求愛

好きという求愛 wooing

求愛にあたる英単語には、wooingとcourtshipの二つがある。動詞wooはアングロ・サクソン系の言葉で、11世紀頃からすでに使われている。これに対して、courtshipは、ラテン語を語源とした外来語で、16世紀末頃から使われるようになった言葉である。これらの二つの単語がさす求愛の内実は、その方向と目的が異なっている。

wooingが誰に向かって、どういう目的なのかを教えてくれるのが、次の言葉である。

「あの子をただ見初めただけで、好きになり、好きになったから求愛 wooし、そしたらあの子がOKしてくれて、連れ添いになるなんてことがあるのか。」(シェイクスピア『お気に召すまま』5幕2場)

これは、オーランドという若者が、自分の兄オリバーに向かって、森の中でいった言葉である。オリバーは、森の中で出会った羊飼いの娘に一目惚れしてしまい、その娘に「求愛」し、結婚する手はずを整えている。オリバーは父の遺産を相続している貴族であって、羊飼いの娘と結婚するような身分ではないはずだが、身分違いを超えてでも、結婚への思いは変わらない。

このように、求愛は、独身の男性から独身の女性にするものであって、しかもそれは結婚を前提としている。しかも求愛の理由は、相手が好きということだけであって、いつどこでどれだけ以前に好きになったのかは問題にならず、好きになっているその強さだけが重要である。また結婚が前提であるにもかかわらず、結婚であるなら関心事である家柄、身分、財産などが、好きという一点によって度外視されてしまう。(もっともこのケースでは、この娘、実はオリバーの仕える宮廷を司る公爵の娘であり、その身分を隠し、羊飼いに変装していたのだった。だから実際には、身分はほぼ相応の結婚だった。)

この引用は、シェイクスピアの喜劇からのものだが、劇の終わりでは求愛によって4組ものカップルが誕生している。それほどこの劇ではwooという求愛が唱道されているのだ。こうした結婚は、劇の登場人物の一人で、皮肉屋のジェイクイーズによって、「おまえの愛の航海には食料備蓄が2ヶ月間だけだ」、つまり3ヶ月目からは夫婦げんかが始まると、愛を育むことの難しさが揶揄される。しかしそうした水を差す発言でこの劇が終わりを迎えようと、求愛が夫婦として実を結ぶことに、私たちは違和感を抱かない。

しかし、同じ求愛でもcourtshipは、歴史的に見ると今の私たちの通念とはなじまないところがある。まずこの単語が求愛 woo とほぼ同じ意味で使われ出すのは、やはりシェイクスピアの時代であった。

「自分の思いをもっぱら集中させるのは、求愛すること courtship、愛をうまく表現することだよ。」(シェイクスピア『ヴェニスの商人』2幕8場43-44行)

これは、ヴェニスの商人アントーニオが、親友バッサーニオに向かって述べた忠告である。貴族バッサーニオは、求婚者が各国から詰め寄る、裕福な貴族の独身女性ポーシャに、自分も結婚申し込みをしようとヴェニスから旅立とうとする。しかしバッサーニオには金がないため、その資金をアントーニオから借りる。この貴族が、なるべく早く戻ってきて借りを返すと述べると、引用文のようにアントーニオが応えた。ここでの求愛は、woo と同じく、結婚を前提に、独身男性が独身女性に求愛することである。しかしここで woo と決定的に異なっているのは、バッサーニオはポーシャをまだ見ておらず、その身分、地位、財産、評判から好きになれるだろうと思っているのにすぎないことである。19世紀になると、courtshipは、相手をすでに好きになっているということが明示的になるが、シェイクスピア時代の17世紀には必ずしもそうでなかった。なぜ求愛であるにもかかわらず、好きということが焦点になかったのだろうか。それは、外来語 courtshipがそこに内包している大陸の伝統と関連している。

崇敬という求愛 courtship

求愛courtshipの伝統において、まず第一に女性は好きになる対象ではなく、崇拝の対象として考えられていた。崇拝されるにふさわしい女性であれば、男性はその女性に求愛courtship することができた。

 求愛courtship の歴史を振り返ると、その発端として、12世紀の南欧の吟遊詩人(トゥルバドゥール)に遡ることができる。吟遊詩人たちは、宮廷court の既婚貴婦人への賛歌を創り出し、夫人の愛を勝ち取っていった。その創作を貫く基本観念は、至高の愛とは自分の魂がその女性の魂と、この世での肉体的な交わりをすることをあえて忌避して、光明に満ちた精神的結合に至ることにあるという信念であった。だから、求愛wooingとは異なって、ここでは終着点が結婚することではなかったし、そもそも相手の女性はすでに結婚していたから、結婚すれば重婚罪を犯させることになってしまう。そしてすぐに類推がつくように、夫人と肉体関係を持つことは、夫人を姦淫の罪に陥れることになる。だから夫人は結婚にかんして、詩人の情熱(好きという感覚)がどれほど強くとも、あるいはそれが強ければ強いほど、肉体関係については常に否と詩人に向かって言い続ける。

