◆日英語の認知相違◆ 7.《英語認知の基本》 送り手が負う説明責任と関心誘導
英語:
送り手が受け手に必要十分な情報を提供する責任がある。
送り手が受け手に情報を提供することで、受け手の関心を誘導する。
日本語の語りは、このように、モバイルカメラ型で、共同注視枠を次々と作り、場面を変え、そのたびごとに受け手に復元・察しという付随作業を進めるよう求めているわけです。これに対して英語では、こうした受け手側への付随作業をかぎりなく軽くしようとします。
スタジオカメラ型の英語では、(1) どういう舞台で、(2) その舞台の中からどういう場面を切り出すかを決めます。次に、(3)切り出された場面の中のどこにフォーカス(トラジェクター)をあてるのかを確定します。そして(4)最初にフォーカスをあてたその誰・何かが、次にフォーカスをあてる誰・何(ランドマーク)に、どういう作用を及ぼすのかをめぐって発話が進んでいきます(参照 図1, 3)。
こうした(1)から(4)までの流れは日本語を使う私たちにはあまり馴染みがないので、このように説明されても戸惑ってしまいます。この流れがしっかりとつかめるように、絵画の例を用いて説明し直してみます。
図17はレオナルド・ダ・ヴィンチの「受胎告知」(1472-75年頃)です。この絵では、(1)舞台はマリアの家の中庭です。そして私達の目にはこの舞台上の様々なものが目に入ってきます。この舞台には、二人の人物に加えて、中庭の草花、背景の杉の木、石作りの家の礎石、マリアの前にある大理石テーブル、マリアの青色の上着、天使の白い羽などと数限りないものが配置されています。こういう種々雑多なもののなかから、キリスト教徒であるならあまりにも馴染みのあるテーマ (2) 受胎告知という場面を切り出します。そのとき、種々雑多なもののなかからある一部のものが浮かび上がって前景にせり出てきて、他のものは背景に退きます。浮かび上がる一部とは、受胎を告知をする天使とその告知を受けるマリアです。切り出されて見える天使―マリアが前景(プロファイル profile)となり、他の事物は背後に退いて見える背景(地 ground)となります。
受胎したことを告知するのが前景なので、(3)最初にフォーカスとなるのは告知をする天使ガブリエル(トラジェクター)です。天使は、祝福の印である二本の指(人差し指・中指)を立てて、「おめでとう、聖寵満ちるマリアよ」と述べます。(4)その祝福の言葉を聞くのはマリアで、乙女は驚き、思わず左手を開いてしまっています。天使(トラジェクター)がマリア(ランドマーク)に告知したというのが基本になります。そして何を告知したかといえば、(3)マリア(トラジェクター)が(4)神の子イエス(ランドマーク)をみごもり産むというになります。
(1) The angel Gabriel announced to (2) Mary that (1) she would conceive and give birth to (2) a son, Jesus.
(1) トラジェクター (2) ランドマーク
天使ガブリエルは、マリアに、イエスという子を孕み産むと告知した。
これで、舞台(地)→切り出し(プロファイル)→フォーカス(トラジェクター・ランドマーク)という流れがのみこめたのではないでしょうか。
さてこの流れで発話するとき、英語で心がけられているのは、切り出した誰・何(トラジェクター)が、次にフォーカスをあてた誰・何(ランドマーク)にどういう作用を及ぼすのか、送り手は受け手が誤解しないように過不足なく的確に説明するという態度です。この態度は、受け手が復元・察しをする手間がかからないように、送り手が受け手に必要十分な情報を提供する責任を負っているといってもよいでしょう。
ただ過不足なく必要十分にといっても誰が受け手であるかによります。たとえば図18は、何でしょうか。これには次のような説明がついています。
He built a small house, called a coconn, around himself. He stayed inside for more than two weeks. Then he nibbled a hole in the cocoon, pushed his way out and …
