古典の文書研究
古代ギリシアと古代ローマの世界は、14世紀以降から20世紀の半ばまでの西欧人にとっては、ちょうど今のウェッブの世界のように、自分たちの考え方だけではなく、生き方をも変えてくれると信じうるに足る世界であった。ウェッブ世界のコンテンツが無限に広がっている感覚を、とくに1300年代後半から1400年代のイタリアの宮廷人や知識人は感じていた。活字印刷による複製本の多部数の生産が可能になるのは1400年代の中頃より後のことであったから、コンテンツはすべて手書きによる写本、それも羊皮紙にインクで書かれた一ページ一ページが分厚い手触りの大きくて重い写本というハードの中に記録されていた。写本は主として修道院などに保管され、また修道院で修行の一環としてコピーも制作されたが、そうした写本を閲覧しようとすれば、その場所まで自ら出向いていく必要があったこの状況はウンベルト・エーコ『薔薇の名前』の主人公である修道士ウィリアムが現存の確認がそれまでできなかったアリストテレスの写本を、多くの写本を所有する修道院付属図書室で手にし読めたことを思い出せばわかる。もちろん写本を読むには、ギリシア・ラテン語の文法をマスターしている必要があった。紹介のつて、旅費、語学とやや気の遠くなる作業の末に、写本を閲覧することが可能になった。
ところが、11世紀末から13世紀に数回にわたり行われた十字軍の遠征参加に一部の信者が熱中し、後には1400年代末からの新大陸への遠征熱に貴族や商人たちがとり憑かれたように、1300年代半ばから1400年代の上層のイタリア人たちは古典世界の発見とその発見による自国文化の洗練という古典学の熱に感染してしまった。古典を通じて野蛮な自分たちを文明化し、自分たちが生まれ変わる、そういう新しい時代を到来せしめる必要があると考えたのだ。その嚆矢がペトラルカ(1304-74年)である。
ペトラルカは、イタリア半島においてはもちろん、東欧・西欧でもっと評価の高かったボローニャ大学で学ぶ。ローマ法学研究で先端をきっていた大学であったが、法律学が十分に好きになれなかったのか、むしろ「文書研究」(literarum studia)の方に深くのめり込んでしまう。[1]
「文書研究」はこれまで「文学研究」と日本では訳されてきているが、歴史書や哲学書までも含み、さらに古典の文化背景を知る上でどうしても必要であった度量衡から貨幣に刻まれた文字までの研究を含んでいるので、文学という芸術作品を一義的には想定してしまう日本語よりもはるかに広い範囲をカバーしている。文字で書かれた文書の研究であって、テキスト解釈ということである。
文書の研究には、大きく分けて二種類あった。ひとつは、定義、分割、文章構成法といったような論理にかかわる<人性学>(scientia humana)で、これはギリシア・ローマの古典文学のように人間の手によって書かれた作品を対象としている。これに対して、聖書のように神に指示されて書かれた文学を扱うのが<神性学>(scientia sacra)であった。この区別は、異教からのキリスト教批判に答えたアウグスティヌスにすでにみられるものであり、12世紀の学者たちはこの区別を尊重した。ところが13世紀になると、これら二種類の文学に共通して利用できるような批評の枠組みが確立されるようになっていった。そうした枠組みとして最も定評があったのが、ダンテの庇護者で、ヴェローナを支配したカングランデ・デ・スカーラに宛てた書簡に記載された枠組みであった。[2]
豊富な多義性
文字で書かれた作品には、「多層的な」意味があることを前提として、そこで字義通りの意味と、文字によって伝えられている内容にあたる宗教道徳的意味(=「寓意」)の二つに分ける。手続きとしては、字義通りの意味をはっきりと決定した上で、宗教道徳的な意味の考察に移る。たとえば死んだ人間の霊が煉獄へと渡って行くとき、霊達が合唱すると信じられていた聖書の「詩篇」(114篇)には、「イスラエルはエジプトを/ヤコブの家は異なる言葉の民のもとを去り/ユダは神の聖なるもの/イスラエルは神が治められるものとなった」(1-2節)という文言で始まる。文字通りの意味は、異教のエジプトでの奴隷生活を送っていたイスラエルの民がモーゼに率いられてエジプトから脱出し、イスラエルに到着し神に正しく仕えるようになったという意味である。しかし宗教道徳的意味としては、罪を犯したことへの悲しみとそこから生じる悲惨から魂が恩寵の状態に移行していくこと示している。そして意味の取り扱いにあたっては、聖書はもちろんのこと、初代教父や中世の教父たち、アリストテレスの『形而上学』などの古典作家の作品が縦横無尽に引用しながら、自説が正しいこと、引用元の意味の正しい解釈を展開していく。