また求愛wooともうひとつの重要な相違点が、女性の決定的な優位性である。宮廷court において主君と臣下の上下関係があり、臣下は主君に忠誠を誓い、軍役の義務がともなうが、求愛courtship においては、夫人が主君、詩人は臣下であった。だから臣下としての詩人は、もし夫人の愛を得られた場合には、夫人の前にひざまずき忠誠を誓う必要があった。そしてそれ以後、詩人は夫人の恋人として、「秘密、忍耐、節度」という掟を守る義務が生じた。[1]  このような忠誠と義務によって愛される女性は、神をあがめるようにあがめられるようになり、理想化されていく。『ヴェニスの商人』での求愛が、好きでなくとも可能なのは、ポーシャについての高い評判を聞き知ったバッサーニオは、それだけでこの女性を崇拝できたからだ。


[1] ドニ・ド・ルージュモンRougemont, Denis de. 愛について : エロスとアガペ. Trans. 健郎 鈴木 and 克己 川村. 平凡社ライブラリー. Vol. 14-15: 平凡社, 1993. 上Pg141

まとめ

Wooing求愛Courtship
独身女性対象既婚女性
好き原動力評判・身分
憧憬女性への関わり合い崇敬
前提結婚不可能
肯定肉体関係禁忌
開示私秘性秘密
思いが伝えられない苦しみ霊的融合
恋人から夫婦へ男女の関係誓いと義務

肉体の交わりの肯定

求愛にかんするこの二つの通念を対立するものとしてではなく、日常の現実という視点から結婚を磁場として一つに融合しているのは、シェイクスピアの演劇においてみられる。シェイクスピアの全作品38作のうち3分の2以上がイタリア文学作品を材源としていることが示唆するように、シェイクスピア時代にはイタリアは芸術・思想・文化の中心であった。イタリアがそのような文化優位の地位に上りつめることができたのも、経済上の繁栄をバックにして、当地において古典ギリシア・ローマ文化の復興運動がもっとも活発に展開したからであった。

イタリアで新たに芽生えた新思想で、愛の観念に大きな影響をあたえたものが新プラトン主義である。プラトンの思想(紀元前4世紀)は、のちにプロティノス(3世紀)によって世界生成と人間の魂の運動という枠組みで体系化される。プロティノスの新プラトン主義の思想が、ルネッサンスになって、プラトンのギリシア語原典からの翻訳とともに復活することになる。

人間の魂にかんして、プラトンの思想は、魂が本来あるべき場所はこの地上ではなく、地上を遠く離れたイデア界にあるのだから、人は肉体という魂を幽閉する牢獄から魂を解放すべく、魂を純化させていくことを説いている。この魂の解放と高揚の観念は、新プラトン主義でも受け継がれ、魂はイデア界の<一なるもの>に対して限りなく愛を抱けば、やがて<一なるもの>と合一し忘我状態の至福に到達できるとした。

図 1 アンドレーア・シャヴォーネ「キューピッドとサイケの結婚」 1540年頃 (Andrea Schiavone, The Marriage of Cupid and Psyche ca. 1540 )

こうした魂の動きとその方向性は、ルネッサンス新プラトン主義でも継承されるが、ここにおいては、魂を閉じこめる肉体は、「あまりにも汚れた肉体」(『ハムレット』1幕2場)という否定的な位置づけではなく、<一なるもの>の本質を分有しており、その性質を備えているために<一なるもの>に魂を連れ戻す契機になるとみなされている。だからたとえば女性に愛を抱いてキスをしても、それによって魂が<一なるもの>、<神的なもの>へと志向させられるのであれば、それは唇と唇という汚れた肉体同士の結合として捉えるべきではなく、<一なるもの>へと回帰するための霊的結合へと向かうものと読みかえられたことだ。

そしてその回帰がたどるステップとは、第1段階として、女性に宿る肉体的美しさを賞賛し、次の段階としてその女性の美徳を観照すること、そして最終の第3段階として女性と肉体的に交わる自分、観照する自分とそういう自分以外の世界という区別が消えさって脱自(エクスタシス)となり、自分の魂は<一なるもの>に合一し、不可視の超越界のなかに溶けこみ神的な境地に至る。[1]

このようなステップを踏むので、肉体上の交わりはルネッサンスになって肯定的なこととして評価する道が開かれた。そして実際に16世紀から17世紀には、愛(アモル)が魂(サイケ)と肉体的に合体する二人の結婚をあらわした絵画や彫刻が作られるが、これらはルネッサンス新プラトン主義の文脈からすれば、積極的に肯定できる愛と結婚の寓意でもあった。こういう文脈を踏まえると、シェイクスピアの多くの喜劇において、愛されない孤独、相手の人格への誤解などから求愛が頓座していた人々が、劇の結末で肉体の交わりを強く意識した形の結婚に至ることは、当然といえば当然なのだ。

たとえば『ヴェニスの商人』では、バッサーニオとポーシャのカップルともにバッサーニオの友人グラッシャーノとポーシャの侍女ネリッサのカップルも誕生するが、劇の末尾でグラッシャーノは次のように締めくくっている。

ですが、まず最初にネリッサに訊問し、宣誓の上で証言を求めたいのは、ですな、今日の夜まで、丸一日ぐずぐず待つか、それとも、いっそ今すぐベッドに入りたいか、彼女のお気持ちはいずれであるかだ。夜の明けるまで、まだ二時間はある。けど、たとえ朝が来たって、この書記殿と新床を共にしているあいだは、明るくならないでほしいよな。

シェイクスピア『ヴェニスの商人』5幕1場(安西徹雄 訳, 光文社古典新訳文庫) p. 149.

