丸山圭三郎『言葉とはなにか』
1. 言葉と文化
言語を構成する諸要素は、その共存それ自体によって互いに価値を決定しあっている。9
[→差異+否定的価値]
言葉の網の目を投してみる以前は、どこにも境界線が引きようのない連続体なのだ。10
[→メニング]
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外国語学習:
まったく異なった分析やカテゴリー化の新しい視点を獲得すること。16
似ているだけに思い違いをしてしまう例(その例を「偽の友」faux amisという。31)
【鈴繁:→「知る」ことではなく、「学び」である。外国語習得は、自分のそれまで「知る」・言語にはなかったかのような特異点を合成して、別の形態をもった言語を体得する。「学び」とはそれまで自分の知っていたものをまったく崩すような<問題>の世界へと跳躍し没入することである。ドゥルーズ『差異と反復』英語版199】
2. 言葉とは何か
2.1. ホモ・ロクエンス
人間は言葉をもつことによって、そのいっさいの文化的営為が可能になった。44
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いつから言葉を持つのか?48
言語起源論は扱わない(1876年パリ言語学会)。
2.2. 言語観の変遷
言霊思想→神話思考:「言葉と名前はただたんに叙述機能をもつばかりでなく、対象そのものをも、そして対象がもつ力をも、己のうちに含んでいる。」(カッシラー)
【鈴繁:→言葉・文字の創始者は神的存在。いや、そもそも多くの神話では、文字の発見者・考案者はかならず神的存在と相場が決まっている。庖犠(ホウギ)による八卦(ハツカ)、エジプト神聖文字はトト、アッシリアではナブー神、オガム文字ドゥルイド教神官、ユダヤ・キリスト教ではアダム】
2.3. 言語能力・社会制度・個人の言葉
(1)ランガージュlangage ランガージュは人間のもつシンボル化能力とその諸活動(言語、所作、音楽、絵画、彫刻など)のこと。広義のことばにあたる。この能力は生得的ではあっても本能とは異なり、生後一定期間内に社会生活を営まなければ顕現しない。ランガージュは自我をつくる根源であって、そのほかにも時間・空間意識をはじめ想像力、羞恥(シユウチ)心、エロティシズムなどを生み出す。したがって、これは人間を他の動物から弁別する文化のしるしとみなされる。
(2)ラングlangue ランガージュが個別社会において独自の構造となりコード化されたものをラングとよぶ。日本語とかフランス語といった諸言語のことである。これは、個人の行為を規制する条件・規則の総体としての価値体系とみなされよう。
→各言語の固有性は、「言語の精」や各国民の心的特徴では説明できない。「契約」だったのだ。67
「SM50(160) ラングとは、ランガージュ能力の行使を個人に可能にすべく社会が採りいれた必要な契約の総体である。パロールとは、ラングという社会契約によってみずからの能力を実現する個人の行為ということである。」(丸山圭三郎『ソシュールを読む』(岩波書店,1983年)112)
→「契約」だから、「ラングは一つの社会制度なのであって、…他の呼吸とか歩行といった本能とははっきり区別されなくてはなりません。」68
【鈴繁:しかしいったいいつその「契約」をしたのだろうか。もしもこれをたんなる取り決め、暗黙の了解ととるなら、いつのまにか自然に生じた契約となる。自然にできあがったのだから、起源を問う必要もなく、いつ契約したかという問題の設定が間違っていることになる。しかし、そういう契約はむしろ慣習とよぶべきであって、少なくともユダヤ・キリスト教の契約という考え方にはなじまない。
ただし、大木英夫によれば、旧約聖書において契約(ベリース)という語は285回用いられてイスラエル宗教の骨格を形づくっている。「ヘブライ語の〈ベリース berîṯ〉はアッカド語の barû (縛る)の名詞形 birîtu(束縛)と関係があると推測され,元来一定の約束のもとに個人または集団が相互に拘束関係に入ることを意味している。旧約聖書においてはこの語を神とイスラエルの民との宗教的な関係に適用し,モーセが民を代表してシナイ山で神と契約を結び,神がイスラエルの神となり,イスラエルが神の民となるという契約関係が成立した。これを〈シナイ契約〉と呼ぶ。それは神と人間との関係が人格的倫理的であるという性格を確立し,この後イスラエル宗教は人間の側の契約違反の罪とそれに対する審判,そして契約の再建と更新という仕方で展開する。★新約聖書はこの契約を元来〈遺言〉を意味するギリシア語〈ディアテケ diathēkē〉という語でいいあらわしたが,それは旧約の〈ベリース〉の訳語であり旧約の思想を受けついだものである」(コトバンク)。とすると、人格倫理が削ぎ落とされて、集団の拘束状態だけをソシュールは考えていたことになる。】
