丸山圭三郎『ソシュールの思想』
1.1. ソシュール理解への誤解54‐55
『一般言語学講義』から出発し、ゴデルの『原資料』をみないために起こる誤解。
ソシュールの恣意性は、デモクリトス的相対主義理論に過ぎない。
ソシュールは意味論をほとんど扱わず、扱ったにせよ、プレアル的pre-realな「意味の歴史的変化」であった。
1.2. ソシュール理論とその基本概念
1.2.1. 反・ポール・ロワイヤル文法
ポール・ロワイヤル文法:コトバを人間の理性の具現、思考体系の反映として捉える一般理性文法。
人間は「事物を認識するだけでなく、事物を正しく判断する」理性的な動物である。
コトバはこの内在的観念体系をあらわす外的標識である。
そのため、諸国語の顕在現象がどんなにまちまちであっても、
その潜在図式である理性的世界表象に還元すれば、そこに見出される普遍的思考構造は同一である。76
1.2.2. タクシノミー否定
「与えられたデータを分析し、諸要素をそれぞれの形態や分布を基準にして一定の集合に分類することによって、全体の構造を示そうとする図式化」(ロラン・バルト『エッセ・クリティック』293)91、289
1.2.3. 個物主義否定と語る主体
タクシノミーの背後にある個物主義を否定している。
ソシュールが《具体的なもの》と呼んだのは、語る主体に感じられるもののことであり、これが唯一の表意的事実・言語現実であって、触知可能な物理的・客観的事象を《具体的なもの》と考えていたのではない。
「(2195)言語において具体的なものは、語る主体の意識に在るものすべてのことである。」114
→実質とは何を指しているのか
1.2.4. 単位の非実在性93
「(1750)コトバは根底的に、対立に基盤をおく体系という特性をもつ。ラングはいくつかのの対立の中に存在し、その他の基体を有さない。」丸山『ソシュールの思想』
にもかかわらず、実質としての単位はどこにも与えられていない。
1.2.5. 言語名称目録観の否定
「(3299)事物の名称目録という考え方によれば、まず事物が在って、それからということになる。したがって、これは我々がつね否定することであるが、に与えられる外的基盤が在ることになり、コトバは次のような関係によって表わされるだろう。
ところが、真の図式はa—b—cなのであって、これは事物に基づく*――aといったような実際の関係のすべての認識の外に在るのだ。」
コトバは、記号と呼ばれていても、
他の一切の記号とは異なって、自らの外にアプリオリに存在する意味を指し示すものではなく、
表現と意味とを同時に備えた二重存在である。120
「次のようなものは存在しないのだ。
他の諸観念に対して、あらかじめ出来上がっていて、まったく別物であるような観念。
このような観念に対応する。
そうではなくて、言語記号が登場する以前の思考には、何一つとして明瞭に識別されるものはない。これが重要な点である。」120‐21
ソシュールの考え方には、純粋観念は存在しない。
「(3315)語る主体は、みずからが発声するアポセーム(コトバの抽象的表現面)も意識しないし、他方、純粋観念も意識しない。主体が意識しているのは、セーム(体系内の辞項であり、表現と意味が一体化した記号)だけである。」121
1.3. 差異
[鈴繁:ドゥルーズの差異概念の萌芽]
「(1939)差異というと、我々は差異がその間に樹立されるな辞項を想起しがちである。しかし、言語のなかにはな辞項をもたない差異しかない、という逆説である。」97
1.3.1. 差異=現象
すべては、これらの差異【鈴繁:←これは差異現象で複数形でいえるのか?】を対立化する語る主体の活動と意識から生まれる。97
この対立化現象が真のであって、
「(1968)言語学において、現象と単位との間には違いは認められない。すべての現象は関係の間の関係である。あるいは、差異について述べよう。すべては、対立として用いられた差異にすぎず、対立が価値を生み出す。」97
foot/feetの対立を考えると、feetが複数となるのは、footとの対立現象以外のなにものでもなく、feetに内在するどんな特質とも無関係である。97
