手書きの摸倣
横顔を私達の側に向け、どこか左奥の遠くを見つめているこの女性は、右腕の指を伸ばしながら本を開き、私達が本の文字を読めるように誘っている。左側のページの一行目の冒頭は”Se voi”という文字が、右ページの6-7行目の冒頭には、”Che”と”Non”という文字がくっきりと見える。そして左右両ページとも14行からなっており、ルネッサンス期に流行したソネット形式の詩だとわかる。これらことをヒントにして、この本はペトラルカの恋愛ソネット集『カンツォニエーレ』(1350年)で、左側はソネット64番、右側がソネット240番だと判明している。
◇アーニョロ・ブロンズィーノ「ラウラ・バッテイフェッラの肖像」1547-53年頃
これらの詩がどのような内容のものであるかに入る前に、今一度、この本の文字をじっくりとみれば、手描きであることは一目瞭然である。ペトラルカのソネット集はルネッサンス期にはもっともよく読まれた詩集であり、印刷術は1400年代後半には確立していた。この絵は1550年前後の作品であるから、指で開いてみせる本は印刷本であってもよいはずだが、手書きの写本なのだ。本というと私達は、活字がきちんと組まれ、行が一直線に走り、各ページの余白や文字の大きさが一定の幾何学的整序のあるものを思い浮かべるが、ルネッサンス期にはまだ中世の写本の伝統が生きていた。原本の文字を手書きで羊皮紙に書き写し、それを閉じて一冊の本にするが、書き写す書字生などの字体やレイアウト配置などにより、一冊の一冊の本が異なっていることが、なんら不思議なことではなかった。
手書きで、書き写しであるからこそ、原本の配列を変えて、64番と240番が向き合う形で見開きに収まることも可能であった。そして写本所有者の判断と裁量によるのは、順序だけではなかった。実は元の本の文中でしっくりとかみ合わない奇妙な語句があれば、筆耕の誤記であるとか作者の筆の誤りと判断し、写し手はそれらの語句を変えていった。これは当然といえば当然で、原本は一冊しかなく、写し手はそれを参照できないことがむしろ通例で、写し手が目にするのは書き写された複本からの書き写しがほとんどだったから、今の私達の感覚からすれば改ざん、当時の人達からすれば再生(plaingenesis)するという積極的な貢献であった。配列までも含めた広義の再生とは、原典を模写しつつ、本来の原典へと回帰し、自分にとって意味のある所有物とするという行為であった。
再生(plaingenesis)の生成
ところでこの写本を開いている女性は、20世紀初頭の研究成果により、女性詩人ラウラ・バッティフェッラ(1523-1589年)だと推定されている。貴族の非嫡出子として生まれるが、10歳代で教皇の権威により嫡出子として認知され、正式な結婚をする。しかし夫はわずか数年後に亡くなり、寡婦としての暮らしを始めるが、詩人としての名声が高まっていく。20歳代で当時としては第一級の彫刻家・建築家と再婚し、夫の仕事の関係からローマを離れ、フィレンツェに住居を移す。フィレンツェの知識人サークルには入れなかったものの、当地の芸術家たちと親交をもち、彼らと詩のやり取りをしながら、詩人としての名を確立していく。
バッティフェッラの詩集『トスカーナ語作品集』(1560年)には126篇のソネット、13篇のマドリガル(無伴奏多声歌曲)が収録され、画家ブロンズィーノと間の贈答歌(4篇)もそこに収められている。その贈答歌のなかで、ブロンズィーノは、この女性詩人の名がラウラであることから、ペトラルカがその恋愛詩のなかで歌っている恋人がラウラであったことにかけて次のような構造を使っている。
(1) ペトラルカ ⇔ラウラ(ラウレ・デ・ノーヴェース)を原点(原典)として、
(2) ブロンズィーノ⇔ラウラ・バッティフェッラの関係がその原点を模写しつつ、
(3) ペトラルカ⇔ラウラのそれぞれの相手に対する関係を意識しながら、
(4) ブロンズィーノ⇔ラウラ・バッティフェッラのそれぞれが自分たちにとって意味のある関係を作り出す。[1]
再生(plaingenesis)
原点の人物 | ペトラルカ | ラウラ(ラウレ) |
人物の模写 | ブロンズィーノ | ラウラ・バッティフェッラ |
原点の関係 | 精神的結びつきの希求 | 諦めさせる努力 |
関係の模写 | 妖精ダフネへの見立て | 画家としての自負心を喚起 |
本のテキストを手で写し書きし模写を生み出したように、ブロンズィーノはペトラルカとラウラの関係を自分とバッティフェッラの関係に喩え模写している。もちろんブロンズィーノは200年前のペトラルカと自分が同一人物ではないことを知っているが、同じ人物になぞらえることで、ペトラルカがその詩の中で吐露している感情、思い、経験を追体験しつつ、自分独自の感情なり思いをそこに加えて独自の体験もしている。ここでも再生(plaingenesis)が起こっているのだ。
もう少し具体的にいえば、男性であるブロンズィーノの側は、プラトン的愛によって、ラウレ・デ・ノーヴェースがそうであったように既婚夫人であるバッティフェッラと精神的に結ばれることであり、バッティフェッラの女性側からすれば、自分とは別な女性にブロンズィーノが熱い想いを傾け、自分への思慕を断ち切るように仕向けることであった。ここまでは(3)の追体験である。ところが、ブロンズィーノはバッティフェッラを、月桂樹(ラウラと同じ語源)に変身した妖精ダフネにたとえ、その木陰で暮らすことができたらと告白する。これに対してバッティフェッラは、ブロンズィーノはそのソネットの腕が示すように詩人であるが、画家でもあるのだから、画家として私の姿を模写してその模写姿とともに暮らすほうがよいと返答している。これはペトラルカの元々のソネットには見られない二人の独自の関係であり、ここにおいて(4)が達成されている。
ではこうした構造にささえられた意味ある関係は、ソネットの贈答歌という場においてではなく、ブロンズィーノが描いたバッテイフェッラのこの肖像画からも生まれているのだろうか。生まれているかどうかを教えるのが、開かれた写本に書かれている二篇のソネットである。
◆ポイント:原点があって、模写がでてくる。◆
◆ポイント:模写は原点に新しい関係を加える。◆
[1] Irma B. Jaffe and Gernando Colombardo, Shining eyes, cruel fortune : the lives and loves of Italian Renaissance women poets (New York : Fordham University Press, 2002) 210-215.