(3)パロールparole パロールは、個人がラングの規則に従って自らの意思を表白するために行う具体的な言行為をさす。現実には、制度としてのラングの強い規制のもとにあるが、ラングそのものを変革する働きもまた、この実践を通してのみ可能となる。したがって、ラングをコードとみなし、パロールをメッセージと解するのみではなく、両者が相互依存の形をとっていることも忘れてはなるまい。
【鈴繁:ラングとパロールの関係:形相と実質、コードとメッセージ、本質と現象、社会的事実と個人的事実。なぜこういえるのか。両者の関係は、潜在と顕在といえるが、両者はともに構造であって実体ではないから。ラングは<構成する構造>、パロールは<構成された構造>であって、それらは文化次元で確立されているものだから。「ソシュールは、言語研究を通して二つの、根本的に次元が異なる世界を知る。一つは、物理的・生物的所与の世界であり、それはいかに複雑な構成をもっていようとも、単一な性質の次元に属している。なぜなら、そこにもし構造があるとした場合、....その構成単位を決定するものはその単位自身のもつ特性と価値によるからであり、個は独立し充足した個として積極的(ポジティヴ)な存在だからである。....人間は自然的動物としてこの世界にまずその存在の基盤をおくのである。ところが、記号が要素であり単位であるはずのラングの体系は、まったくこれと違った世界に属している。ここではこの集積が全体をつくるのではない。個は全体があってはじめて存在し、価値を生ずる。」丸山『ソシュールの思想』290】
2.4. 言葉の構造
(1)体系système:全体があってはじめて個が存在するもの。73
「(1848)語や辞項から出発して体系を抽き出してはならない。そうすることは、諸事項がまえもって絶対的価値を持ち、体系を得るためには、それらをただ組み立てさえすればよいという考えに立つことになってしまうだろう。その反対に、出発すべきは体系からであり、互いに固く結ばれた全体からである。」95
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①各構成因子間の相互関係 ②全体と個の関係75
そこで①を考えると
(2)形相forme:「言語とは物理的・生理的・心理的事実の集成体ではなく、体系内の各要素間の関係からなる」(ソシュール)とした考えを、イェルムスレウL. Hjelmslevが術語化したもの。〈関係の網〉にあたる概念。アリストテレスの〈形相〉eidos(エイドス)とは異なる。
(3)連辞と連合関係
連合(潜在的・同時的意識の次元、対立関係、構造内の差異)
連辞関係(顕在的・線上空間の次元、対比関係、構造内差異を用いる差異化活動)。76
[→丸山圭三郎『ソシュールを読む』(岩波書店,1983年)168]
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連合関係と連辞関係が作り出す<関係>
群化の結果、沈殿した差異が意識の底にある記憶倉庫に蓄積されて、連合関係の場を作る。
語るときには、記憶倉庫から既存の差異を引き出して連辞関係の場を作る。
→FIG図連辞連合関係
次に、②(全体と個の関係)を考えると
2.5. 言葉の状態と歴史
(1)共時態・通時態 synchronie, diachronie
その対象が一つの価値体系である科学においては、時間軸上の一定の状態(価値の均衡)とその変化(価値の変動)を峻別(シユンベツ)すべきだという考えから生まれた方法論的概念。前者を共時態(静態status)とよび、後者を通時態(動態motus)とよぶ。
現実には、体系は刻々と移り変わるばかりか、複数の体系が重なり合って共存するが、時間の作用をいちおう無視して言語を記述する研究を〈共時言語学〉linguistique synchroniqueという。これに対して、時代の移り変わるさまざまな段階で記述される共時的な断面と断面を比較し、言語体系総体の変化をたどろうとする研究が〈通時言語学〉linguistique diachroniqueである。
→FIG 特定共時態と通時態(<構造>と<歴史>の<動きのゲシュタルト>)
(2)個的現象の変遷
変遷(1) A(x)→A(y) 体系のなかで受け持つ役割が別なものになる
変遷(2) A(x)→B(x) 表面上の変化はあっても、体系のなかで同一の役割をもつ
