からありありとうかがえる。
実はこの男性はグループで邸宅の近郊にある森で狐狩りを数日前にしていた。狩りの最中にこの女性が乗っていた馬が川にはまり、馬も女性もずぶ濡れになったとき、男性は召使いとともに女性を救い出した。そして岸辺で愛の告白をする。それに対する女性の答えは、「ずぶ濡れなので、今は答えるのにふさわしい時ではありません」と、返事を曖昧にしている。この男性は、自分の主張と思いが眼前の視界を占領していて、相手の気持やその場の空気が読めないのだ。
他方、女性の方は、結婚させたい叔母の意向を汲んで、この男性を憎んでいるにもかかわらず、結婚の承諾をしてしまう。しかし結婚式当日に発狂し、この結婚は破談となる。