❖言葉❖ 文体は生き方の反映
Talis hominibus fuit oratio, qualis vita.
ターリス・ホミニブス・フイット・オーラーティオー、クワーリス・ウィータ
文体は、その人の生き方と同じである。
(セネカ『道徳書簡』第114信1節)
■解説■
セネカは、特定の欠陥を持つ悪趣味な文体がなぜ流行するのかという弟子の疑問に対し、その原因を文体を使う個人の生き方や魂のあり方に求めます。ここの格言は、文体(言葉遣い)は単なる表現形式ではなく、その人の性格、思考、ひいては魂の状態を映し出す鏡であるという見方を示しています。たとえば、生活が乱れ、退廃していれば、それは文体にも現れるというわけです。ただしこれはセネカ自身の言葉ではなく、セネカがギリシアの諺として紹介しているものです。
セネカはさらに議論を深め、個人の文体の欠陥が、特定の時代に広く流行する場合、それはその時代の精神性や道徳的な風潮が反映されていると論じ、個人の問題から時代の精神へと、文体が何を反映しているのか、その範囲を広げていきます。 なおここの格言は、「文は人なり」と同じメッセージを伝えています。「文は人なり」もセネカの引用文もともに、文体とはその書き手の思考・性格・人格そのものの表現であるという見方で一致しています。ただし「文は人なり」は、18世紀フランスの博物学者ビュフォンが、フランス学士院での就任演説「文体について」(1753年)のなかで述べたものです。学士院のメンバーはギリシア・ローマの古典に通じていたので、ビュフォン自身も含めて、セネカの言葉を思い出したはず。
▶比較◀
書は心画なり。
(張懷瓘『書譜』8世紀)
■解説■
書の理論を体系的にまとめた書論家・張懷瓘による、書道の意味・起源・美しさを論じた書論の冒頭にある言葉。ただし、この言葉は中国の後漢時代に活躍した能書家・揚雄の『法言』からのものとして、しばしば誤って引用されています。ここで張懷瓘は、書の巧拙は技術的な側面だけでなく、書き手の精神性、教養、人格、ひいては心根が文字の形、筆致、構成のすべてに表れるという考え方を示しています。書かれた文字は、言葉や文章と同じく、その人の内面を外に表す表現媒体であり、書かれた文字を見ることでその人の心がわかる、という洞察を含んでいます。
セネカの言葉と揚雄の言葉は、表現として形をとっているものは心という内面を映す鏡であるというメッセージにおいて一致しています。形式的な美しさ(文体・書)と内面的な真実性(生き方・心)は不可分だというのです。ただしセネカは、言葉の使い方に関心はあっても、書かれた文字の造形美にまでは目配りが行き届いていません。これは、古代ローマでは多くの場合、口述によって筆記者に書かせ、著述者自らが筆をとるということがあまりになかったからです。書かれた文字を著述者によるものではなく、筆記者のものなのです。だからセネカは文体に関心が向いても、書かれた文字そのものから著述者の精神性が伝わってくるとは考えないのです。
