❖豊かさ❖ 向き合い方が肝心
Divitiae apud sapientem virum in servitute sunt, apud stultum in imperio.
ディウィティアエ・アプド・サピエンテム・ウィルム・イン・セルウィトゥーテ・スント、アプド・ストゥルトゥム・イン・インペリオー
富は、賢者にとっては奴隷の地位だが、愚者にとっては支配者の地位だ。
(セネカ『幸福な人生について』第26節 1)
■解説■
この言葉は、哲学者セネカが自身の裕福な生活と清貧を説く哲学的な教えの矛盾を批判された際に、その反論として述べたものです。セネカは、富そのものを善悪で判断するのではなく、富との向き合い方が重要であると説明しています。
「賢者」は富を単なる道具、つまり「奴隷」として扱います。富は、より良い人生や徳のある行いを支えるための手段に過ぎず、賢者は富に振り回されることはありません。賢者は富を制御し、自分の目的のために利用します。 一方、「愚者」は富に心奪われ、欲望のままに富を追い求め、最終的には富に「支配」されます。富の獲得と蓄積が目的そのものとなり、彼らは富の奴隷となってしまうのです。セネカの言葉は、財産がどれだけあるかが問題なのではなく、財産に対する人間の心のあり方が重要であるというメッセージを伝えています。
▶比較◀
君子は義に喩(さと)り、小人(しょうじん)は利に喩る。
(孔子『論語』里仁篇)
■解説■
<大意>「徳のある立派な人物は道義を重んじて行動し、利己的で徳のない人物は自分にとって得か損かどうかだけで物事を判断する」。孔子は「利」そのものを完全に否定しているわけではありません(「君子は財を愛す、之を取るに道有り」同編)。ここで孔子は、判断や行動の基準が「利」が第一になり、「義」が二の次になってしまうことを戒めているのです。
孔子の言葉は、富を得る手段や過程に焦点があります。「義」にかなった方法で富を築くことが重要であり、不正な手段は許されないというのです。これに対しセネカの言葉は、富を得る手段だけでなく、得た後の富への向き合い方、つまり富をいかに管理し、自分の人生の目的のために使うかという使い方に強い関心を向けています。