消された中動態
古典ギリシア語を学んでしばらくすると当惑するのが、英語でおなじみの<能動態/受動態>という2つの態のほかにもうひとつ中動態とよばれる態があることだ。
この態は、活用形は受動態のものをほぼそのまま踏襲しているので、別種の複雑な動詞活用を覚えなくてよいのでほっとする。ただ奇妙なのは、受動態の活用形をとりながらも、この態によって動詞があらわす意味は、原則として能動態として訳さなくてはならない。なるほど形は受動態でありつつ意味は能動態であるのだから中動態という名称に納得がいく。
形は受動態、意味は能動態という動詞のあり方は、ギリシア語だけではなく、ラテン語にもある。ところがこちらは態としての名称はなく、そういう特殊な動詞群を総称して、デーポーネンティアdeponentiaとよぶ。日本語では「形式所相動詞」(活用形式が受動態という意味)あるいは「能動欠如動詞」という呼称になっている。
デーポーネンティアである動詞群の数は多く、この動詞群がギリシア語の中動態と関係していることは形の上から容易に想像がつく。そもそもこのような動詞がなぜこれらの言語にあるのか、誰もが不思議に思う。しかしこれら古典語を学んでいくうちに、不思議さはいつの間にか忘れてしまい、活用は受動態だが意味は能動といったように割り切って考え、何ら疑問を感じなくなる。ちょうど「驚く」が日本語では能動態なのに、なぜ英語では「驚かされる」と受動態で表現されるのかが、不思議に思わなくなるのと同様である。
受動態に先行していた中動態
ギリシア語もラテン語もヨーロッパ諸言語の親元であるインド・ヨーロッパ祖語から派生している。祖語においては、<能動態/受動態>という対立に先立って<能動態/中動態>という対立がそもそもあった。
このかつてあった対立をえぐり出したのは、構造主義の種となる考え方を提供したあの言語学者エミール・バンヴェニストである。そしてこのかつての対立には、「主体が自らの意思で何かをする」だから「主体には責任がある」という、現代において常識となっている見方を根幹から揺さぶる別種の世界観があることを、哲学者・國分功一郎は指摘している。
たとえばアルコール依存症の人間は、アルコールを節制するという意志が弱いから、中毒症状になっても、それは自己責任であって何ら同情に値しないと、いったような見方が、<能動態/中動態>の世界観からすれば、成り立ちえないことだと指摘する。
<能動態/中動態>の世界観
現在私たちが当然の枠組みと思い込んでいる<能動態/受動態>の枠組みでは、主語が動詞の動作にたいして自ら意志をもって関与していれば能動態、主語の意志がなにか別のものによって関与させられていれば受動態というように、そこでは意志の関与がどういう方向に流れているのかによって、文は能動態になるか受動態になるかが決定される。<能動態/受動態>における支配的な世界観とは、主体の意志がどのように働いているのかいつも問われるような見方である。
これにたいして<能動態/中動態>が示唆しているかつてあった見方とは、動詞のあらわす過程に主語が内在化しているか外在化しているかという主語と過程との関係において位置づけられ、主語がどういう質の行為者であるかを示す。中動態の世界とは、主体の意志が背景に退き、本人があるふるまいをするとしても、そのふるまいの引き金になっているのは本人の意志かに注目をしない。本人が置かれている状況や本人の来歴によって大きく作用される不可抗力的な力が前景に現れる。自分を取り囲みささえる状況や自分に訪れる出来事に包まれて、自らが振る舞いの内部に座を占めているのであれば中動態を使う。そして内部ではなく外部に座を占める、つまり状況と出来事を引き受けるが、それを自分自身に対してではなく他に向けて振る舞うのであれば、能動態を使うことになる。
過程の内か外か
<能動態/中動態>の違いがどのようなものか、もっとはっきりとイメージがつかめるように、バンヴェニストが上げている用例をみてみよう。赤色の下線部分に注目すれば、動詞の語幹は同じであっても、活用語尾が違うだけで、能動にも中動にもなることがわかるはずだ。
φέρει 能動態:彼は贈り物を運ぶ。(贈り物があって、それを誰か他の人のために運ぶ)
φέρεται 中動態:彼は自分自身を巻き込む贈り物を運ぶ。(彼は贈り物をもらって、自分のために運ぶ)
τιθέναι 能動態: 法律を制定する。(僭王が人民を支配するために法を制定するケース)
τιθέσαι 中動態: 自らを含む法律を制定する。(法の制定者自身もその法に縛られるケース)
λύει 能動態:駒つなぎから馬をはずす。(誰かのために、馬をつなぎから外す)
λύεται 中動態: 自らに影響を及ぼしつつ、駒つなぎから馬をはずす。(自分で馬を使うために馬をつなぎから外す)
ποιεΐ 能動態:戦闘をする。(兵士のために戦闘開始の合図を送る)
ποιεΐται 中動態: 戦闘をする。(戦闘に要員として参加する)