丸山圭三郎『ソシュールを読む』Part01
1. ソシュール思想の現代性
1.1. アメリカ構造主義
アトミズム:アプリオリに個々の実体があって、それらの総和が全体をつくる要素主義。7
行動主義:語るとは、外部的なある刺激に対する反応。8
1.2. エピステモロジーから<文化のフェティシズム>
エピステモロジー:諸科学の論理的起源・価値・射程を探る批判的学問。11
文化のフェティシズム:「実践的惰性態」「制度化された言葉」「ドクサ=権力」「シミュラークル」などと呼ばれる人為の制度が作り出した疑似自然の正体のことで、共同幻想としての文化のこと。14
1.3. <読む>行為
表現と内容は分離できない。あらかじめ存在する内容を何らかの手段で表現するのではない。<表現=内容>一体観は、ひとつのアプリオリに実体があってそれをコピーrepresentする反映論の否定。25
われわれが読むということは、読み手が対象から意味を受け取ると同時に、対象に意味を付与する相互行為に他ならない。26
「テキストの舞台には、観客との間の柵がない。テキストの後ろに、能動的な者(作者)がいるわけでもなければ、テキストの前に、受動的な者(読者)がいるわけでもない。」(ロラン・バルト『テキストの快楽』仏文29)275
1.4. Meningメニング(purport)→単位の非実在性
「心理的にいうと、われわれの思想は、語によるその表現を無視するとき、無定形の不分明なかたまりにすぎない。....思想は、それだけとってみると、星雲のようなものであって、そのなかでは必然的に区切られているものはひとつもない。予定観念などというものはなく、言語があらわれないうちは、なに一つ分明なものはない」39
<記号>による分節以前の実質substanceである意味のマグマに、言語活動が働きかけ、それを不連続化(差異化)させることによって、はじめて表現=内容というひとつの単位が生まれる。40・42; 93; 132
【鈴繁:「さまざまな事物がそれぞれ「本質」によって規定された存在者として生起してくる世界、「ちょう」の領域である。「ちょう」とは明確な輪郭線で区切られた、はっきり目に見える形に分節された「存在」のあり方を意味する。{「ちょう」激のサンズイを徴の左のヘンを入れた漢字}[井筒俊彦『言葉と本質』(岩波書店,1983年)13]】
↓
この関係世界では、個が発生することは絶対にありえない。
なぜなら、どのように連続体を区切ったとしても、同時に二つのものを生み、対立を誕生させることになるから。132
【鈴繁:とするなら、あらゆる物は対立関係を生み出すことになる。対立があって、自他との区別が生まれる、これこそ、個の誕生ではないか。また、この対立の発生こそ、バタイユがエロティシズムのなかでいう、日常の人間が無意識の底からこみあげてきて感じる不連続性であり、連続性を求めるあまり人間が行う蕩尽という合理的生産-消費の循環を無視した行動に走る原因ではないか。つまり、ここで丸山が理由としてあげていることは、連続体を割ることから生まれてくる割られたものを、それぞれひとつの実質をともなった一個の実体として見てしまうという、西洋における存在論の根本概念を支持することになってしまう。「個が発生することは絶対にありえない」という無我の思想は、言語活動とその活動によってもたらされる差異化を、<色>という幻想(インド哲学用語)の見え方として、とらわれてはならないものとする。】
1.5. 水面(波)の比喩
「1831二つの無定形な塊のたとえとして、水と空気を考えてみよう。気圧が変われば、水の表面を一連の単位へと分解される。これが波である。これは空気と水の中間に介在する連鎖であって実質を形成しはしない。」43
1.6. 認識=命名
「物質的な音に対置しえるもののうちに、観念があることは、根底から否定せねばならない。物質音に対置しえるものは、<音=観念>である。」45
感覚・運動的知能から思考的知能へと移行していく象徴過程で、知覚・感覚は刻一刻と密になる認識の編みの目によって再編成を強いられる。46-47
1.7. 即自的価値の否定
「いかなる価値といえも個的存在ではありえず、<記号>は集団[体系]の容認によってしか即自的な価値をもつにいたらない。」54
