❖言葉❖ 言葉と生き方の一致
Quod sentimus loquamur, quod loquimur sentiamus: concordet sermo cum vita.
クォッド・センティムス・ロクアームル・クォッド・ロクィムル・センティアームス。コンコルデト・セルモー・クム・ウィーター
我々が感じていることを語り、我々が語ることを感じよ。言葉を生活と一致させよ。
(セネカ『道徳書簡』第75書簡4節)
■解説■
この書簡でセネカは、哲学の真の目的とは何かを論じています。彼は、哲学が単なる言葉遊びや知識をひけらかすための道具であってはならず、人の魂を善くし、正しい生き方へと導く実践的な指針でなければならないと主張します。そして、心から感じていること、信じていることを言葉にすべきだと訴えています。表面的な取り繕い、他者に迎合するための言葉であってはならないのです。さらに進んで、たとえ口にした言葉が正直な感情に基づいているとしても、その言葉が内面において真に受け入れられ、その通りだと確信を感じられている状態でなくてはならないのです。これら二つの要請によってどういう自分でなくてはならないかといえば、言葉(sermo)と生活(vita)との間に完全な調和(concordia)があるようになることです。
▶比較◀
知(ち)は是(こ)れ行(こう)の始(はじめ)にして、行(こう)は是(こ)れ知(ち)の成(せい)なり。
(王陽明『伝習録』〔1527年〕)
■解説■
「知ることは行動の始まりであり、行動によって知は完成する」。陽明学の中心思想で、「知行合一」と言われます。善悪を知ることは、行動の出発点であり、その知が真に完成するのは、行動によってであるというものです。「知」とは学問的な知識を積み上げや理論の理解という意味ではなく、人間が生まれながらにして持っている、善悪の判断力である「良知」を働かせることです。そして、善悪を知っただけで、善を行わないのは、まだ知らないのと同じとされます。 王陽明の「知行合一」は、すべての人に備わる「良知」という内なる道徳的判断力を発揮することを通じて、知と行を不可分のものとして捉える修養論です。これに対し、セネカの言葉は、ストア派哲学における「徳」ある生き方を実現するための倫理的な呼びかけであり、誰もができることとは想定されておらず、また言葉と行動の一致を通じて自己の統一と誠実さを追求するものです。
