デカルトの「我思う」と神存在の証明

戸田山和久 『知識の哲学』第6章 懐疑論への間違った対応 産業図書, 2002.

我思う

 外界の存在とその経験によらないア・プリオリな知識は懐疑から免れる
            私がみずからを何ものかであると考えている間は、けっして彼は私を何ものでもないようにすることはできない (『省察』)
◎何らかのことがらを思っているかぎりにおいて、私が存在することは疑えない、ということなのであって、私が存在していることが、1+1=2のように必然的真理だということではない
                    「私は存在する」と言うことで主張されているのは、どんな属性を持つかもわからず、何かを考えたときにだけそのつど存在し、次に何かを考えたときにも存在するが、さっき存在していた私と同じ私であるかどうかの保証もない

      神の存在証明

            (1) 自然界の因果の鎖を逆にたどっていくと、すべての出来事の最初の原因、つまり創造主がいなければならない
            (2) 自然界のさまざまな事物は非常に巧妙に調和していて、あたかも一つの目的を持っているように見えることから出発して、だからすべてのものをある目的に向けて設計した創造主
            (3) デカルト流:私の心の中には、「このうえなく完全な存在」という神の観念がある。こういう観念が私の中にあるのは、完全な創造主である神が本当に存在して、私を創るときに私の心にそれを植えつけたからだ。したがって、神は存在する。

        因果原理


            デカルトの時代、「原因」とは結果を生じさせるパワーをもっているものだから、何らかの意味で結果よりも「優れた」もの

        反・懐疑論戦略

            ◎このことだけは間違えっこないと言えるような確実な知識を探し出し、それに基づいて他の知識を正当化する
        数理科学的な自然探求の基礎づけ
            前提(1) 神は、世界に数理的構造を与える
            前提(2) われわれの知性に数学的真理を明晰判明な真理として与えてくれた
            過程① 多くの場合、感覚による把握は曖昧で混乱している。つまり、色や音や味や苦痛は、明晰判明に認識されるものではない
            過程② したがって、外部世界や物的実在の本性を信頼のおける仕方で捉えるためには、混乱した感覚に頼るのではなく、より明晰判明な概念を用いるべきだ。
            過程③ それこそ純粋数学の明晰判明な概念に他ならない。
            過程④純粋数学の対象(拡がり、量)は、神が世界を創造するときに、それを物質的事物の本質とすると同時に、外部世界のありさまの本質を捉えることができるようわれわれの心に最も明晰判明に認知できるような仕方を植えつけれくれた。

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