事物はそれ自身が有するかに見える客観的価値・有用性・使用価値をもたない。
一定の文化体系のなかだけで機能する交換価値・象徴価値と同じ本質をもった関係的存在である。56
[鈴繁:「いかなる価値といえも個的存在ではありえず」という意味は、デカルト以来の個物としての人間という実存の考え方の否定してしまう。]
2. 言語学批判
2.1. 同一性と差異
「音の等質性とは、その持続が八分音符だとか十六分音符のものであるかなどということには依存しない。大切なのは、その音が持続するあいだじゅう、聴覚印象が同一であるかどうかを知ることである。」69
「音素を分類するにあたって、音素が何からできているかを知ることよりも、音素が互いに何において異なっているかを知るほうが問題である。」69
「音素は、...対立的、関係的、そして否定的な本質体である。」72
関係的存在:「でない」という否定要素によってしか定義できない。
→関係的同一性と実体的同一性の区別
2.2. 関与的変化
2.2.1. 音声変化
音声変化は、実体的な差異にすぎず、関与的[関係的差異]であったりなかったりする。
言語がたとえ音声という実質substanceに支えられていても、言語の本質は形相という[が作り出す]関係の網であるから。85、146
2.2.2. 類推による形態変化
音声変化が無意識的なものであるのに対して、類推による形態創造過程には、事項同士を結ぶ関係に主体の意識が介入する。87
2.3. ラングとパロール
「ディスクールの要請によって口にされるすべてのもの、また個別操作によって表現されるものもすべて、パロールである。[これにたいして、]個人の頭脳にふくまれるすべて、耳に入り自らの実践した形態とその意味の寄託、これがラングである。」88
ラング vs. パロール:
形相と実質、コードとメッセージ、本質と現象、社会的事実と個人的事実
社会的事実としては、構成された状態(ラング)と構成する動き(パロール)
個人的事実としては、個人の記憶の中に<記号>の体系(ラング)が作られており、実践を通して社会関係を樹立(パロール)する。89
3. 記号学とは何か
3.1. 記号学sémiologie
人間が、自ら生きる世界を恣意的(非自然的)記号によって分節し客体化するために、本当に<生きられる世界>が隠蔽されている状況を、言葉の本質に光を当てて解明し、乗り越えの方向を探ろうとする。105
3.2. ランガージュ・ラング・パロール
「SM50(160) ラングとは、ランガージュ能力の行使を個人に可能にすべく社会が採りいれた必要な契約の総体である。パロールとは、ラングという社会契約によってみずからの能力を実現する個人の行為ということである。」112
3.2.1. ランガージュ:
人間特有のシンボル化能力として捉え、概念思考の可能にし、「予見と計画にもとづいて現実を変化させる手段」(ゲーレン)として文化の根底である。
自然に対置された人間文化一般【→丸山『ソシュールの思想』80】
3.2.2. ラング:
1. ランガージュが特定の社会の中で制度化した構造。
2.社会との関係において歴史的・地理的に多様化している個別文化(→丸山『ソシュールの思想』80)
3. 一つの価値体系であり、その価値は一切の自然的・絶対的特性による規定を逃れる純粋な関係の網の対立から生じる。(→丸山『ソシュールの思想』90)
音韻レベルでは音素がラング、その顕現化としての物理音はパロール。
4. -émique(本質的関係の網)(→丸山『ソシュールの思想』91)
3.2.3. パロール:
1. ラングの条件下で個人が行う発話行為。114
2. -étique(現象的顕現、物理的材質)
3.3. 契約の総体
ホイットニ(Whitney)ーの言語契約説のこと。(→丸山『ソシュールの思想』81)
図 ランガージュ・ラング・パロール
3.4. <記号>の性質
「文字法においても、我々はラングと同じような記号の体系のなかにいる。....
(1)<記号>の恣意的性格(記号とそれが指示する事物の間には関係がない)。
(2)<記号>の純粋に否定的で示唆的な価値(記号はその価値を差異のみに求める)。
(3)文字法の価値は、一定の体系で対立関係におかれた大きさでしかない。....
