ミルトン離婚論執筆に潜む背景
人類最初の夫婦を描くミルトンの『失楽園』とフランケンシュタイン
ジョン・ミルトン(1608–1674年)は、『失楽園』(1667年, 約1万行)の叙事詩人として、イギリスではその名を知らない人はいません。この長編詩は、完全に失明したミルトンが、自分の口からほとばしる詩を口述筆記させたものでした。伝記によると、ミルトンは娘の一人デボラにも口述筆記させたといわれています。
『失楽園』は、聖書の最初の書「創世記」のその冒頭部分(1章-3章)にもとづいた物語です。1章では、神が無からこの宇宙を創造し6日間で完成させたこと、6日目には人間を創造したことが書かれています。6日目には最初の人間が誕生します。
ところが、2章では、この人間の創造が、異なった内容になって記述されます。最初に男性アダムを土から創りますが、「人が独りでいるのは良くない」(2章18節)と神はいい、アダムが寝ている最中にその肋骨を一本取り、その骨からアダムの配偶者であるエバを創ります。こうして最初の夫婦が誕生します。二人は楽園(エデンの園)で生活をはじめます。そして楽園のどの樹の実も食べてよいのですが、中央にある樹(善悪を知る樹)の実だけは食べてはならないと命じます。
そして3章では、禁断の実を食べても大丈夫という蛇の誘いにエバがひっかかり、食べてしまい、またアダムもエバからその実を渡されて食べてしまい、裸であることを意識するようになります。そして神が二人のもとを訪ねると、恥ずかしさから神の前に出られず、食べたことが露見します。神の禁を破った二人は、楽園から追放されます。
こうした荒筋が示唆するように、「創世記」にもとづいた『失楽園』では、罪と死に定められた人間のあり方を基本的に夫婦関係のなかから浮かび上がらせようとしています。
『失楽園』の愛読者は数多くいますが、その中のひとりが、ヴィクター・フランケンシュタインが創造した人造人間です(世間では、フランケンシュタインを人造人間の名前と思っていますが、これは原作を知らない誤解です。原作には、人造人間に名前はありません)。天才的な頭脳をもったこの人造人間の人格形成に一役買ったのが、『失楽園』です。森の中をさまよっていると、捨ててあったバッグを見つけ、食べ物にありつけると思いきや、中にあったのはこの詩集でした。早速読んでみて感じたのは、自分はアダムのように創られた人間でありながら、自分にはエバはいないのは理不尽だという気持ちです。そこで、人造人間はドイツから、ジュネーブに潜んでいる科学者フランケンシュタインの元に押しかけ、エバにあたる人造人間を創るように要求します。この科学者は一時はその要求を呑みますが、最終的に拒絶します。その結果、幼馴染の女性と結婚したその初夜に、人造人間によって新妻は殺されます。
このように、『フランケンシュタイン』(1831年改訂版)でも夫婦関係が、人間のあり方として重要なテーマになっています。なおこの小説を書いたメアリー・シェリーは、これまたイギリスで誰一人としてその名を知らない人はいない詩人パーシー・ビッシュ・シェリーの妻なのですが、二人の結婚は、当初は、この詩人による事実上の「重婚」でした。
突然の結婚と妻の実家帰り
ところで、『失楽園』を口述筆記した娘は、円満な夫婦の下で育ったのかというと、結婚当初はどうもそうではないようです。というのも、ミルトンは、1640年(32歳 当時は視力正常)に結婚します。相手は、メアリー・パウエル(17歳)という地方の名士の長女です。
メアリーの父親はミルトンの父親の職業は、公証人でした。この職業は今でもあるように、何かを証明する書類が捏造されたものではなく、真正のものであることを個人としてではなく公に認めるという職務です。証明する内容は多岐に及びますが、もっとも多かったのが、金の借り手と貸し手との名前、金額、借りる条件などを記載した借用書です。そのためか、公証人は金貸しも兼業することが多かったようです。
