物語る芸術作品

 16-17世紀の西欧美術では数多くの傑作が生まれた。南ではレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラフェエッロ、カラヴァッジョ、ベルニーニ、北ではブリューゲル、デューラー、クラナッハ、ファン・アイク、レンブラント、ルーベンス、フェルメールと、それこそ名前をあげれば際限がないほどである。こうした作品が制作されたおよそ500年後の現在においても、それらの作品が現代人の心に共振をもたらすのは、美的核のようなものがそこに内在化しているからだろう。ただし美的核があるというだけなら、いつの時代の作品にもそれはあるはずだから、現代人の共振は美的核以外にも別な要因があるはずだ。その要因の大きな一つは、こうした作品にはいつもすでに物語りが潜んでいて、その物語りに私たちがなにかしら感応しているからと考えられないだろうか。

 ここでいう物語りとは、その作品のなかに描かれている一つひとつのものを全体として統一的に説明する筋である。そういう筋は、これこれのことがしかじかの経緯でいまここで起こっているという出来事を伝える。そしてそれにとどまらず、そういう出来事を個別的な独自の指標として、見る私たちの心の中に刻むメッセージをになっているという意味である。作品は私たちの視覚に映じる物を介して、私たちが日常で経験するものごとを評価するための手がかりを語りかけているといってもよい。さらに、物語りを通じて語りかけ伝えようとしているメッセージを、私たちは漫然と受けながすのではなく、教えとして、私たちが実は何を支えに生きているのかを自覚させようとする意志が作品にこめられているとさえいえないだろうか。死という区切りを迎えるまで、ともすれば目先の快楽や苛酷さに流されてしまう日常の日々のなかで経験している一つひとつのことに、作品は私たちがどのような意義を読み取り、どう生きたらよいのかを、作品に描かれたものを介して(ささや)きかけてくるともいってよい。そしてそうしたメッセージを受けとめてメッセージの意味に深く共振するとき、視覚芸術作品は、その人の生き方を読み替える道をさえ開き、新たな生へと導く機縁の役割を果たしうる。

2種類の物語り

 芸術家によって作品に埋めこまれていると考えられる物語りは、容易に判別できるものがある一方で、鑑賞者を焦らすかのように認知するのが難解なものが他方にある。たとえば図1では寝ている男性の髪を女性がハサミで切ろうとしているから、これは『聖書』のサムソンとダリラの物語りの一エピソードであることがわかる。このエピソードは夫婦関係が一筋縄ではいかないこと、夫と妻との間には価値観の相違もあれば適切な意思疎通の欠如もあり、そうした相違や欠如が結婚破綻の引き金になるだけではなく絶望から死への道にもつながることを教えている。物語りが伝える教訓は自明で理解も容易で、こうしたメッセージはたとえば離婚の危機にある人には配偶者との関係を再考する手がかりになるだろう。つぎの図2では、竪琴を奏でるハンサムな若者の周りに、動物ばかりか石までも集まっているので、これは音と声によって万物を感動させるオルフェウスの物語りの一場面とすぐに結びつく。楽器の音もそれに合わせる歌声も、そこに匠の磨かれた技が生き、実をともなった美しさがあるなら、それらを感じ取れるはずのないものまでも感動させるというのだ。収入が低い天職についている人には、こういうメッセージは天職をあきらめずに、その職の技を磨き、職によって生み出される物や生み出している自分の動作に美しさが結実するように努めなくてはならないと諭してくれる。

こうした物語りは、『聖書』やギリシア・ラテン文学をある程度読み、心に訴える逸話や場面を頭の片隅を置いておけば、容易に同定化できる。ところが、そうした読書経験では歯が立たない物語りが作品のなかに潜んでいるものもある。

難解な物語り

 難解な物語の好例が、ブロンツィーノの「愛の寓意」(図3)とよばれている絵画である。そこでは、女性が画面の前面に中腰になりながら、なまめかしい爛熟した姿態をみせている。その姿は、この画家とほぼ同時代を生きた美術史家ヴァザーリがいうように、「特異的な美しさ」(singolare bellezza)があり、私たち現代人にとってすらもその美しさは伝わってくる(Vasari 7:598)。[1] しかしこの絵には、私たちの目からみれば、ずいぶんとわからないことが多い。まずこの女性は愛の女神ヴィーナスだといわれているが、キスをしている若者は誰なのか。その後ろにいる髪をかきむしっている老婆は、ヴィーナスとどんな関係があるのか。またこの老婆のすこし奥上にある能面と、それをかぶるようにしている女性はどんな意味があるのか。さらに、裸体の女性の右隣にいる男の子はバラを投げようとしているのはわかるが、その後にいて、青白いが、ヴィーナスにおとらず魅力的な顔をした女の子は、いったいなにをしようとしているのか。

[1] ブロンズィーノについての記述は、『芸術家列伝』の補遺「アッカデミーア・デル・ディセーニョについて」(Degli Accademici del Disegno) にあるため、この補遺は一般に流布している『芸術家列伝』には掲載されていない。なおアッカデミーア・デル・ディセーニョとは、ヴァザーリを中心に、コジモ・デ・メディチ1世によって創設されたフィレンツェの芸術家育成機関である。David Cast, The Ashgate Research Companion to Giorgio Vasari (Farnham, Surrey: Ashgate, 2014). 34-35. 