我々は、以上の性格をすべてラングのなかにも見出す。」120
(1)について
文字法の場合には、<記号>が文字、<指向対象>が発音で、両者の間には自然的絆がない。ラングの場合(リンゴを考えてみると)には、<記号表現>appleとmalumが同じ<指向対象>をもつことがあっても、appleとmalumの語の価値は異なり、それにともない<記号内容>も異なっている。122
さらに、分節そのもの非自然性、価値の非実体性をさしている。125
(2)について:
すべては、その系列の中の他の形態との対立によってのみ決定される。ときには、「実体ゼロ」ですらが、体系内の「何か」と対立する限りにおいて、ひとつの意味をになう。126
【鈴繁:ここでいう形態は、ソシュール自身が実体がないと否定している「文法学者の言う単位」(91ページ)であり、関係概念だといいながら、その分節の仕方にそのままのって、下位の概念に降りていっている。関係概念が、上位と下位の階層構造で、しかも上位が下位を規定するという入れ箱式の仕組みになっているので、どうしても関係概念であった上位の構造が実体概念に横滑りを起こしてしまう。】
3.5. 言葉の力
「記号を社会的に考察するとき、記号をまず自分たちの意志に依存するかのように見えるものだけに限って取り上げたくなる。...だからこそ、言語を契約とか協定のようなものとして述べることになる。記号を研究するにあたってもっとも興味深いのは、それが我々の意志を逃れる側面である。そこにこそ記号の真の力が見出される。」130
[鈴繁:
(1)<現在>は捉えられない
ここには時間が流れているという動的な考え方が、ひどく貧弱である。
<現在>に生きることができるのだろうか。
<現在>をつかめないなら、自己をつかむことができるのだろうか。
人間が社会の中で生きるということは、言葉(観念)にからめとられていること。
ならば、その言葉と外部世界との関係はどうなっているのだろうか。
外部世界を客観的に言い表すことは可能なのだろうか。
(2)パロールの<活動>という側面。
通時性の排除
(3)言葉の力、無意識の欲動、そしてシンボルの起源
言葉の力は、ソシュール以前には、霊的な意味合いがあった。それは、神によって授与されたものであり、言葉とものとは密接に意図的に結びつけられていた。もし、そうでないなら神の創造は、まったくでたらめな混沌とした行為に堕してしまう。
ところが、ソシュールは、言葉の力の所在を、ラングを<乗り越える>その能産性に見出す。言葉を操るのは、人間だから、人間の創造力を格上げしたことになる。
しかし、フッサールは、超越的主観と間主観性という人間認識の手続きを導入した。人間の創造力は、間主観性という<意識の向こう側からねじ伏せるようにやってくる力>とのバランスの上に成り立ち、間主観性を変数として自らも変貌していく関係にある。創造力が矮小化される。言葉の力も、外部から訪れる脅威のような意味合いをもってくる。
(4)フッサールの言語起源
ソシュール以降の言語観に共通しているのは、言葉は差異の体系であり、対象物は言葉の差異が世界に反映したものにすぎないということである。フッサールは、言葉が生まれ出る源泉を、言語起源というかたちで歴史を太古までさかのぼらせることはしなかった。超越的主観と間主観性という人間の意識のあり方に言葉の起源を求めて、いわば形而上学的に説明した。ソシュールのようにラングもパロールも共時という軸によって抽象化して、起源問題を不問にしなかった。フッサールは、共時的態度を保ちつつ、起源の問題に踏みこんでいった。フッサールは、ソシュールを一歩進めたといってよい。
しかし、ソシュール―フッサールという線は、構造主義やポスト構造主義で考えられている<無意識の欲動>が射程に入っていない。
ここに、構造主義やポスト構造主義を援用して、ソシュール―フッサールの図式をさらに進化させていく鍵がある。
(5)言語名称説の起源
旧約聖書
1章
初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。
「光あれ。」
神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
2章 天地万物は完成された。主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。
主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。]
3.6. 単位の非実在性→ Meningメニング(purport)
「(1750)コトバは根底的に、対立に基盤をおく体系という特性をもつ。ラングはいくつかのの対立の中に存在し、その他の基体を有さない。」丸山『ソシュールの思想』
