<見るー見られる>能動・受動, そして<見える>中動

 私たちは普段、外に視線を投げかけて、対象を見ようとします。そして家族や友人と会話をしていれば、自分は相手から見られています。こうした見る・見られる行為は、文法の用語を使っていえば、「見る」が能動態、「見られる」が受動態です。
 しかし視線を意識的に投げかけなくとも、常時、自分の周りのものは見えてきています。この自然に見えてきてしまう「見える」は、能動態と受動態のどちらの枠にも収まりません。「見える」は、意志を使って意識的に「見る」能動態とは、そこに意識が介在していませんから、私が能動的に対象を見ているわけではありません。また「見える」は、見えてくる対象が私によって見られているわけではないので、受動的でもありません。能動でも受動でもないこのような自然に「見える」ことを、古典ギリシア語の文法では中動態とよんでいます。
 私たちが英文法を習うとき、能動と受動の2つの態しか教えられません。この英文法が暗に物語っているのは、西欧では「見る」か「見られる」かの二元対立が主流であって、自然に「見える」ことは傍流に押しやられているということです。

「見る―見られる」能動・受動の確立

 「見る―見られる」の能動・受動の二元対立が鮮明になった画期的な時期は、透視図法による空間把握をするようになった15世紀です。透視図法は、あのフィレンツェのカテドラルのドームを設計したブルネレスキが1415年に再発見したことになっています(図1)。透視図法は古代ギリシアでも世界地図制作などに用いられていましたが、これをブルネレスキは原理的に説明し、実験によってその原理の正しさを証明します。以後、透視図法は、空間とその内部にある事物を描写するための方法として一般化していきます。方法を解説し普及に貢献した芸術家の一人が、ドイツの画家デューラーです(図2)。透視図法を説明するこの図では、見る画家(能動)―見られるモデル(受動)の二元対立があることがはっきりとわかります。

「見る―見られる」能動・受動の拡大強化

 この「見る―見られる」二元対立は、宇宙観を覆すことになるガリレオの天体望遠鏡(30倍率, 1609年, 図3)、また精子や細菌といったミクロの世界を発見したレーウェンフックの単式顕微鏡(300倍率, 1670年代, 図4)に受け継がれます。ガリレオはフィレンツェ、レーウェンフックはデルフトと、いずれもそれぞれの時代におけるレンズ生産加工が盛んな都市ですが、フィレンツェにはレオナルド(図5)が、デルフトにはフェルメール(図6)と、透視図法を十分に駆使し傑作を残す画家がいました。

図 3 ガリレオ天体望遠鏡 (1609年)

「見える」中動の成り立ち

 「見る―見られる」の能動・受動の二元対立は異なった二者間で成り立ちますが、同一の対象において成り立つことがあります。鏡で自分の顔を見るときです(図7)。鏡には自分が「見る」対象として自分像があり、その自分像は「見られる」ものなのですが、「見られる」自分像を通じて自分を見ているわけですから、ここでは「見る―見られる」の二元対立は自分(能動)と自分像(受動)という形で保持されながらも、自分という同一対象において実現しています。自分で、本来なら見えないはずの自分が自然に「見える」わけです(図8)。
 そもそも鏡は、その表面が滑らかなので鏡に向かって入ってきた光が反射して鏡像ができます。能動態のように自らの意志を働かせて対象を映し出しているわけではありません。そして映し出されている鏡像は鏡に向かって入ってきた光によってできあがるので、鏡は光に対して受動的です。鏡とその鏡像が作り出している様態は、意志が介入しない非能動であって、受動的といえるわけです。このような様態が、最初に述べた中動態です。

鏡という中動

 そして鏡はそれが置かれる場所によって、映し出される対象は自然に変わってしまいます。こういう性質をもっている鏡は、対象に働きかけて何かを「する」という能動態の性質とは対照的に、自然の勢によってそう「なる」といえます。こうしてみるとさきほど述べた、自分の姿を鏡で「見る」場合も、自分の姿が鏡の上に「見える」わけですが、それは自然の勢いで見えてきてしまうように「なる」といったほうが、状況を正確にいいあらわしていることになります。そしてこの自然の勢いで見えてきてしまうように「なる」が、「見る」(能動)でも「見られる」(受動)でもなく、「見える」(中動)であることはいうまでもありません。ですから「私は自分の姿を見る」(能動)は、「私は自分自身が見える」(中動)、「自分の姿が見える」(中動)といったほうが、鏡を介して起こっている事態を精確に表現していることになります。

「見える」中動の反転・縮小

 つぎに、鏡に自分ではなく何か別なものを鏡に映し出すときには、その対象を鏡を介して自分が見た場合には、「見る―見られる」の二元対立が折り重なるのがわかります。まず鏡において、対象が「見る」鏡(無生物主語)と、鏡によって「見られる」対象という二元対立があります。そしてそこに重なるようにして、今度は自分において、鏡像を「見る」自分と鏡によって「見られる」対象という二元対立があります。
 この折り重なる二元対立を利用して、レオナルドはその手記の中で、「自分の絵が自然から写し描いているかどうか確かめたいなら、鏡をかかげてその対象を映して見よ」[1]と述べています。そしてもちろんその鏡像は左右逆転しているように「見える」像で、「確かめ」には意識をともなった注意が必要なことを、レオナルドは十分に承知していたはずです。
 というのも、なんと、この記述も含めレオナルドの手記は右から左に進む横書き(戦前の日本語横書き表記法)で、しかもアルファベットも数字もすべて鏡文字で書かれています(図9, 10)。ということはレオナルドの指示通りに鏡をかかげて自然を「見る」と、その自然の姿は左右反転を起こした鏡像であって、自然は左右反転した鏡像を「見られる」ことになります。映し出された自然は鏡の大きさに収まる縮小が起こっていることはいうまでもありません。ここにおいて天体望遠鏡・顕微鏡に見られた拡大という「見るー見られる」方向とは別な、「見える」の反転・縮小という方向の地平が開けてきます。

図 10 左右反転した鏡文字の例 (ボストン科学博物館)

視界明瞭化を目ざして

 このように一見なんでもない日常の行為である「見るー見られるー見える」(能動・受動・中動)は、器具との関連において肉眼直視とは異次元の相を呈してくるのです。近代の器具発展にともなって、「見るー見られるー見える」ことがどのように受けとめられ、変質していったのか、ここではそれらの点をすべてではないにしても部分的に捉えることで、「見るー見られるー見える」の視界を今までよりも明瞭にすることを試みています。


[1] The Notebooks of Leonardo Da Vinci. Ed. and Trans. J. P. Richter. New York: Dover, 1970.§529, p. 264.

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