[鈴繁:これは、まさにこうしてある一つの対立項を実体化することによって、あたかも一本の足と複数の足というものがあるかのような錯覚を与えしまう。関係の間の関係というのは、存在の一義性という意味での関わり方が類比的に同じという《関係》があり、《関係》の鏡像のように寄り添っているもう一つの<関係>があるという二相のあり方をいっているのではないか。<関係>においては、丸山のfoot/feetの説明は正しいが、それでは《関係》を切り捨ててしまうことになりかねない。]
1.3.2. 連辞と連合はラング
連辞は、諸要素の連辞結合規則であり、回帰的規則recursive ruleや結合値valence(テニエール)のことである。
1.3.3. 形相と形式
「形式と内容」という対立ではなく、実質にたいする形相である。150
実質は、実体的同一性の視点から見たコトバのあり方、
形相は、関係的同一性から見る。
形相の視点は、語る主体の意識がさまざまな実質上の差異の束[犬、大、太の点の位置、これらの漢字を書きあらわす道具の種類など]を対立として意識する視点である。
対立化という現象が価値[点の位置]を生み出す。
形相は事物の存在に先立って樹立される関係の網である。285
画家ブラック「私は事物の存在を信じない。信ずるものは事物間の関係である。」
ヴァレリー「私は事物ではなく、事物間の関係という形象を見、あるいは見ようと望んでいた。....事物の前に立ち止まる人々は私にとっては偶像崇拝者にすぎなかった。本質的なのは形象だということを私は知っていた。それは一種の神秘主義であった。なぜならば、それは目に感じられる世界を、精神に感じられる世界に従属させることであった。」286
1.3.4. ゼロ記号
ラングと他の事象との間の大きな相違は、
「ひとつには、<記号>が実体を持たないゼロとなりえること、第二には、それ自体はゼロである辞項に自らの関係づける我々の精神の能力」にある。135
実質においてゼロであっても、形相において意味を担うゼロと、意味を担わないゼロとがある。135、165
e.g. 関係代名詞の省略
実質
<記号表現>や<記号内容>という形相によってすでに切り取られた実質でもあり、また言語以前に存在する連続体としての心理的現実と音声的現実という両義性をもっている。138
人間はモノに働きかけて、コト化する。140
1.3.5. 実質 vs. 活動
コトバの中には差異しかないが、意味が生まれるのは、その差異と差異とのモザイクから生まれる。142
実質の対置概念は、<関係>であると同時に、結果として関係の網の目を作り出す<関係づくりの活動>でもある。142
1.3.6. 言語はすべてに先行する
「文法の根底を理解するためには、我々の精神において起こることを知る必要がある。」(『ポール・ロワイヤル文法』第二部第一章)のではなく、「我々の精神において起こることを知ることができるのは、言語表現によるのみ」なのだ。149
1.3.7. 二つのゲンシュタルト(自然的必然性と文化的必然性)
言語のもつ必然性は、社会制度のもつ強制力という意味での必然性であり、自然の中に見出される必然性とは別である。151
e.g.ガラスをこする音。その物理音そのものが不快な自然的性質を持っている。
文化的必然性が恣意的必然性であるという認識に立つとき、構造の産物である人間が同時にその構造を乗り越える方向を持つことができる。152-3
恣意性を非自然性と正しく理解することにより、
言語は即自的に定義され限定されるをもっていない
単位とは辞項そのものではなく、辞項と辞項との間の差異の対立化ちうる現象である
とわかる。155
1.3.8. 自然的指標と人工的指標
「全体を部分にわけ、それぞれの部分の価値が他の部分との関係に依存するような分割を<構造化>と呼ぶとすれば、指標indiceとは、ある独特な構造化を指示しつつ、全体集合に関係している。」157
<自然指標>[黒雲が出ると雨が降る、熱が出ると体がだるくなる]が属する構造は、人間が発見する構造である。158
<人工指標>[政治形態、礼儀]が属する構造は、人間が創り出す文化・社会的構造である。158
<人工指標>の一部である言語が、