にもかかわらず、実質としての単位はどこにも与えられていない。
「(3295a)人間が樹立する事物間の絆は、事物に先立って存在し、事物を決定する働きをなす。他の場所[物理的・生物学的所与]においては事物すなわち、与えられた対象が存在し、ついでそれをさまざまな視点から観察することができる。此処[文化の世界]においては、それが正しいにせよ誤っているにせよ、まず在るものは視点だけであって、人間はこの視点によって二次的に事物を創造する。....いかなる事物も対象も、一瞬たりとも即自的には与えられていない。」138丸山『ソシュールの思想』
そして皮肉なことに、
「(3295)コトバの中に自然に与えられている事物を見る幻想の根は深い。」丸山『ソシュールの思想』
3.7. 同一性(実体的同一性と関係的同一性)
3.7.1. 個的・実体的同一性:
感覚・運動能力を用いて、本能的に自然の中に実体の同一性を見出す。
例 同じ単語を発音する
「SM60(1772)ここで問題となる同一性というのは、私が十二時五十分発と五時発のナポリ行急行列車の同一性を語る場合と同じ同一性である。(1784)またそれは、二回発音された『諸君!』という語の同一性でもある。一見、矛盾しているように思われるであろう、何故なら音的素材は異なっているのだから! (私はその度毎に素材を新しくしたに違いないのである。)したがって、今問題にしている同一性は、普通一般に考えられている同一性ではない。」139
「SM60(1774)ある街路を復旧しても、これは同じ街路である! この同一性は言語の同一性と同じ種類のものなのだ。街路の例では、この街路という単位は何かと問うことができよう。のちに見るように、街路という単位は純粋に〔否定的%ネガティヴ%〕もしくは対立的なものである。(……)(1787)そしてこの同一性の問題は、結局のところ、言語の〔実在%レアリテ%〕の問題であることがわかる。」139-140
3.7.2. 構造的・関係的同一性:
悟性によって、人間の文化に関係の同一性を見出す。140
例 同じ単語を発音する →これを、歴史の中(通時的)において考えてみる。159‐162
3.7.3. 同一性
「SM119(1785)ある演説家が...15回も20回も戦争という語を繰り返す場合も、我々はそれが同じ語だという。...次に、Son violon a le même son「彼のヴァイオリンは同じ音を出す」という場合がありうる。最初の例では、[繰り返された]音の同一性にもっぱら目をむけていたが、今度の例では二回繰り返された聴覚切片であるsonを同一と見ないことになる。(...)この種の同一性は、主観的な定義不能の要素を含んでいる。どこに同一性を見るかという視点は、常に微妙で固定しがたい。」212
【鈴繁:これは、フレーゲFregeなら、第一例は、戦争はthe expressors or designators (which are numerical modes[formal, qualitative])で、戦争という言葉によって指されているものは、the designated (what expresses itself in the proposition)。しかし、発話ごとにそのthe sense (what is expressed in the proposition [A statement in which the subject is affirmed or denied by the predicate.])は異なっている。】
「SM119(1769)言語のメカニズムのすべては、同一性と差異の周囲をめぐっている。ここでは単位とは何かという問題提起と、同一性とは何かという問題提起とは同じことであるという点だけを注意しておこう。」(213)
3.8. 語の価値と意義
「SM63 価値は意義ではない。価値は、意義に加えて、他の諸概念との関係、チェスのコマの相互的位置のような関係によって与えられる。」145
語の<価値>valeurは、体系内の他の事項との相互的位置と対立関係から生まれる差異で、一種の潜性である。147
<意義>significationは、文のなかにおかれてはじめて生まれ、これは実現可能態としての価値の、何分の一かにあたる「実現されたもの」にすぎない。148
↓
価値も意義もラングのレベルに属し、パロールには、意味が属している。
文脈によって生み出される有限数の<意義>が、発話の具体的なコンテキストにおかれて、無限数の<意味>sensを生じさせる。149
【鈴繁:関係概念と入れ箱構造ということを考えるなら、上位概念が下位概念として顕現すると考えるべきで、意義が具現・化肉化すると考えたほうが、ランガージュがラングに化肉化するという構造間の関係概念をそのまま投射できてすっきりする。しかも、「有限数の意義」などということがそもそもいえるのだろうか。パロールの「意味」が無限であるように、意義も無限であるはず。】
