アダム・スミスのためらい:『国富論』の文章スタイル

21世紀に生きている我々が、英語学習の一環としてぜひとも読んでおきたい本として、「チャールズ・ダーウィンの『種の起源(On the Origin of Species)』、「神の見えざる手」で有名なアダム・スミスの『国富論(The Wealth of Nations)』、カントの『純粋理性批判(Critique of Pure Reason)』、そして『アメリカ憲法(Constitution of the United States of America)』」を挙げているのは、脳科学に基づいた英語勉強法を提唱する苫米地英人(『その検索はやめなさい: 欲しい情報が一瞬で手に入る超速フィルタリング脳の作り方』主婦と生活社, 2010)です。指摘の通り、これらの著作はそれぞれの分野において、専門家を志す人なら必ず読んでおくべき一冊であることはいうまでもありません。しかしこれらの本を読むことで、英語力が増進するのかといえば、かなり疑問です。
英語で書かれている現代の文章では、そのスタイルによほど独特の癖がない限りは、文章の一文一文は、それぞれ一つのメッセージを担い、可能な限り能動態を使って書くようになっています。能動態による一文一メッセージという文章作法は、英語で文を書く際の鉄則として、論文ライティングの教科書などではしばしば提唱されています(Strunk & White, The Elements of Style. 3d ed. 1979; Cook & MLA, Line by Line: How to Improve Your Own Writing. 1986.)。実際に、現代英語で書かれている学術的な著作はもちろん、雑誌・新聞の文章も、この鉄則を頭に置きながら執筆されています。ところが苫米地が推薦しているこれらの著作は、そもそもいずれも18-19世紀に書かれたもので、一文一文が現代英語の水準からすれば長く、一文一意・能動態の鉄則に従っていません。これらの著作には、接続詞による複数の節の連鎖からなる一文、関係代名詞が入り延々と先行詞を説明する挿入節などが溢れています。一文一意味からすれば、これらの作品の英文スタイルは悪文として添削の対象になるたぐいの文章です。これらの著作を読めば、読者としては、論理の連鎖を頭に保持しつつ、書かれた内容を熟考する訓練にはなります。とはいえそれでは、現代英語とは異なったパタンの読解力養成にはなっても、英語力全般の増進とはならないでしょう。
たとえば、アダム・スミスの『国富論』の次の一文のスタイルは何を物語っているのでしょうか。
(1)The commerce and industry of the country, however, it must be acknowledged, though they may be somewhat augmented, (1)cannot be altogether so secure, when they are thus, as it were, suspended upon the Daedalian wings of paper money, as when they travel about upon the solid ground of gold and silver. [Cannan版 (1950年) 304ページ 下線太字は鈴木]
この部分は、大内兵衛, 松川七郎訳(岩波文庫版 1969年)『諸国民の富』では次のように訳されています。
[大内訳]とはいえ、断っておくべきことは、たとえこの国の商業や工業はいくぶんかは増進するにしても、商工業がこういうようにいわば紙幣というディーダラスの翼につりさげられている場合には、必ずしも金・銀貨という堅固な地面の上をあちらこちらと旅行している場合ほど安全ではない、ということである。(『諸国民の富』第2編(第2分冊)319ページ)
この箇所は、同じ岩波文庫版から30年後に新訳として出版された『国富論』(水田洋監訳 杉山忠平訳2000年)では次のようになっています。
[水田訳]その国の商業と工業は、いくらか増大するにしても、紙幣というダイダロスの翼で吊り下げられているのであるから、金銀貨という堅固な地面を歩く場合ほどには、全く安全ではありえない。
いずれの訳でも、 “not so secure when…..as when”(下線太字部分)の同等比較(so…as)と比較の対象(2つのwhen以下の内容)は正確に捉えています。これらの訳文を読んでみると、新訳・岩波文庫版である水田訳の方がはるかに意味が取りやすく、読者としては読むに耐える訳になっています。しかし原文に戻ってみると、主語 “the commerce and industry”(下線部(1))が述部 “cannot be….secure”(下線部(1))につながるまでに、挿入語句が三つも詰まっており、スミスはためらいつつ慎重にこの箇所を物語っていことがわかります。そのためらいの雰囲気を正確に伝えているのは、旧訳の方でしょう。
スミスのためらいの気持ちが出ていることをわかりやすく比較するために、三つの挿入語句が詰まった該当箇所を切り出すと次のようになります。
[原文]The commerce and industry of the country, however, (1)it must be acknowledged, (2)though they may be somewhat augmented, cannot be altogether so secure,