二つの意味への解釈に続いて、取り扱う作品の主題をこの二つの意味にそって二つ提示する。その後、作品の字義通りの構成法(部・巻・章・節・文)と、内容から踏み込んだ書かれ方(詩的・非現実的・記述的・余談的・比喩的など)とについて論じる。
理由づけしながらこれらのことを論じていくだけでも膨大な量の評釈になることが想像できるが、今の私達の文学へのアプローチとさらに異なっているのは、書物の題扉を評釈することへのことだわりである。14世紀から遅くとも19世紀半ばころまで、書物の題扉に記載される作品題名は、その書物がどういう題材についてどのような観点から著者が書いたものか読めばわかるようになっていた。ダンテの作品は現代では『神曲』で通っており短いが、元々のタイトルは『気質ではなく生地がフィレンツェ人のダンテ・アリギエーリがここで喜劇を始める』(Hic Incipit Comedia Dantis Alagherii, Florentini natione no moribus)と信じられている。
このタイトルから評論が始まる。喜劇という言葉の語源から、その対立語である悲劇とどのように意味が異なっているのか、喜劇であるがゆえにどのような題材がどのような文体で記述されているかが、ホラーティウスの『詩論』などの古典を引用しながら説明していく。
テクストとの対話
このような形での文学研究にペトラルカの興味は向かっていったが、古典の著述家たちは、権威というよりもペトラルカと対話をする友人であった。中年になってからの告白であるが、ペトラルカは、
私は書物に飽きることができないのです。しかも私は、おそらく必要以上に多くの書物をもっています。ところが、他の事物におけると同様のことが書物においても生じるのです。すなわち、欲求の充足はいっそう食欲をかきたてるのです。…書物は、我々を心底から楽しませてくれ、対話し、助言し、あるいきいきとした深い親密さをもってわれわれと結ばれあうのです。(『日常事についての書簡集』)[近藤恒一『ペトラルカ研究』105-106ページ]
ペトラルカの読書対象となった書物は古典と聖書であるが、ペトラルカの場合にはラテン文学としてくくられるジャンルの写本を収集することにも情熱を燃やす。
いうまでもないが、当時の写本は、いまならロエブ叢書の一冊として簡単に手に入る照合と校訂をへた標準作品として存在していない。写本は、原本からコピーの制作にあたる筆写者がどれだけ正確にラテン語を読めるかという能力や、几帳面に間違わずに写すことができるかという性格、そして筆跡が読みやすいかどうかという字体の癖などに依存する。原本からのコピーの世代数が大きくなればなるほど、誤写が含まれる可能性が高くなり、筆写者による恣意的な挿入や削除の箇所の数も増えていく。また高い世代数は、原則として現存する写本の数が大きいということになるので、各写本間を照合しどれが正しい文配列で、どこが恣意的挿入・削除かを決める手間がかかることになる。
父親がフィレンツェで成功をおさめた有能な公証人で古典にも傾倒していたこともあり、その財産を受け継いだペトラルカは、写本を収集する。新しく友人ができて、相手がなにか自分にできることはないかというと、国に戻ったらキケローの写本を探してくれとよく口にしたといわれている。実際、キケローの書簡を二通発見することになるが、その程度で写本熱は冷めることはなかった。ローマの百科全書派といわれるワァッローの著作、地中界諸国の風物を説明するプリニウスの博物誌、ローマ建国以来の歴史を記述したリウィウスの歴史書の発見などもすべく、聖職売買によって手に入れた聖職禄と聖職者の地位を使い、収集に励んだ。30歳頃に書かれたと推定されるペトラルカ自身による蔵書目録があるが、作家名・分野と冊数でまとめると、次の表のようになる。
著者名・分野 | 冊数 |
キケロー | 14 |
セネカ | 7 |
ボエティウス | 1 |
歴史[博物学] | 10 |
詩 | 6 |
文法 | 5 |
天文 | 2 |