生きられる世界(カオスのような思考・原体験)と、同じようの混沌とした物質音の連続体とに
同時に働きかけながらこれを切り取り、形相の網を通して価値を生み出していく。
他の<人工指標>や<自然指標>は
すでに切り取られた<>と<>を結びつけるだけである。163
1.3.9. 神話シンボル
ブリコラージュよりもさらにラディカルな、
コトバの線状性自体の破壊と連辞・連合軸の根底からの突き崩しである。169
↓
「(3958)伝説は一連のシンボルで構成されている。」170
1.3.10. アナグラム172
1.4. ラングとパロールの実践
1.4.1. ラングの二側面:①社会制度+②記号学的価値体系269
契約の総体
[鈴繁:ただしソシュールはこのような考え方を否定している。記号を社会的に考察するとき、記号をまず自分たちの意志に依存するかのように見えるものだけに限って取り上げたくなる。...だからこそ、言語を契約とか協定のようなものとして述べることになる。記号を研究するにあたってもっとも興味深いのは、それが我々の意志を逃れる側面である。そこにこそ記号の真の力が見出される。」丸山圭三郎『ソシュールを読む』(岩波書店,1983年)130]
②即自的価値 体系内の他の辞項との共存と対立から生まれる相対的・否定的価値269
1.4.2. ラングの二側面:①社会制度+②記号学的価値体系269
ディスクールを通じて社会関係を樹立し、ラングに働きかけてラングを変革する。274
ラングは、各個人の意識・記憶の中にその辞項・結合値・規則が委託されている。
1.4.3. ラングLGとパロールPをソシュールはどうやって導き出したか。
第一講義:類推的創造を出発点にして、Pを通ってLGにいたる
第二・三講義:言語学の真の対象を決定する困難さ、コトバの二重性→LGとLEの区別の必要性→Lを捉えるために話者の間に起こる事実、ひいては社会的事実を観察する
<構成された構造>277
「(246-7)人は、....ラングを法律制度のように考え、18世紀の哲学者に倣ってこれを我々の意志で自由になるものとみなす。ところが、ラングとは法律よりもはるか以上に人が押しつけられるものであって、創るものではないのだ。」278
<構成された構造>の強制力という視点は、デュルケームの思想と一致している。デュルケームにとって<社会的事実>とは、<集団表象>であり、「個人の外に在る行動・思考・感情様式」であって、「それによって社会的事実が個人に押しつける強制権である。」278
動きのゲシュタルトの(B)部分をさらに二分割して見えてくる二相
共時的視点=記号学2(結果としての状態とその中に含まれる反構造的契機)
汎時的・記号学的視点 =記号学1(ランガージュの基本原理)
1.4.4. 次元2を掘り下げる必要性
1.4.4.1. 方法論的要請
次元1ではタクシノミーによって、つねに仮説の修正を次々を行っていくことになり、永久に全体的構造を把握することができない。289
[鈴繁:これは村上陽一郎がいっている科学の帰納法のやり方ではないか。]
→現象から出発して理論モデルを構築し、このモデルを操作して、非可視の潜在構造を明るみに出す。290
1.4.4.2. 認識論上の要請
ラングの<構成する構造>とパロールの<構成された構造>というその構造にはどのような本質があるかを知るには、次元2が必要。
「ソシュールは、言語研究を通して二つの、根本的に次元が異なる世界を知る。一つは、物理的・生物的所与の世界であり、それはいかに複雑な構成をもっていようとも、単一な性質の次元に属している。なぜなら、そこにもし構造があるとした場合、....その構成単位を決定するものはその単位自身のもつ特性と価値によるからであり、個は独立し充足した個としてな存在だからである。....人間は自然的動物としてこの世界にまずその存在の基盤をおくのである。ところが、記号が要素であり単位であるはずのラングの体系は、まったくこれと違った世界に属している。ここではこの集積が全体をつくるのではない。個は全体があってはじめて存在し、価値を生ずる。」290d
[鈴繁:単一な性質の次元とはその通りだが、単一であるからこそ個は存在しないのだ。]