父親はロンドンではなくレディングに住んでおり、パウエルはレディングから43km程離れたオックスフォード近郊のフォレスト・ヒルの治安判事でした。ミルトン家は代々、フォレスト・ヒルから1kmと離れていないスタントン・セイント・ジョンに住んでいたので、パウエル家とは顔見知りだったのでしょう。パウエルは公証人ミルトンから借金をしており、1640年には借金返済が滞り、フォレスト・ヒル近くの土地をこの公証人から押収されています。また借金の利子を1644年まで、私塾経営で糊口をしのいでいたジョン・ミルトン自身に支払うよう、取り決めもなされています。
ところが1642年には、その借金の利子支払いの滞りがあったようです。公証人ミルトンは、レディングに住んでおり、ジョンはロンドンに住んでいましたから、距離としてはレディングーオックスフォード間の方が、ロンドンーオックスフォード間の約半分なのですが、ジョンは41年に宗教制度改革についての書物を3冊上梓しており、これらの本をオックスフォード大学附属ボードリアン図書館に献本する必要がありました。そこでジョン自身が取り立るべく、ロンドンからフォレスト・ヒルあるパウエル家を訪れます。このときジョンは、1642年5月29日(聖霊降臨祭)の頃のことです。そこで見初めたのが、パウエル家の長女メアリーでした。

フォレストヒルのパウエル家(19世紀半)
ミルトンはどうやらこのメアリーに一目惚れしただけではなく、一目惚れに付きものの、相手の女性を自分の理想像に無自覚にまた軽率にあてはめることをしてしまったようです(ミルトン ソネット8番)。
4つの離婚論
ミルトンは同家にしばらく滞在したあと、ロンドン(現在のバービカン・センター周辺)の自宅に戻りますが、そのとき、このメアリーを妻として同伴していました。結婚式をいつどこで挙げたのか、記録には残っていません。
記録がないのもやや不思議なのですが、さらに不思議なのは、メリーは結婚後なんと1ヶ月ほどで実家に戻り、それから約3年にもわたり、ミルトンのもとに戻りませんでした。正確な不在期間は、1642年7月か8月から1645年初夏です。
この期間に、ミルトンは離婚について4冊の本を出版します。
まず一冊目が『離婚の教義と規律』です。ミルトンはそれまでピューリタン論争家として教会内部の位階制度についての議論はしてはきましたが、教会がかかえている信者の日常生活に直接かかわる個々の制度をとりあげて、議論の対象とすることはありませんでした。離婚についての議論に参加したこともなかったし、離婚とはなにかなどということに触れたこともなかったのです。そしてこの本の文面には、失敗した結婚のまま夫婦が共同生活を続けることがどれほど悲惨なことかという実感が伝わってきます。「不自然に鎖につながれた二つの屍」あるいは「生きたまま、死んだ体に繋がれている」(『教義と規律』326-327)そういう血の気のひく、一瞬でもその場にいたたまれないおぞましい状態を、結婚したがゆえに生じる「束縛」はもたらすといいます。逆に、そんな結婚が解消できるなら、「優しい一撫でで、[離婚できないでいる]男の生活から生じる何万という涙を払い去れる」(『教義と規律』245)と説きます。
『離婚の教義と規律』出版から6ヶ月後には、『離婚の教義と規律』の改訂版を出版し、さらにその6ヶ月後には、ミルトンと同じように離婚の規律を肯定する『離婚に関するマーティン・ビューサー氏の裁定』(ブーサーの著作の翻訳)を刊行します。年明けて45年、『裁定』出版から7ヶ月後には『四弦琴』と『懲罰笞』という二冊の著作をほぼ同時に出版します。『四弦琴』では、離婚後に、今度こそ自分にふさわしい妻と結婚できれば、「似たもの同士、つまり精神と性格とがぴったりなことは、夫婦の間に和合の精神と一性を生みだしうる」(『四弦』605)ではないかと、理想的な配偶者像を明快に提示します。
このように、ミルトンは短期間のうちに離婚にかんする教義への思索を掘り下げ、結婚制度改革を執拗に訴え続けたことがわかります。そしてこの期間の出来事としてもう一つ見落としてはならないのは、ミルトンは「ディビス博士の娘」と交際しており、この女性との結婚も考えていたことです。不在の妻メアリーと離婚できれば、ミルトンとこの女性はめでたく結婚できるわけです。
ミルトンが著した4冊の離婚論についての詳しい内容はこちらを参照してください。
