◆手本◆慕う人物が見ている

Aliquis vir bonus nobis diligendus est, ac semper ante oculos habendus, ut sic tamquam illo spectante vivamus, et omnia tamquam illo vidente faciamus.

アリクイス・ウィル・ボヌス・ノービース・ディーリゲンドゥス・エスト, アク・センペル・アンテ・オクロース・ハベンドゥス, ウト・シーク・タムクアム・イッロー・スペクタンテ・ウィヴァームス, エト・オムニア・タムクアム・イッロー・ウィデンテ・ファキアームス

立派な人を慕い、いつも眼前に浮かぶようにせよ。まるでその人に見られているかのように居住まいを正し、何をするにしてもその人が見ていると思って振る舞うように。

(セネカ『道徳書簡』第11書簡8節)

■解説■
  セネカは、その弟子にあたるルーキーリウスにあてた書簡の中で、より良い人生を送るための心構えを数多く述べている。ここの言葉は、そうした心構えの一つとして、哲学者エピクロスの言葉をそのまま引用したもの。セネカは、この言葉を引用した後で、尊敬できる人物を常に念頭において、その人物の監視を受けているかのように行動すれば、過ちを犯すことが防げるし、心も良い方向に導かれるようになると教えている。そして模範となる人物として具体的に、ローマ本来の質実剛健な生活への復帰を説いた(大)カトー(前234-149年)か、ストア哲学を実践し「賢者」とまでよばれたラエリウス(前2世紀)の名をあげている。
 なおこの教えの前提には、自分自身を成長させることは苦痛ではなく快楽であり、逆になんら規律もなく欲望のおもむくまま生きることは精神的不安の現れという見方が潜んでいる。実際、エピクロスが目指した究極の生とは、身体的な苦痛や精神的な不安がない静穏な状態(アタラクシア)であった。

(大)カトー像

▶比較◀

三人(おこな)えば必ず我が師あり。()の善なる者を(えら)んで(これ)に従い、其の不善なる者は之を(あらた)む。

(『論語』述而)

■解説■
 私が他の二人の人と三人で何かをすると、必ずそこには、自分の見(なら)うべき師として善を勧める人と、自分がそうなってはならないという反面教師として不善を提案する人がいる。これら二人は自分にとってはいずれも師である。どういうことかといえば、二人のうちの一人の人のすることが善であるならば、それを自分で選びとって見倣うようにし、もう一人の人の行うことが悪ならば、そういう勧めは悪だと認知し、我が身に翻って反省する。こうしていずれの人も自分にとっての師となる。


❖人格❖ 職業ではなく人格による評価New!!
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◆死◆恐怖を抱かない
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◆運命◆人をもてあそぶ女神
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◆無秩序◆自然発生と四大
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