[鈴繁:ここで丸山は、丸山圭三郎『ソシュールを読む』とは異なって、記号学1を取り上げる。そして全体の論調は記号学1の優位になっている。その理由として、記号学1(=次元2)を用いることによって、タクシノミーを否定できるという方法論上の利点を挙げる。また、もう一つ、エピステモロジーという観点から、記号学1を追求することによって、人間がコトバをもつ動物としてどうしてもになわざるをえない二つの世界、動物としての世界像と文化を創り出す世界像との違いが見えてくるという。これを指向対象とのからみでいうなら、ニュートンの法則のようにそこに在ると発見するものと、コトバによってそこにあるとするものとはレベルが違うという考え方である。ただし、この発見して見えてくる<在る>とコトバによって見えてくる<ある>とは、後者がいわば仮想の現象であり、コトバしだいでどのようにも読みとれるものであるのに対して、前者は普遍の真理としてあるものではない。人間がこれまで発見してきたもので文字どおり絶対に不変の法則というものがないことは、その根拠づけがまず帰納法におっているという点から、究極の真理とは必ずしも言い切れないことは、銘記しておくべきであろう。
もう一つの区別仕方は、普通名詞としての対象物と指示名詞としての対象物は、前者が文化次元で生まれてくるものであるとするなら、後者は生物次元で見えてくるものである。ただし、指示名詞として指さされた個物は、それがコトバのフィルターを介しているがゆえに、<ものそれ自体>が白紙の空間のなかに浮かんでいるのではない。
ここで問題は、では生物次元として見えてくるコトは、それを指示する単語をまったく恣意的に結びついているのかどうかということである。
コトバのあり方が恣意的であることはわかる。しかし文化のゲシュタルトにおいてコトバが恣意的であるというだけで、生物のゲシュタルトにおいてはコトバが恣意的であるかどうかはそれはわからない。しかも、丸山はかず多くのソシュールの卓見を我々の前に抉り出し、その手さばきは鋭利なメスを握って問題の患部をつぎつぎと丁寧に解剖し開陳していく。しかし、そのメスがほとんど届かず、見落としているとしかいいようがないソシュールの功績のひとつは、言語記号学を打ち立てることによって、実は言語起源論を不問にしていることである。記号学はすでにいつもここにあるコトバを問題にし、そのコトバは、あくまでアプリオリに人間がもっていると考えられている。(ただし、丸山はソシュールの二つの次元の区分をさらに徹底化し推し進め、人間が動物からヒト化するとき、精確には人間がコトバをしゃべるようになってヒト化されたある時点を想定している。)
いずれにせよ、言語は自然に生まれてきたものであり、自然に生まれたからだから言葉は自然とは無関係と考えるのか、それとも関係があると考えるのかが問題になってくる。所与のものとしてあるものの起源を問わないことによって、この二者択一を不問にし、自然のレベルの言語問題を扱わず、文化社会における言語を射程に入れて考えるのである。
これは、一種の理神論だし、自然なるものとの接点を保持している身体性を軽視した議論になってしまう。
だからこそ、古代ギリシア哲学ではコトバは、「自然に生まれる」(ψυσει)ゆえに自然との何らかの結びつきが在るはずだと考えたのである。その結びつきは、聖書の言語神受説においても、事情は変わらない。[これと対照をなすのが、「契約によって」(θεσει)によってである。この対立は、文化のゲシュタルトからみたコトバを扱うか、種のゲシュタルトとして考えたときの言葉を扱うかという視点の違いから生まれたものと考えるとわかりやすい。種のゲシュタルトのコトバは、自然に生まれた言語であり、文化ゲシュタルトは契約による言語である。ソシュールは、言語は契約であるというホイットニーの思想にある程度まで同感の意を示しながら、最終的には契約と言い切ってしまうことにためらいを示している。ソシュールは、ユグノーの家系で生まれ、また教育を受けているので、契約思想を簡単には捨て去ることはできなかったのだろう。
