意志と中動態:基礎 意志は後からやってくる
意志にかかわる受動態と中動態との混同
事例A
教員が質問はありませんかといったので、
(1)「私が手をあげる」と(2)「私の手があがってしまう」
(1):能動態
私の意志があることが留意されている。
意志は教室という場や他のクラスメートという仲間など自分以外のものに接続されていると同時に、そこから切断されていることを示す。
行為に対して自分の意志が働いているので、責任あるものと見なされる。
(2):中動態
主観的に感じられた能力としての意志が保留されている。
<私>は教室という場や他のクラスメートという仲間など<私>以外のものと一体のままで、それらに巻き込まれている。
行為に対して自分の意志が働いているとは思えないので、その行為に対する責任が許されるものと見なされる。
事例B
授業中に眠ってしまって、教員から理由を聞かれ
(1)「ビデオを早朝まで観ていました」と(2)「父の会社が倒産したため、深夜までバイトしていました」。
(1):能動態
私の意志があることが留意されている。
ビデオ鑑賞を授業に優先させることを選択した。
その選択は、自分の意志で行っている。
ビデオ鑑賞に対して自分の意志が働いているので、その結果生じることに対して責任あるものと見なされる。したがって自分は教員から叱責を受ける。
(2):受動態
私の意志があることが留意されている。
深夜までのバイトは、自分の意志によって選択している(能動)。
しかしその選択は、それ以外の選択の余地がない状況で行われている。
深夜までのバイトは、選択の余地がない状況で選び取らされたもの(受動)と見なされる。
行為に対して自分の意志が働いているとは思えないので、その行為に対する責任が許されるものと見なされる。
事例A(2)中動態と事例B(2)受動態とは、自己責任から免責されることで一致する。そのために、中動態までも受動態の一部として通常では理解されてしまう。
國分功一郎『中動態の世界』の論点
(1) 行為へと踏み切る、そういう意志はそもそもあるのか。
人は最初から意志を有し、その意志を使って行為を選択し、行為に対して責任を負わされるという見方が一般的である。
こうした見方は、中動態としての人間のあり方を見落としている。
(2) 事例B(1)の場合、
夜更かしのために居眠りをしているから、居眠りの責任は学生にあると判断された瞬間に、学生は、「夜更かしを自らの意志で能動的に選択したことにされる。」(『中動態の世界』26ページ)
「責任を負わせてよいと判断された瞬間に、意志の概念が突知出現する。」(同上)
(3) アルコール・タバコ・薬物依存症は、自らの意志で能動的に選択しているわけでもないし、本人の意志が弱いから生じるのではない。
(4) 能動―受動枠での説明に捕らわれることにより生じる議論
「非対称的自由」:人間は善なる行為に自由意志を用いて走ることはできても、悪である行為に自由意志を用いて走ることはできない。
Garrett, Don. (1995). Spinoza’s ethical theory. In Don Garrett (Ed.), The Cambridge Companion to Spinoza (pp. 267-314). Cambridge: Cambridge University Press, p.301.
学習観としての中動態
- 学習意欲の無意:事例B (1)「ビデオを早朝まで観ていました」<能動態―受動態>枠の能動
- 学習意欲の有意:事例B (2)「父の会社が倒産したため、深夜までバイトしていました」<能動態―受動態>枠の受動
- 向上すべき学習意欲:事例A (2)「私の手があがってしまう」<中動態―能動態>枠の中動
- 高度な学習意欲:事例A (1)「私が手をあげる」<能動態―受動態>枠の能動
教員が前提とし、学習者に植え込む<理想的な学習者像>はD)のみ
教員の関心は、学生の意志が学習へと向かい、意欲が高まるように学生を誘導する。
しかし中動態のあり方について教員が理解するなら、C)の学生(中動態)をD)の学生(能動態)よりも意志が弱い学生として判断することはない。また教員がC)の学生(中動態)をD)の学生(能動態)になるようにと誘導することは、C)の学生にとって不必要な精神的負荷をかけることになる。
「ビデオを早朝まで観ていました」を<能動態―受動態>枠の能動として判断した。
しかしもしも学習者自身が
「なんとなく自然に、ついついおもしろくて」というなら、<中動態―能動態>枠の中動となる。ただしこのときは学習過程に対してではなく、ビデオ鑑賞に対してである。