模写から逸脱へ
左ページあるソネット64番では、何が語られているのだろうか。ペトラルカの恋愛ソネットは、独身男性ペトラルカが既婚夫人ラウラをその神聖さと美しさゆえに一目惚れする。男性は自分の肉眼では女性の外面の美に牽引されるが、自分の心は清らで精神的な愛を大切にするという肉体的愛と精神的愛との葛藤に陥る。しかも女性は肉体的にも精神的にも夫への貞操を守るために、男性側の思慕を頑として受けつけようとしない。
この64番でもこの枠組で語りが展開する。ペトラルカがラウラに向かって自分のことに心を傾けてくれるよう祈っているのに、ラウラは既婚夫人であるゆえに、夫ではないペトラルカには冷たく振る舞わざるをえない。ペトラルカはラウラが離婚をしてでも自分を思慕してくれることを望んでいるが、それは「許されないのが 君[ラウラ]の運命」。思慕ができないなら、自分を憎むことだけはやめてほしいと、ペトラルカはラウラに願いを吐露する。
こうした内容のソネットを読むように仕向けている人物は、『カンツォニエーレ』という原典においてはペトラルカ自身であったが、このブロンズィーノの肖像画においては、ラウラ・バッティフェッラ自身である。そして言うまでもなく、この詩は原典を書き写したものであり、この肖像画はバッティフェッラという実在の女性を描き写している。つまり肖像画においては、すべてがオリジナル(原点)のコピー(模写)になっている。これらコピーが誰に向けられているかといえば、この絵を見ている鑑賞者に対してである。
(1) 原点(原典):男ペトラルカ から女ラウラ(ラウレ・デ・ノーヴェース)へ
(2) コピー(模写):女ラウラ・バッティフェッラから男性・鑑賞者へ
しかし(2)では(1)と性が逆転してしまい、奇妙である。男性・鑑賞者は(1)を想起しつつ、この肖像画のなかに今一度、(1)の関係を発見しようとする。
(2’) コピー(模写):男・ブロンズィーノから女ラウラ・バッティフェッラへ
というつながりが見えてくる。鑑賞者の心の中でのこの<折り返し>からこの肖像画は焦点を結ぶ。そしてちょうどペトラルカがラウラに自分を憎まないでほしいと祈っているように、ブロンズィーノもバッティフェッラに祈っている、その気持がこの肖像画となって結実していることになる。なるほど、バッティフェッラの視線はこの絵の正面に立つ鑑賞者の視線にも、やはり描く際にはこの絵の正面に身をおかざるえなかったブロンズィーノ自身の視線とも出会うことがない。それは貞操を脅かす視線であり、そういう視線にバッティフェッラは目を合わせるわけにはいかないからだ。
本の右ページの240番では、ペトラルカは肉体的な交わりをラウラと持ちたい情欲が募っていくが、それほどまでにラウラは魅力的なのだと告白する。そして情欲にかられてしまう自分を蔑むことはやめてほしいと、ラウラに向かって願っている。
(1) オリジナル(原典):男ペトラルカ から女ラウラ(ラウレ・デ・ノーヴェース)へ
というこの流れも、先ほどと同じく、鑑賞者の心の中で<折り返し>を起こすことによって
(2’) コピー(模写):男・ブロンズィーノから女ラウラ・バッティフェッラへ
というつながりになっていく。ブロンズィーノからバッティフェッラに宛てたソネットの中で、ブロンズィーノはバッティフェッラを「外面は鉄で、内面は氷」といった表現でその振る舞いを柔らかく批判しているが、バッティフェッラの心はブロンズィーノの情欲を受けつけないどころか、それを氷で冷ますような力すら持っているのだ。この肖像画の冷めたような表情、髪を隠しベールをかぶり、白と茶系の地味な服装に身を固めて男性に隙をあたえないのは、鉄と氷の女性だからなのだ。これはペトラルカのラウラに勝る貞淑な夫人ではないだろうか。
このようにオリジナルをコピーしつつも、オリジナルの枠組みから写し手は違いを自らの力で生み出して、オリジナルから逸脱していく。原点への回帰はある過去の事態をそっくりと再生することではなく、今を生きている自分にとってそれがどういうことなのかを内省させ、新しい趣向のもとに今の状況を捉え直す演技へとなっている。