3.9. 特定共時態と通時態
「SM64 定義 通時的次元とは諸価値の変動のことであり、それは表意単位の変動いうことにほかならない。
定義 共時的次元とは、刻々と樹立する形であらわれた、諸価値の特定の均衡のことである。」150
「SM72 ある事象がどの程度に存在するかということを知るために、それがどの程度語る主体の意識に上っているか、それがどの程度に意味を有するかということを探求すべきである。」153
FIG 特定共時態と通時態(<構造>と<歴史>の<動きのゲシュタルト>)
丸山の図式(p.151)は、左の項(A)が種(生物)としての人間が世界に関わる関わり方、右項(B)がコトバをもつ人間ゆえに他の生物とは違った人間の独特の世界に対する関わり方。(A)は常識的な言語観に近く、(B)はソシュールのユニークなアプローチ法といってもよい。
[鈴繁:<痛み>というのは、(A)のゾーンにあるから、だからそれがどんなに現実味をもっても幻想とはいえず生物としての人間に当然つきまとうものだという考え方になっていく。]
[鈴繁:(A)と(B)が絡み合いながら、<現象が発生>している。その意味で、全体は<動きのゲシュタルト>になっている。]
3.10. 実質substanceの二つの意味(Hjelmslev’s Substance and Mening)
実質1:Substance152
既成の<形相>という関係を支えるものとして、関係を物質化し感覚与件化する素材。言語がたとえ音声という実質substanceに支えられていても、言語の本質は形相という[が作り出す]関係の網であるから。85、146
実質2:Mening
<記号>による分節以前の実質substanceである意味のマグマに、言語活動が働きかけ、それを不連続化(差異化)させることによって、はじめて表現=内容というひとつの単位が生まれる。40・42; 93; 132
3.11. 歴史に法則性はない(× 目的論的歴史観)
「言語は事象から構成されていて法則から成っているのではないこと、コトバにおいて有機的に見えるものはすべて、実は偶然であり、完全に偶発的であるという事実が分かってくる。」164
3.12. 連辞関係と連合関係
(1)「SM74 (1904)言語のある状態に見出されるすべてのものは、何から構成されているか。....それは差異の戯れなのであって、これも語が恣意的に選ばれていることに由来する。.....(2059)すべては差異に帰着し、すべては群化に帰着する。」167
伝統的言語区分(形態・統辞・語彙)は、ダメ
唯一の方法上の区分は、
連合関係(潜在的・同時的意識の次元)と連辞関係(顕在的・線上空間の次元)。168
(2) 「SM75 (1998)一方に、記憶の仕切り箱にあたる内的宝庫がある。(....)第二の場において活動しえるすべてがそろえられているのは、この宝庫内である。そして第二のものは、言述discoursであり、パロールの連鎖である。語の存在の場であるそのいずれかに身を置くことによって、我々は語群と関わりをもつが、この二つはまったく性質を異にした語群なのだ。」168
「SM34 (2573)創造的活動は結合活動にほかならず、新たなる結合の創出である。」169
「語をただ並べただけでは、それが喚起する諸観念がいかに豊かであろうとも、ある一人の人間個人に対して他の人間個人がそれを口にして、彼に何事かを意味しようとすることはないだろう。....言述discoursとは...言語形態をまっとて存在している二つの概念の間にひとつの絆を確立することである。これに対して言語ラングの方は、あらかじめ孤立した諸概念を実現するだけである。」170
(1)構造内の差異(連合関係)と、構造内差異を用いる差異化活動(連辞関係)という二面がある。
(2)連合関係と連辞関係が作り出す<関係>
<関係>の生成過程
①群化の結果、沈殿した差異が意識の底にある記憶倉庫に蓄積されて、連合関係の場を作る。
②語るときには、記憶倉庫から既存の差異を引き出して連辞関係の場を作る。
[鈴繁:この順番は、むしろ同時的と考えるべき。また、連辞も連合も言説discoursという、丸山理論に入ってこない文化2ともいうべきものを、ソシュールは考えていたのではないか。]
既成の語を用いながら、これまで存在しなかった新しい関係を生み出すこともできる。
[鈴繁:ソシュールは、この新しい関係が言述discoursから生まれ、わたしたちが言説discoursとよんでいるものを言語体系langueと考えているよう。]
連合関係(潜在的・同時的意識の次元)と連辞関係(顕在的・線上空間の次元)