これらの人物に画家がこめた意味を、精神文化背景にもとづいてもっとも有機的にわかりやすく説明したのが、パノフスキーだ。[2] この碩学は、ヴァザーリの記述を引用して、この絵全体にはどんな物語りが内在化されているのか、当時の精神的背景に言及しながら実証的に提示してくれている。「そこには裸のヴィーナスが、キスをするアモル(キューピッド)といっしょにおり、一方の側[中景前方]には〈快楽〉が、そして別なアモルたちとともに〈戯れ〉がおり、その反対側[中景後方]には愛にかかわる〈欺瞞〉、〈嫉妬〉そして他の感情がいる」(Vasari 7:598-99)。[3] 中央の女性はヴィーナスで、後にまわってキスをしている若者は、ヴィーナスの息子アモルなのだ。そういわれてみると、この子の背中には矢筒をかけるバンドが腰のところにみえているし、ヴィーナスが右手で握っているものが弓矢であることもうなずける。アモルに弓矢は付き物だからだ。

[2] Erwin Panofsky, Studies in Iconology: Humanistic Themes in the Art of the Renaissance, 86-91.
[3] “Dentro al quale era una Venere ignuda con Cupido che la baciava, ed il Piacere da un lato e il Giuoco con altri Amori, e dall’ altro la Fraudo, la Gelosia, ed altre passioni d’amore.” これは一つの解釈であって、いまだにヴィーナスの背後にいる一連の人物たちが何を象徴しているかについて異説が複数唱えられている。John F. Moffitt, “An Exemplary Humanist Hybrid: Vasari’s “Fraude” with Reference to Bronzino’s “Sphinx”,” Renaissance Quarterly 49.2 (2018).; Margaret Healy, “Bronzino’s London Allegory and the Art of Syphilis,” Oxford Art Journal 20.1 (1997).

さらに、アモルの後ろにいる老婆は〈嫉妬〉、バラをなげつけようとするのは〈快楽〉ないしは〈戯れ〉ということになる。しかし画面右奥の青白い女の子(図4)だが、この子がなぜ〈欺瞞〉なのか。この子をよくみると上半身が女性、下半身は蛇になっている。しかも右腕についた左手に、なにか握っている。それがどういう意味なのかを示すために、パノフスキーが典拠としているのが、チェーザレ・リーパというイタリア人が書いた『図像学』という本である(図5)。[4]

リーパにもとづく解釈

 リーパのこの本には、道徳的な観念がアルファベット順にならび、そしてそれぞれの道徳観念はどうしてある事物と結びつくのか、その理由が事細かに説明されている。最初の版では、ある道徳観念とそれにまつわる複数の事物との関係が言葉で説明されているだけだったが、後の版ではそれらの事物を伴った形で道徳観念が図像化されて示されるようになった。[4] パノフスキーによれば、この本によると、〈偽善〉(図6)は狼のような脚を隠しているし、〈詐欺〉は醜い顔なのに美しい仮面をかぶり、火と水を交互にさしだし、〈欺瞞〉(図7)は若い女の顔と老婆の顔と二つもち、脚は蛇の尾に怪獣グリュプスのかぎ爪をもっているという。[5] だからブロンツィーノの絵の少女は、これら三つの悪徳観念が融合しひとつの図像になっているのだという。この青白い顔は仮面、緑色のドレスは、蛇の尾とそこについた爪を隠せない。さしだしているのは蜂の巣だが、もう一方の手には毒のさそりを握っている。古来から、右(英語でも「右」は「正しい」)は善ないし吉、左は悪あるいは凶とされたから、この少女が、右腕についた左手で、この甘いものへと誘う理由も解けてくる。「誠実の倒錯について画家がこれまで考案したなかで、知的洗練という点でもっともすぐれた象徴」(Panofsky 90)になっている。なお、この作品にはこれら以外にも、画面の最奥にカーテンを引く筋骨隆々とした老人と、仮面をはずしその下から本当の顔が出そうとしている女性がいるが、老人は<時の翁>であり、女性は真理である。