合計で45冊になるが、当時としてはこれは多かった方であるといわれている。多かったと推定できるのは、たとえば画家ファブリアーノの「書斎の聖ヒエロ一二ュムス」の絵からも判断できる。この聖人は、学識に溢れ、数々の論争を行ってキリスト教の教義形成に貢献し、また中世からルネッサンスにかけて西欧カトリック教会の標準仕様となったラテン語訳聖書本(ウルガータ)はこの人の訳によるものであった。この聖人が書斎で本から筆写する作業をしている場面では、ペトラルカの時代から約一世紀後のものであるが、室内の棚におかれた本の数は大小合わせて9冊にしかならない。
ここで聖人が複写しているような作業をペトラルカ自身も行い、その単調さに悲鳴をあげているペトラルカ書簡も残っているが、ペトラルカが作り上げた写本は、各地から閲覧の依頼が多かったという。その理由は、ともすれば完成品の正確さにあったのではと思うかもしれないが、好評の理由はそのような基本的な部分にではなかった。リウィウス『ローマ建国以来の歴史』(全142巻)のうちの20数巻の写本にしても、その他の本文校訂本にしても、現在のロエブ叢書で採用されているものをほとんど見かけないことからもそれはわかる。では何がよかったのか。
これを教えてくれるのが、ペトラルカが所有していたホラーティウス『書簡集』の写本である。これは、1巻第9篇から-第10篇の冒頭部分だが、実はホラーティウスの当該の本文は、四角の枠で囲った部分のうち文字の大きな行である。それ以外はすべてペトラルカによる書き込みである。
本文の行間に書かれている、本文の欄外の文字よりもやや小さめの文字は、ペトラルカによる本文の言い換えになっている。本文の意味を一読して理解しがたい箇所を、言い換えることでわかりやすく説明している。本文中のいくつかの単語の下には、本文とは異なった書体で大文字のアルファベットがついており、その同じ書体でもっと大きなアルファベットが欄外にあって、そこから注が始まっている。この注は、言い換えのレベルを超えて、本文中の意味内容についてペトラルカの読み方、そして場合によってはペトラルカ自身の判断が記載されている。その判断が現在読んでも的確で、しかもそれをよく分かる文体で読みやすい書体で記述している。自分の解釈を書きつけながら自分自身のうちに回帰しつつ反芻し、テキストとそのテキストを創作した著者と対話しながら、同時に、自分の解釈が他者に読まれることがあきらかに意識しているのだ。その意識があるからこそ、ペトラルカの注から、テキストの微妙なニュアンスや書き手の気持ちが、暖かく柔らかく伝わってくる。
ペトラルカ写本は今でいう、単語の意味から解釈まで網羅し、基礎的知識があれば読めるようになっている高校生向けの古典解釈シリーズ本のようなものに結果としてなっている。ペトラルカが作り出した写本は、すべてが必ずしもこのようなではもちろんなかったが、その人気の理由がわかる。
テキストを模写し副本を作るという作業は、コピー機が普及する20世紀半ばまで、修道士、筆耕、学生から学者にいたるまで盛んに行ったことであったが、14世紀のペトラルカはテキストの注付けによってテキストを反芻し著者といわば対話しながら読み進んでいく。これが、ダンテは書棚を持っていたが、ペトラルカは蔵書を所有していたという指摘につながる。[3]ペトラルカの文学上の一世代前の先輩であるダンテにとって写本とは、宗教・政治・社会ですでに合意され既知となっている教義・理念・道徳を確認するためのものであった。これに対してペトラルカが写本を所有する意味は、ペトラルカと同時代の宗教・政治・社会にとっては未知であったり、過去において切り捨てられてしまっていた文化世界、とりわけ古代ギリシア・ローマ世界についての知識を蓄えて、多面的に物を考える批評眼を養い、自らの人格を高めていくための手段であった。
[1] 17) P. De Nolhac, op. cit., tome I, p. 36; F. Lo Parco, Francesco Petrarca e
Tommaso Caloiro all Universitd di Bologna, estratto dal vol. XI degli ((Studi
[2] これはダンテによる書簡と当時は考えられていたが、現代ではダンテではなく別な著者によるものとされている。A. J. Minnis, A. B. Scott and David Wallace, Medieval literary theory and criticism 1100-1375: the commentary tradition Revised ed., (Oxford: Clarendon Press, 1991)
[3] ギルバート・ハイエット『西洋文学における古典の伝統』(上)87ページ。