❖死❖ 死ぬかもしれない恐怖
Crudelius est quam mori, semper timere mortem.
クルーデーリウス・エスト・クワム・モリー・センペル・ティメーレ・モルテム
死ぬことによりも、絶えず死を恐れることのほうがもっと辛い。
(セネカ(大)『論争問題』第3巻5節)
■解説■
裁判における想定問答集の一節で、生きるか死ぬかの不確実な状態が最も惨めと、被告である男性はいう。この男性は、自分が恋した女性を盗み出すが、この男を女性の父親は捕まえ、裁判にかける。しかし父親はこの男に死刑を求刑するか、持参金なしでも娘をこの男と結婚させるかで迷う。男性は、決断が先延ばしにされることこそがもっとも残酷だと主張し、引用の言葉を使って、父親に決断を迫っている。
なお漫画『名探偵コナン』のなかで、FBI捜査官・赤井秀一が部下キャメルに、「死そのものは恐ろしくない。恐ろしいのは『死ぬかもしれない』という恐怖だ」といって、激励している。
▶比較◀
蛇の生殺しは人を噛む
(諺苑』〔江戸時代の国語辞書〕[1797年])
■解説■
この諺は、直接には、蛇を半死半生に痛めつけて、とどめを刺さず殺しも生かしもせずに放置しておけば、苦しむ蛇の恨みを買って、災難をやがて被るということ。そこから転じて、物事に決着をつけず、宙吊り状態にしておけば、後難が降りかかるという意味になった。
このように、セネカの言葉も諺も、ともに曖昧な状態がもたらす不確実性や苦痛を教えているが、セネカの言葉は個人の内面的な苦悩が前面に出ているのに対して、この諺は人間関係における一般的な教訓として語られている。
なお、女性を盗み出すという行為は、『伊勢物語』「芥川」にもある。そこでは男は女性とともに夜の逃避行を試み、芥川という川のほとりで雷雨に遭う。男は女を蔵に隠して夜明けを待つが、待っているうちに女は鬼に食われてしまい、それに気づいた男は絶望のうちに泣き崩れる。そこではひたすら男の悲しみに焦点が当てられ、男が法的・社会的に罰せられる、ましてや裁判にかけられるといった記述はない。
もう一つ付け加えると、江戸時代には、蛇はヘビではなくクチナワと読んだ。