【鈴繁:ここで、いきなり同一性が出てきてしまう。あるのは差異だけだといっておきながら、あるひとつの単語(個物)を例として引き合いに出し、それが体系全体のなかで同一の機能を果たしているかどうかといった静的な見方をしてしまう。これでは、有機的表象にとらわれてしまう。フレーゲの方が、この点ではさらにずっと潔癖。】
「SM119(1785)ある演説家が...15回も20回も戦争という語を繰り返す場合も、我々はそれが同じ語だという。...次に、Son violon a le mÃme son「彼のヴァイオリンは同じ音を出す」という場合がありうる。最初の例では、[繰り返された]音の同一性にもっぱら目をむけていたが、今度の例では二回繰り返された聴覚切片であるsonを同一と見ないことになる。(...)この種の同一性は、主観的な定義不能の要素を含んでいる。どこに同一性を見るかという視点は、常に微妙で固定しがたい。」丸山圭三郎『ソシュールを読む』(岩波書店,1983年)212
【鈴繁:これは、フレーゲFregeなら、第一例は、戦争はthe expressors or designators(which are numerical modes[formal, qualitative])で、戦争という言葉によって指されているものは、the designated (what expresses itself in the proposition)。しかし、発話ごとにそのthe sense (what is expressed in the proposition[A statement in which the subject is affirmed or denied by the predicate.])は異なっている。】
「SM119(1769)言語のメカニズムのすべては、同一性と差異の周囲をめぐっている。ここでは単位とは何かという問題提起と、同一性とは何かという問題提起とは同じことであるという点だけを注意しておこう。」(213)
2.6. 言葉と物
「言葉に依存しない概念も事物もない」(ソシュール) 94
「事物を作り出すのは視点である」(ソシュール)94
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サピア・ウォールフの仮説:
各言語は一つの世界像であり、それを通して連続体の現実を分析するプリズムであり、独自のゲシュタルトなのだ。96
2.7. 言葉と記号
(1)言語名称説
①五感で感じ取ることのできる個物を実体と考え、②実体には名称があり、名称はコトバであるがゆえに、③個物としての実体と名称との間に必然性がある。
→FIG言語名称目録観の否定
(2)Meningメニング(purport)→単位の非実在性
「1821 心理的にいうと、われわれの思想[鈴繁:人間によって思考されるうるもの]は、語によるその表現を無視するとき、無定形の不分明なかたまりにすぎない。....1823思想[鈴繁:思考されるうるもの]は、それだけとってみると、星雲のようなものであって、そのなかでは必然的に区切られているものはひとつもない。1824予定観念などというものはなく、言語があらわれないうちは、なに一つ分明なものはない」(小林稔訳)丸山圭三郎『ソシュールを読む』(岩波書店,1983年)39
<記号>による分節以前の実質substanceである意味のマグマに、言語活動が働きかけ、それを不連続化(差異化)させることによって、はじめて表現=内容というひとつの単位が生まれる。40・42; 93; 132
【鈴繁:「さまざまな事物がそれぞれ「本質」によって規定された存在者として生起してくる世界、「ちょう」の領域である。「ちょう」とは明確な輪郭線で区切られた、はっきり目に見える形に分節された「存在」のあり方を意味する。{「ちょう」激のサンズイを徴の左のヘンを入れた漢字}[井筒俊彦『言葉と本質』(岩波書店,1983年)13】
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新しい「関係づけられたもの」の誕生
竜・河童などは、言葉の持つ意味であって、言語外の実体を指さして名づけたものではない。
FIG 自然(身分け)・文化(言分け)
(3)シーニュ、シニフィアン、シニフィエ
シーニュ(言語記号) signe:一般には「自らとは別の現象を告知したり指示したりするもの」をシーニュ(記号)とよび、そこには〈図像〉icone、〈指標〉indice、〈徴候〉symptome、〈象徴〉symbôleなども含まれる.
