名古屋大学に赴任した1986年に、古代ローマの著作の翻訳やラテン語文法書で名高い国原吉之助先生のホラーティウス『詩論』の授業を聴講させてもらいました。『詩論』の一節を学生が読み、それを日本語に訳し、先生がコメントするという、当時としては定番の授業形式で購読は進んでいきました。授業参加者は全員で7名ほどで、聴講であったはずの私も学生としていつの間にか参加していました。そして実はそれは私だけではなく、有川貫太郎先生(ドイツ文学)と長谷川洋先生(フランス文学)も同様の扱いでした。
 国原吉之助先生は間もなく退官され、残された年長の私たち三人は、月一回集まり、ウェルギリウス『アエネーアース』を読み進めることになりました。私自身は英文学専攻なので、それぞれの持ち寄る注釈書はもちろんのこと辞書も、英・独・仏と異なった語圏からのものとなり、解釈の多様性の洗礼を毎回、受けることになりました。こうした少人数の読書会のならいとして、誰かがいろいろな事情から欠けたり、場合によっては当初の意欲を失ったりで、長く続かないことが得てして起こります。ところが、『アエネーアース』読了後は、『牧歌』、『農耕詩』とウェルギリウスの作品を踏破し、次にホラーティウスの全著作をまんべんなく読み通し、さらにはオウィディウス『変身物語』を読了しました。『変身物語』の後には、『恋の歌』、そして現在はセネカの散文作品を読んでいます。
 私自身の専門は17世紀イングランドの詩人・論争家であるジョン・ミルトンです。ミルトンはラテン語文法、修辞学大成といったラテン語という語学そのものに関心があったばかりか、オリヴァー・クロムウェルの共和国政権にあってはラテン語書記官の役職につき、共和国の正統性をめぐってヨーロッパの神学者・論争家たちとラテン語で論争を繰り広げました。ミルトンは論争し、詩作していくなかで明らかになるミルトンの根本的な考え方は、

(1)情念を理性によって統御すること
(2)戦争や政治的混乱の中でも秩序を維持すること
(3)個人的感情や宗派的熱狂を超える普遍的理性を保つこと
(4)自然法に基づく法と義務を政治・社会において実現すること
(5)伝統・慣習への盲信から自由になること

といった点が際立っています。こうした考え方は、オランダの法学者、神学者、外交官フーゴー・グロティウス(Hugo Grotius/Huig de Groot, 1583–1645)と共通しています。グロティウスは現在ではその代表作は『戦争と平和の法』(De iure belli ac pacis, 1625)から、国際法の父として知られています。このグロティウスにミルトンは面識があったのです。ミルトンは1638年、イタリア旅行へ向かう途中にパリを訪れ、そこでグロティウス本人と会っています。当時グロティウスは、フランス宮廷に駐在するスウェーデン大使でした。ミルトンはイギリス大使の紹介を受けて面会し、グロティウスを非常に学識ある人物として尊敬していました(ミルトン『第二弁護論』(Defensio Secunda, 1654)))。ミルトンは当時30歳、グロティウスは55歳ほどでした。

 因みに、詩人としてのミルトンは人間の堕罪を扱った『失楽園』(Paradise Lost, 1673)という長大な叙事詩を書いています。サタンの独白や誘惑場面の構成には、グロティウスが18歳で書いたラテン語聖書劇『アダムス・エクスル』(Adamus Exul「追放されたアダム」, 1601)を素材として書いたと考えられています。また論争家としてのミルトンは、カトリックや英国国教会が原則として認めていなかった離婚について、『聖書』の聖句に照らして離婚を是とする議論を展開しました。その際に、『聖書』の一節ごとを解説する何冊かの大部の注解本を利用しましたが、その一冊が『フーゴー・グロティウス旧約聖書注解』(Hugonis Grotii Annotata ad Vetus Testamentum, 1644)および『新約聖書注解』(Annotationes in Novum Testamentum, 1641)でした。

 グロティウスの思想の根幹にあるのが、一世代前の、フランドル出身の人文学者ユストゥス・リプシウス(Justus Lipsius, 1547–1606)のネオ・ストア主義です。リプシウスは『恒心について』(De Constantia, 1583)などで、セネカのストア哲学をキリスト教と結びつけました。ライデン大学で活動し、オランダ知識界に大きな影響を与えました。グロティウスはこのリプシウスが教鞭を執ったライデン大学で学び、その知的伝統——セネカおよびエピクテトスの再評価、恒心と自然法の重視——を継承した世代にあたります。先ほどあげた『戦争と平和の法』における自然法論は、ストア派のオイケイオーシス(自己親和)論と「正しき理性」(recta ratio)観を土台にしています。

 オランダの画家ピーテル・ルーベンスは、ピーテル・パウル・ルーベンスは、ユストゥス・リプシウスの愛弟子であった兄フィリップをはじめ、リプシウス門下の人文主義者たちとの交流を通じて、ネオ・ストア主義に強い関心を寄せました。ルーベンス自身がリプシウスから直接教えを受けたとは確認できませんが、彼がその知的サークルに深く結びついていたことは、リプシウス、兄フィリップ、ヨハネス・ウォウェリウス、そして自らを描いた「四人の哲学者」にも示されています。また、セネカを重視するその思想的関心は、セネカの最期を主題とした「死にゆくセネカ」にも表れています。

ユストゥス・リプシウス
ルーベンス「四人の哲学者」一番左が画家。右から二番目が、作画の時点では故人であったリプシウス。
ルーベンス「死にゆくセネカ」右側で医師が血を抜き取り、左側では弟子が師の最後の言葉を書き留めている

 読書会に話を戻すと、セネカの書簡、散文作品、劇を、三人で3か国語の浩瀚な注釈とともに読み進めるうちに、先ほどあげた(1)から(5)までの根本的な考え方は、古典のストア主義者たちが主張していたことが明確にわかってきました。それと並行して、ネオ・ストア主義の考え方は、古典のストア主義者が重視した、自己統御による精神的自足に終止するのではなく、人として救われるにには神の恩寵、信仰、愛、悔い改めが必要だとも考えていることも浮かび上がってきました。セネカを精読していくことから浮かび上がってきたセネカのストア主義のさまざまな考え方について、現代の人文知と比較しながら考えたことをまとめました。