ミルトンをもっとよく知るための著書・論文




 ミルトンの人間観 『失楽園』 離婚論
『復楽園』と『闘技士サムソン
  ソネットと小品など

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『失楽園』 「驚異をごらんあれ−−『失楽園』における叙事詩的願望」
叙事詩の語り手がこの作品のなかで道徳的で実践的な従順を説き勧めるのにたいして、読者はミルトンが真理とする描写のなかに疑問をつぎつぎと投げかけ、確定断言という語りの網の目にくさびを打ち込む必要があることを説明した。
創造主への問いはメタレベルをこえているか:『失楽園』における秩序への回収と反復抹消願望 『名古屋大学言語文化論集』22巻第2(2001年) pp. 93-133


『失楽園』において、根源に神の遍在を据え、善悪などの二元対立によるひとつの閉じた円環の体系なかで、世界と倫理を叙述しうるかのように物語が展開する。ところが世界と倫理の完璧無比な表象・再現前化が不可能であることは、この叙事詩の節々にほころびとして出ている。このほころびを執拗に指摘するはずのサタンは、最終的には秩序世界のつきなみな宗教倫理に回収されてしまっている。

『ミルトンとその光芒』 共著 新井明編(金星堂 1992年)pp.18-30.

ミルトンを中心としたルネッサンス期の作家、ワズワースを中心とする19世紀の詩人、ハックスリー、エリオットの中心とした20世紀の作家についての論文集。執筆箇所は、「呪われた渇望(サクラ・ファメス)−−『失楽園』における富の視覚芸術」。『失楽園』におけるサタンの富追求の態度は,17世紀の経済人の態度とエートスの上で類似している。サタンは近代市場社会の倫理にふさわしい人物である。詩人が加担した政権の経済政策はいずれも近代的なものであった。ところが神の子による贖罪は、1対1の代替等価交換という中世経済の秩序を体現している。この作品は、近代の富を成り立たせているのが神であることを教えるべく、近代性が忘れさせてしまう富の贈与者としての神の姿を復権させている。

“Anti-Feminism in Paradise Lost”(英文)『武庫川女子大学紀要』 第35巻(1987年) pp. 49-64.
[この論文の論旨を発展・要約したものが、『17世紀英文学とヨーロッパ』所集の論文]
メルカトルのコンパス:『失楽園』における揺らぐ〈無限〉 『言葉と文化』1 (2000) pp. 275-304.

無限に広がる近代の宇宙空間や地球世界は、地図によって平面に投影された。『失楽園』でも、無限なる神を、円が象徴する有機的まとまりによって囲いこんでいる。近代地図製作者メルカトルを悩ませたのは、無限を平面の地図上にどうやって反映させるかであった。その煩悶は、後の地図製作者たちによって、地図という架空の表象こそがリアルであり、実在の現前化

と思いこむ錯視によってうやむやにされる。同様に、無限がもつリアリティの希薄化が、『失楽園』においても神の子による世界創造、サタンの道行きなどにおいておこっている。

『失楽園』の安息 『英語青年』第131巻12号(1986年) pp. 607-608.
知恵と三つの時間―『失楽園』における選択の構図― 『武庫川女子大学紀要』 第34巻(1986年) pp. 71-83.
離婚論 交わりの拡張と創造性の縮小:ミルトンの四離婚論をめぐる諸原理について 『名古屋大学言語文化論集』26巻第1(2004)
復楽園』と『闘技士サムソン Antaeus and the Sphinx: Vanitas and Naturein Paradise Regained 『名古屋大学言語文化論集』23巻第1(2001) pp. 87-108.

イエス誘惑の場面の描写は、同時代のオランダ絵画作品にみられる。このような対応関係は、ミルトンがオランダにみられる宗教・経済上の変容を経験したことによる。実際、誘惑を総括するアンタエウスとスフィンクスの比喩は、神が最終的な創造主にして富の贈与者であることを教えている。ところが誘惑者サタンによる無からの創造行為は、オランダ絵画の「虚栄」という道徳的警告も、神の中心主義という宗教上の軸も狂わせるほどの力をもっている。

『復楽園』のイエス―忍耐の人間像― Mukogawa Literary Review 第20巻(1985年) pp. 65-76.
『サムソンとドラゴン・イーグル・フェニックス―『闘技師サムソン』への図像学的アプローチ―Mukogawa Literary Review 第23巻(1987年) pp. 37-58.
ソネットと小品など 偶像破壊者の聖像崇拝―ミルトンの政治ソネットと英雄の視覚芸術― 『名古屋大学言語文化論集』14巻第1号(1992年) pp. 203-241.

ミルトンが,チャールズ一世の図像を偶像崇拝の典型として糾弾したのは,神の恩寵という波動を人間に送る、イコン本来のあり方に反するからである。<像>のそうしたあるべき姿の復権を,ミルトンは英雄聖像崇拝という形式を利用することによって,明示していることを論じた。

ミルトンの人間観

強き強者」と「弱き強者」―ミルトンの二つの人間像― Osaka Literary Review 第20巻(1981年) pp. 97-109.