[4]  リーパ『図像学』の初版(1593年)には図絵はなく、図像に入るようになったのは1603年版からで、以後すべての版に図像がつけられる。ただし版によっても図絵のデザインやどの図絵が掲載されているかはまちまちである。そもそも各版ごとにテキストに補筆や削除がくわえられていて、あるひとつの版を標準版とすることは、ほとんど意味をなさなくなっている。幸い、この本のすべての版が現在ではデーターベース化されている。https://limes.cfs.unipi.it/allegorieripa/
[5] <詐欺>にはパノフスキー(上記 [2])が指摘するような記述はみあたらない。リーパではそもそも女性ではなく男性として説明されている。

 こうした絵解きができるようになると、ブロンズィーノがこの絵に潜ませた物語りは、愛の快楽は不誠実な楽しさや明白な悪意に取り囲まれるものであり、なおかつそれら不誠実や悪意は、時間がたてばその真実が暴き出されるというメッセージを伝えていることがわかる。もう少していねいに言い換えると、この作品は前景に大きく迫るヴィーナスと若いアモルがキスをする姿から、肉体的快楽にともなう愛の放縦のなまめかしさを伝える一方で、背後の人物や物はそうした愛につきものの甘美さ、危険、負の感情が伴うことを示している。そして愛はバラ色ですべてが楽しいと思われがちだが、楽しさの背後には不誠実やドロドロとした感情があり、そうした負の部分も時間とともに明るみに出るということになる。ともすればポルノグラフィーともとれなくないこの絵画には、そんな教訓的意味がこめられているのだ。[6]

 こんな絵解きをしなければ絵が伝えるメッセージが理解できないとはなんとややこしく韜晦(とうかい)なのかと、ややもすればため息すらもれてくる。とはいえ、絵解きをしメッセージを特定化できたときの心地よさは、恋愛の喜びとは別種の精神的くすぐりをもたらさないだろうか。そしてこの絵解きのプロセスが複雑であればあるほど、それに比例して、この絵の物語りはその画像とともに私たちの心に焼きつくのではないだろうか。

[6] ここでの解釈はあくまでも暫定的なものである。なぜなら読者受容論がもっとも簡便に教えるように、作品のメッセージは同一の読者であっても読者の理解力、経験などによってその時その場で焦点を結び統一的なものとして浮上するのであって、一義的にいつもたえず同じものとは限らない。そしてとくに諷刺詩人でもあったブロンズィーノの場合、むしろそうした一義性を揺さぶり、多義な意味が同時に共在するように作品が練られていると考えるべきであろう。Simona Cohen, Animals as Disguised Symbols in Renaissance Art (Brill, 2008). 286-90

古典のルネッサンス的改ざん:擬形態

 画家ブロンツィーノやこの絵をみたはずのミラノやフランスの宮廷人たちは、おそらくほぼ確実に、このような教訓的意味を導きだせたはずだ。ただしここで誤解してはいけないのは、古典の教養があること、あるいは道徳を図像化するノーハウを知っていることは、こうした隠れた意味がわかるための必要条件にすぎないということだ。この絵は美術史の区分でいうとマニエリスムという時代に描かれたが、この時代に先行しているのが、ルネッサンスだ。ルネッサンスという時代は、古典の復興とよくいわれているように、古代ギリシア・ローマ時代の精神をもういちど自分たちの時代に再生させることであった。その基礎として、古典時代に描かれた文献を原典で読み、当時作られた作品を実際に自分の目でみてスケッチを行った。そこで学んだことをばねにして、ルネッサンスの芸術家や教養人たちは、ルネッサンスよりもひとつ前の中世でおこなわれていた、規則(カノン)に縛られた作品製作から脱皮していった。ルネッサンス人は、古典の作品やそれをささえる理論の探求に多大な時間と努力を費やし、その学識にもとづいてつぎつぎと作品を構築していった。たとえば、ルネッサンス的万能人であるレオン・バッティスタ・アルベルティは、いつくかの教会を建築したが、マントヴァのサンタンドレア教会は、ミサのために教会は使われるという、中世以来踏襲されてきた建物の機能性を無視して、パンテオンに代表される古典の理念にもとづいたドーム型教会になっている(図8)。
だからルネッサンスは基本的には古典復興なのだ。ところが皮肉なことに、時や正義といった抽象概念や道徳観念、アモルや三美神といったような神話人物像になると、古典の正確な再現というスローガンは、その了解を逸脱してしまう。古典文学作品において、時・正義・アモルがどういう風に描写されているのか、それを忠実に再現することを超えて、むしろ古典で描写されていた内容が、中世に培われたキリスト教文化、思想、観念と齟齬をきたさないように、その内容を中世のそうしたことと融合させ、善良なる改ざんをくわえていった。その結果、古典ギリシア・ローマには存在しえなかったような、改ざんされた古典的抽象概念像や神話人物像が誕生していった。パノフスキーはこれを「擬形態」(psuedomorphosis)とよんで、私たちに注意をうながしている(Panofsky 70)。