虫は、自分をぐるりと包む「さなぎ」という名の小さな家を作ります。その家のなかで2週間以上もじっとしているのです。そしてそれから「さなぎ」をなめて穴を開け、ぐいと体を押して外に出るのですが、…
これは英語絵本の傑作『はらべこあおむし』の終わり近くのページからのものです。受け手である子供は、この英語の語りから、描かれている茶色っぽい扁平のものは家の軒下や木立の中などで見かける「さなぎ」であって、扁平ではなく数センチの細長い立体で、その感触も軽くてややゴツゴツした感じがするものだとわかります。語りはさらに、「さなぎ」は青虫にとっては「家」なのであって、それがなくては生きていかれない大事な場所だということを知らせます。とはいえこの「家」は、読み手である子供の家のように、ずっと住むためのものではなく、わずか2週間あまりしか住まない仮住まいであること、しかも「家」であるならあるはずのドアがないことが伝えます。そして「家」には出口がないので、青虫は自分で「家」の内側から「なめて」、壁を柔らかくして穴を開けます。「なめて」穴があく「家」とは、なんとユニークなというメッセージが伝わってきます。そして青虫は、そもそも自力でこの家から「抜け出る」ことが必要なのだと教えます。こうした情報が受け手に提供されることで、この絵から読み取るべき情報とそうでない情報が受け手の心のなかで弁別されていきます。
と同時に、必要な情報の提供は、受け手の注意・関心の方向を送り手が誘導する手段にもなっています。この語り末尾の「…」は、そもそも青虫が動けるのに動けない場所にわざわざ釘付けになるのはどうしてなのか、2週間も窮屈な生活をした後で「家」から「抜け出」て青虫はどうなるのかという情報をふせる役割を果たしています。意図的に情報をふせることで、受け手の心に疑問を湧かせ、さらに次のページへと進む意欲をかき立てる情報発信の仕方になっています。
ところがこの部分は邦訳では、「さなぎ」という言葉こそ使っていますが、それ以外の情報がかなり削ぎ落とされています。
「まもなく あおむしは、さなぎに なって なんにちも ねむりました、
それから さなぎの かわを ぬいで でてくるのです」(もり ひさし訳, 偕成社, 1966)
削ぎ落とされているのに加えて、訳文では、送り手が受け手に対して「語りかけ」の口調になっています。英文のように青虫を He で言い換えて、自分の今いる地点から突き放して、ページという舞台上にいる人物として提示するのではありません。ましてやその舞台上で青虫が何をしようとしているのかを客観的に描写するわけでもありません。訳の語調からすると、語り手が読み手である幼児を膝に乗せて、幼児と同じ視線で絵を眺めて、絵がかもし出す雰囲気を共に味わっているようなのです。つまり送り手と受け手との間に共同注視枠が作られるようになっていて、その枠の中で送り手と受け手とが一体になるだけではなく、共同注視枠のなかにいる「彼」ではない「あおむし」とも一体になっているのです。
その一体感は語りの内容においても、否応なく増幅するようになっています。原文では「家を建てる」となっている箇所が省略されており、また「なかに滞在する」が「ねむります」と改変させられています。幼児は大人の大工ではないので「家を建てる」ことはできませんが、「ねむる」ことならできるし、「ねむり」は自分の生活の大部分を占める快い時間です。幼児は、あおむしも自分も同じだという一体感を抱くわけです。そして次の文では、「なめる」、「押し出る」という原文の客観的な描写に代えて、「かわをぬぐ」という訳文があてられています。あおむしのすることが、子供が毎日のようにやっている「服を脱ぐ」行為に重ね合わせられています。幼児に寄り添う語調と訳文によって、一体感は維持され増幅されていきます。この一体感の醸成によって、日本語の送り手は、受け手である幼児がこのさなぎについて、自分で作者の思い―「あおむしも、みんなのように寝て大きくなっていくんだ…同じだね!」(ただし訳文から伝わる思い)―を想像し察してくれたらよいなと誘っているかのようです。
以上のように、英語とそれに対する邦訳との対比から、英語では、焦点をあてて際立たせた「誰・何」(トラジェクタ:青虫)が、次に際立たせたい「誰・何」(ランドマーク:さなぎ)にどういう作用を及ぼすかを語ることのうちに、送り手が受け手に必要十分な情報を提供して、受け手の関心を誘導していることが浮かび上がってきます。
以上のことを簡略化してまとめると次のような図表になります。