肉体の交わりとその喜びがあからさまとはいえないまでも、諧謔的な調子をからめて斜めから肯定的に捉えられている。これは、中世のキリスト教の標準的な考え方ではまず考えられないことであった。


[1] このような段階は、ジョン・ダン「エクスタシー」やフィリップ・シドニー『アストロフェルとステラ』25番などの詩で語れられる男女関係の下敷きになっている。またルネッサンス新プラトン主義については、拙稿「造物主願望と不可視の導線:フィレンツェ人老コジモの建築・写本・政治熱」 松岡光治編 『都市と文化』 (名古屋大学国際言語文化研究科, 2004)93-95ページ。

求愛から結婚生活への関心へ

『ヴェニスの商人』の展開は、求愛に始まり、結婚で終わっているが、愛が開始点にあるからといって結婚生活が円滑に進むわけではない。軽い浮気から深刻な不倫まで、夫婦となったからには配偶者の誠実さが試されるし、また夫婦同士の間の性格の一致も家庭生活が円満に進むためには必要である。誠実さや性格一致はシェイクスピアの作品においてテーマになるが、『オセロ』や『ウィンザーの陽気な妻たち』からもわかるように、結婚生活で焦点があてられるのは、誠実さの方であった。そしてそれはシェイクスピア劇を後継したジェ-ムズ朝演劇(1603-25年)になると、誠実さへ裏切りは陰惨な復讐となって展開する。さらにそこでは、夫婦は求愛のプロセスと経て結ばれているのではなく、家系や身分を貶めないため、経済的な裕福さを維持するためといった理由から見合い結婚によって技巧的にできあがった、愛のない夫婦であった。

16世紀までのシェイクスピアには、愛のない夫婦は題材にならなかったのはもちろん、性格の違いから生じる夫婦間の人間関係の難しさがシェイクスピアでは深く探られることはほとんどといってよいほどなかった。仮にそうした難しさが話題となるとしても、その難しさは、軽く笑い飛ばされる対象にすぎなかった。

この世界に一人ぐらい、頭痛を訴えても女房の浮気のせいと勘ぐられないですむ男はいないのか?六十になっても独身を通す男にはもうお目にかかれないのか。ま、好きにするがいいさ、自分からくびにかけられ、首にタコをこさえ、休みの日も家のなかで溜息ついて暮らしたいのなら。

『から騒ぎ』1幕1場 小田島雄志訳白水uブックス. Vol. 17

 ところがジェ-ムズ朝演劇になると、夫は妻との結婚生活に満足できない姿が描かれ、そういう夫が別な男性の妻と不倫をするといった「女房の浮気」が公然としたテーマになっていく。その根底には、愛というのは、人間が動物本能として先天的に所有している性的欲望のその動物性を都合よく隠すためのきれいな包み紙であって、愛とは所詮(しょせん)そうした動物性を自己正当化するための取り繕いにすぎないというものがあった。

 しかしその一方で、ジェ-ムズ朝とは、厳格で謹厳実直なカルヴァン派の影響を強く受けたピューリタンとよばれる宗教改革者たちが社会の中で発言権を進捗させていく時代でもあった。カトリックから離脱したとはいえ、カトリックの色彩を強く残す英国国教会の教理や諸制度に対して、彼らは、「『聖書』に帰れ」というプロテスタントの原典釈義の精神にのっとって徹底した改革を求めていった。そして英国国教会とは一線を画す教会活動も、その発言に並行して進めていった。

この時代の演劇世界では、円満な夫婦関係を実現することの難易度の高さが水面上に浮かび上がり意識されだしたが、他方、宗教の世界では、改革者たちは何のための結婚なのかを再定義していく。 そこでの議論は、(1)信仰心の向上、(2)精神的交わり、(3)生殖、(4)性愛発散の安全水路化が結婚の目的であり、目的の重要さは(1)から(4)の順だという。この4つをあえて2つに分類すれば、(1)と(2)は結婚が個人にもたらす効用であり、個人が結婚に期待すべき機能である。この二つの個人的機能にたいして、(3)と(4)は結婚という制度が社会の維持・発展のために力を貸している機能である。

友婚愛

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ページの構成

登場人物の説明を介して小説のあらすじを示す。その後に、求愛場面の原文と訳をつけた。訳には、見出しをつけて、求愛とそれに対する反応がどのように進んでいるのかわかるようにした。

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