❖豊かさ❖ 執着からの自由
Brevissima ad divitias per contemptum divitiarum via est.
ブリヴィッシマ・アド・ディヴィティアース・ペル・コンテンプトゥム・ディヴィティアールム・ウィア・エスト
富を軽蔑することが富に至る最短の道である。
(セネカ『道徳書簡』第62書簡3節)
■解説■
哲学者セネカは、この書簡で自分が昵懇にしている友人デメトリウスが、富を軽蔑するのではなく、富への執着から自由になることで、精神的な豊かさを得ていることを述べている。そうした生き方の中核となる心的態度を要約しているのが、引用の言葉です。セネカは、富を追い求めることにあくせくと人生の時間を費やすのではなく、むしろ富への欲望から自由になることこそが、真の富である精神的豊かさに至る最短経路だと主張しているのです。
ここで言う「富」(divitiae)は、単にお金や財産だけを指すのではなく、富を求める欲望や、それに伴う心の煩わしさをも含んでいます。人々が際限なく富を追い求める生活は、かえって心の平穏を奪い、不幸をもたらすというのです。
▶比較◀
物を以(もっ)て喜びとせず、己(おのれ)を以て悲しまず。(不以物喜,不以己悲)
(范仲淹「岳陽楼記」1046年)
■解説■
この言葉は、北宋の政治家・文人であった范仲淹が、岳陽楼の再建に際し、楼からの景色の描写を通じて、政治的理想と人格論を語っているなかの一節です。「物」とは外的な環境のことで、人々の感情を動かすすべての客観的要素を指し、ここでは自然、境遇、富貴などのことです。他方、「己」は自己内部の主観的な感情、私心のことです。ここで范仲淹は、外的な環境や内的な感情に一喜一憂せず、常に冷静で公正な心境を保つべきだと説きました。そしてその上で、より大きな社会の責任、すなわち「天下の憂い」を自覚し、それに対応することが知識人官僚(士大夫)の理想的な姿であると主張しています。
セネカも范仲淹も、外的なものに左右されない心の持ち方を説いている点では共通しています。しかしセネカが目指すのは、あくまでも個人としての「心の平穏」(セークーリタースsecuritas)です。ストア派の哲学は個人の内面に焦点を当て、外部の状況に左右されない不動の精神を築くことを重視しました。他方、范仲淹にとっては、個人の心の平穏が最終目標ではありません。外的・内的要因に動じない強固な精神を築くことによって、天下のために尽くすという、より大きな社会貢献を目的としています。その背景には、個人の内面的な修養が、政治家としての規範や公共の福祉に繋がるという儒教的な価値観が息づいています。