ソシュールにおけるシーニュは、signifiantシニフィアン(記号表現)とsignifiéシニフィエ(記号内容)からなる不可分離な双面体をさす。
〔1〕不可分性:シーニュが、あらかじめ別々に存在する二つの実体を結び合わせてつくられたものではなく、シニフィアンとシニフィエはシーニュの誕生とともに生まれ、互いの存在を前提としてのみ存在すること。
→言語記号は同時に表現であり内容である。
〔2〕形相:シニフィアン、シニフィエともに〈形相〉formeであって〈実質〉substanceではない。
→シニフィエを〈指向対象〉référentと混同したり、シニフィアンを〈物質音〉son matérielと混同してはならない。
→丸山 実質:形相という関係態は、実質に支えられている。自然言語に限っていえば、実質は音的実質と意味的実質の二つに分けられよう。そのいずれも、言語の網(形相)を投影させない限り、どこにくぎりを入れようもない連続体であって、それ自体は体系とは無関係な存在である。音的実質が、人間によって発声・聞き取り可能なすべての物質音であるとすれば、意味的実質は、人間によって体験可能なすべての言語以前的現実である。ことばは形相を通してその両面にくぎりを入れ、一方では物質音を対立関係に置き、他方では生体験を概念化する働きをもつ。
2.8. 言葉の単位
言語記号の最小単位は、意味・音・文字でもなく、第一次分節の結果析出される<記号素>monèmeである。113
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第一次分節:[鈴繁:連辞関係において] 私たちの生の体験を、一連の意味を担った音のイメージに区切ること。記号素111→言語記号の最小単位
第二次分節:[鈴繁:連合関係において] 一時分節化された単位の意味を区別する働きのある音のイメージによって区切ること。音素phonème 114→記号表現の最小単位
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「SM119(1769)言語のメカニズムのすべては、同一性と差異の周囲をめぐっている。ここでは単位とは何かという問題提起と、同一性とは何かという問題提起とは同じことであるという点だけを注意しておこう。」(213)
2.9. 恣意性arbitraire
二つの恣意性を区別する。
(1)第一恣意性
言語記号内部において音のイメージとそれが担う概念との間にいささかも自然かつ論理的な絆(キズナ)がない。
(2)第二恣意性
言語記号そのものの分節が、本能図式に基づく生体的ゲシュタルトをそのまま反映していない。
↕
制度内においては、個人も大衆も手のつけようのない〈必然性〉として映る。しかしそれは実践的惰性態としての制度の強制力がもたらす必然にすぎない。
→ヒトという動物種の生理的必然と混同すべきではない。
①意味と音のイメージが切り離せないのは、それがあくまでも非自然的な歴史・社会的産物である限りにおいてであり、
②辞項の価値が必然的なのは、それがあくまでも非本能的な歴史・社会的実践によってもたらされた文化的化石である限りにおいてである。
(3)人工指標と象形文字
レストランの看板(フォークとナイフ)のような記号は、あらかじめ区切られた事物・観念を指差している<>に過ぎない。区切られた<>は、すべて言葉によって誕生した指向対象(レフェレント)か概念である。121
【鈴繁:では、象形文字を同じようにいえるのか。言語記号とともに立ち上がってくるものではないか。】
2.10. 言葉の意味と価値
(1)意味論の出発点
①言葉の第一次分節活動:
事物に意味を付与していく。事物そのもののなかに隠れているア・プリオリに存在する意味を、人間が発見して名づけるのではない。127
②<>は物理音ではなく、音的イメージにすぎない。127
(2)単位と価値
単位という客観的実体は存在しない。あるのは、体系のなかで否定的にしか定義されない価値だけである。130
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客観的実体は、「自然の中にもともとから存在していて、いわば炙り出しによって浮かび上がる構造」132から掴みとられるもの。
【鈴繁:とすると、岩石だとか星、さらには重力の法則とか引力の法則というのは、文化によって規定されない客観的実体なのだろうか。】
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唯ラング論(サピア・ウォールフ)
唯ランガージュ論155
【鈴繁:竜樹:唯識とは、自己およびこの世界の諸事物はわれわれの認識の表象にすぎず、認識以外の事物の実在しないことをいう。「この三界は心よりなるものにすぎない」『十地経(ジユウジキヨウ)』)】
(3)外示的意味と内示的意味
外示的意味dénotation:語のもつ最大公約数・抽象的意味133
内示的意味connotation:語のもつ個人的・状況的意味
1 個々の語に宿る個人的・情感的イメージ(病院)
2 共同主観によって生まれる情感的イメージ(ユダヤ人)
1 創造による新イメージ(<記号>)
FIG 特定共時態と通時態(<構造>と<歴史>の<動きのゲシュタルト>)
[1] intellectualism 人間の心は知・情・意からなるなどといわれるが、このうち知の面を、つまり知性とか理性とか悟性とかよばれる知の機能を、ほかの感情や意志の機能よりも上位に据える見方が一般に主知主義とよばれ、感情を上位に置く主情主義(情緒主義)や、意志を上位に置く主意主義に対するものとして用いられる。とくに中世のスコラ哲学では知性と意志の関係が問題になり、知性の優位を説いたトマス・アクィナスが代表的な主知主義者であるが、この傾向はさかのぼってはアリストテレスに代表されるギリシア哲学に、下ってはスピノザやヘーゲルの汎(ハン)論理主義にみいだすことができる。