俗流の言語目録説は、丸山の指摘する通り、事物があらかじめ分節されていて、それに符号をつけるかのように名前が付けられているという考え方である。しかし、プラトンにしてもアリストテレスにおいても、言語が生物であるかのような有機体としてとらえ、そこにはちょうど人間に心が在るように霊性が授けられていると考えられているのである。この霊性を物神と誤解して、化体視することこそ偶像崇拝として排除されたのである。
言葉と物が普遍的に結びついているかどうか、それを不問にしてしまう結果、言葉は言葉という事項間の差異が織りなす戯れと、言葉が担っている音声・音声イメージ・概念が恣意的に結びつくことでできあがる意義を持った仮想的な実体として矮小化されてしまう。それは人間がコードを恣意的に変えることはできないが、コードに身を寄せて順応しつつコード破りを恣意的に行う場となってしまう。身体性によって触知されるような世界は、コトバというロゴスによって漸近できると信じられてしまうのだ。
そもそも、人間が生活し現実と思いこんでいる時空間には、けっして言葉や論理の秩序に収まりきらない領域がどこかに潜んでいるのではないだろうか。そして、人間はその秩序からはみ出たものを秩序の中にコトバによって撮りこむことによって、秩序の活性化とパラダイムの転換を成し遂げてきた。言い換えれば、人間には本質的に言葉による秩序からはみ出していくような構えをもっていると言ってよいだろう。それを<乗り越え>として言い表されることは、なんら異議申し立てはない。むしろ我々はソシュールの逆立の戦略を採用して、
人間がつむぎだしながらも惰性態として一個の完成体のように成り立っている文化・社会は、その底にコトバに還元されえない宇宙的力があることによって、はじめて可能になっていると考えてはどうだろう。秩序を支えつつ創造的でありうるコトバにすらも還元されえず、しかも還元されないがゆえにコトバの秩序を可能にしているこの領域は、身体によって捉えられるのではないだろうか。
人間はコトバの世界のなかで存在・非在/意味・無意味/生・死といった二項対立の秩序のなかで生きているが、人間の<身体>には、この言葉による秩序が成立する以前の「意味の形成性が立ち起こるとするまさにその瞬間の運動性」のイメージがそのまま残されている。
●スケーリング(測定尺度変更)
人間は、自分の尺度で自然の無限な複雑を抽象することによって成立している。自然の多様性を<知>によって切り取り秩序化してしまうのは、「あるがままの現実」を見ることを拒み、目的論的にものを見ようとする、人間の<知性>の不完全さのせいだ。
●弱点
世界を捉えるときの起源的前提(はじめに自然が存在する)が、じつは不可能なものだという考え方をデリダは示している。同じく、カントも『純粋理性批判』のアンチノミー論で、これを論証している。また、逆にデカルトは、はじめに<我あり>という前提から出発したが、
もちろん自分から出発するにせよ、自分に捉えきれない世界(<物自体>)を起点とするにせよ、身体性によって感じ取られる世界の真実性は、コトバによっては確かめることができない。確かめることができるにしても、それはラングという社会制度にこちらが身体を摺り寄せていくやり方によってでは不十分で、仮にコトバを使うにしても、それは日常の意思疎通という機能を徹底して剥ぎ取り、身体性によってつかむことができた実体世界を確認し合うだけに終わってしまう。195[—é”É1]
普遍と個物というシンボルの枠が、記号学では被造物世界だけが想定され、そのなかであらゆるものが一般性と個物という関係に収斂させられ、それも実体は仮想にすぎない一般性にすりかえられている。このすりかえによって、それこそそれまで「一枚の紙の裏と表のように切り離すことのできない」普遍と個物との垂直のつながりが断たれてしまい、せっかく身体性によって触知されていた普遍と個物の間にみなぎっていた往還力が干からびてしまう。
ランガージュはシンボル化能力だとソシュールははっきりと定義づけているが、そこにはこのような往還力はまったく視野に入ってもいなければ、視野に入りうる余地は切り捨てられている。
ソシュールの晩年は、アナグラムと神話・伝説研究についやされているが、ここでまさに普遍と個物とをつないでいるシンボルの研究がなされている。]