[大内訳]とはいえ、断っておくべきことは、たとえこの国の商業や工業はいくぶんかは増進するにしても、必ずしも……安全ではない、ということである。
[水田訳]その国の商業と工業は、いくらか増大するにしても、……全く安全ではありえない。
念のために、大内訳の各節・句を現代英語の通常のスタイルで置き直すと次のようになります。
[改変](1)it must be acknowledged, however, [that] (2)though they may be somewhat augmented, the commerce and industry of the country cannot be altogether so secure,
ためらいの雰囲気は、下線部(1)が”be acknowledged”という語句からもうかがえます。
“acknowledge” は、認めたくない事実を渋々認めるということですから、その事実に対してスミスは不信感を抱いています。どんな事実に対してかといえば、国の商業や工業が生産活動を行っていますが、生産された商品を供給するにあたって、金貨・銀貨のように実物によってその価値が保証されている貨幣によって人々が取引していないことです。紙券を介して取引し、その取引が金の価値にリンクしていないため、「必ずしも…安全ではない」という事実に対して不信感の念を持っています。
しかも “I must acknowledge” ではなく “must be acknowledged” として “acknowledge” する主語をぼかすことによって、「必ずしも…安全ではないということは、認めざるをえないだろう」という、もって回った言い方をしています。スミス自身は内心では安全だとは思っていないのですが、安全ではないという事実を等閑視する読者や、安全だと根っから信じている読者がいることをスミスは承知しているので、そのような読者に対して私は進んで認めたいという挑戦的なポーズを回避します。受身形にして「必ずしも…安全ではないという」という意見は、私スミスがではなく一般にそういう考え方を持っている人がいるという言い方をして、そのような読者にもここでの議論を一応は認めさせようとしています。
したがって下線部(1)は水田訳のように、「全く安全ではありえない」と客観的に断定しているわけではなく、また大内訳のように「ということである。」と事実を淡々と述べているのでもありません。
次に下線部(2)ですが、ここも下線部(1)と同様に受動態になっていて、ここでは誰が “augument”(増進させる)されるのかのその主格が明示されていません。またこの受動態の主語は “they” ですが、それが何を指すのかは、大内訳も水田訳も、“the commerce and industry” と解釈し、それで間違いはありません。しかし「商工業が増進させられる」のは何によってなのか、それが明示されていないので、「必ずしも安全ではない」その理由が曖昧になってしまいます。実は、“the commerce and industry” を増進させるかもしれないものは、いま問題にしている文の直前にある、これまた長い文の主語(「慎重に行われるべき銀行業務」”the judicious operations of banking”)です。この点を踏まえて訳しているのが、大河内一男監訳『国富論』(中央公論社, 1988年)です。
[大河内訳]けれども、次のことを承認しておかなければならない。すなわちこの国の商業や工業は、たとえ銀行業の操作によっていくらかは増進するにしても、……絶対安全ということはありえない、ということである。[この訳文は共訳者・玉野井芳郎が担当]
ここでいう銀行業務は、先に触れたように、銀行券を介して売り手と買い手の決済サービスをするということです。そうした銀行業務がからむことの恩恵を受けて、商工業の規模が大きくなることをスミスがやはり不快に思っていることは、”somewhat” が概して否定的な内容を修飾する副詞であることから推測できます。
ですから “when” 以下を省略したこの文の基幹部分の訳としては
[鈴木訳]銀行が慎重に業務を行えば、この国の商工業を拡大することに対して、まあある程度は何かの足しになるかもしれないが、銀行業務がはさまると、商工業そのものは必ずしも安全ではありえなくなるということは、認めざるをえないだろう。
以上のように、長い一文をここまで考えて読んでいたのでは、全体で約38万語から『国富論』は一生かかっても読み切れないでしょう。しかしスミスはこうした微妙なニュアンスを読者にしっかりと感じ取って読み進めてもらうことを期待していたことは、節の配置や単語の選び方から伝わってきます。ただ現代英語を読む私達には、こういう書かれ方をした文章に出会うことはきわめて少ないので、スミスの文章は上に[改変]という形で示したように、頭の中では現代英語風に読んでしまう。その作業を頭でするために、私達はスタイルから伝わる書き手のニュアンスの陰影ではなく、そこに書かれている内容に注意が向かいがちになり、正しく意味内容を読み取ろうとしばしば悪戦苦闘してしまう。この苦闘によって、文章一般の読解力や思考力は付くでしょうが、今ここで述べたような陰影を汲み取るだけの英語力が付くかといえば、それはほとんど期待できないでしょう。
