丸山圭三郎『ソシュールを読む』Part02

4. ラングの解明

4.1.         第三講義の視点

4.1.1.   ラングとパロールの拡大解釈

第一講義:

パロールはラングという構造の産物でありながら、構造を変えていく

社会制度に対して個人の実践が生み出す弁証法が、「類推による創造」というコンテキスで論じられる。177

第二・三講義:

ラング(構造)、パロール(実践)であるから、

ラングは恣意的価値体系であり、ここから生まれているパロールは一切の文化現象ということに拡大解釈できる。そのパロールは、ラングという価値体系が恣意的であることを隠してしまう。178

「事実[パロール]と本質[ラング]は通約不可能であり、事実認識をいくら積み重ねても本質には達しない。」178

4.1.2.         恣意性・線状・否定性

4.1.2.1.   恣意性

恣意性とは、コトバが歴史・社会的人為によって規定されてしまう意味での非自然性ということ。だから、恣意性と対立するのは、必然性ではない。179

4.1.2.1.1.  恣意性と自然性

[鈴繁:問題はむしろ、①五感で感じ取ることのできる個物を実体と考え、②実体には名称があり、名称はコトバであるがゆえに、③個物としての実体と名称との間に必然性があるというのが、言語名称説。おそらくBenvenisteはこの線で考えている。ところが、ソシュールは、実質2の分類は差異によって生まれるが、その差異発生の現場とコトバとは不可分の関係にある。そして、差異化はまったく恣意的になされているから、コトバも恣意的だという。しかも、言語体系ラングの観点を入れると、その恣意性は各文化・各時代によって規定されているので、非自然的だという。ここでは、異なった二つのレベルの話がひとつの次元に重なり合ってしまっている。]

そして、恣意性が必然性とすんなり対立概念として結びついてしまうのは、そもそもこの世界は神によって創造されたものであり、そこにはなんらかの定まった秩序があるはずだという神・秩序創造神の前提があって、コトバもこの線上で考えられるから。

4.1.2.1.2.  旧約聖書:神が事物を差し出し、人間が名前をつける

1章(1)初めに、神は天地を創造された。(2)地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。(3)神は言われた。「光あれ。」 (31)神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。

2章 天地万物は完成された。 (7)主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。(8)主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。
(19)主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。(20)人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。]

4.1.2.1.3.  『クラテュロス』の言語神受説と言語制定任意説

クラテュロス 最初の名前を事物に与えたのは、人間よりももっと大きいある力であり、したがってそれらの名前が正しいのは必然であるということです。
ソクラテス 命名者はダイモンもしくは神である[ということだね]。」(438C)

4.1.2.2.   線状

持続としての生ける時間[ニュートン]を、任意に切断可能な空間軌道に置き換え、「現在という点」が存在するかのような錯覚をよぶラングの離散性。179

4.1.2.3.   否定性

的な様相をみせる<>が、実は<>の差異というマイナス性と<>の差異というマイナス性の論理的積であるプラス性にすぎない。180

4.1.3.         恣意性の原理

4.1.3.1.   ラングからランガージュへ

SM96 個々人には分節言語能力と呼ぶことができるひとつの能力がある。(....)しかし、これはあくまでも能力にすぎず、外から与えられるもう一つのもの、すなわちラングなしにはこれを行使することは事実上不可能だろう。」185

SM96(159) 人間はたとえば歌う能力をもつが、社会が指導しなければ、曲を作ることはできないだろう。」186

[鈴繁:ここでソシュールは、単純にラングという外部を設定してしまったために、あたかも個人という個物があって、この個物に潜性として能力、それもある実体をもった能力を想定させるような諸個物を想定させてしまっている。]

【鈴繁:ラングが単純に外部として存在しないことは、共同体についての哲学議論から明らかにされている。高田明典『世界をよくする現代思想入門』(ちくま新書)】

4.1.3.2.   二つのパロール

SM112(245, 246) ラングは、受動的なもので集団のなかに存在する。ラングはランガージュを組織化し、言語能力の行使に必要な道具を構成する社会的なコードである。

パロールは、能動的で個人的なもの。パロールは次のように区別しなくてはならない。

ランガージュを実現するための一般的な諸能力の使用(発声作用)。

個人という思想に基づいた、ラングというコードの個人的行使。」188

パロールは「実質の分節活動」。189沈殿したラング内の差異を用いることによって新しい意味を産出する。189

パロール主体の意志にもとづく言行為があらゆる瞬間に世界の再布置化となる。

[鈴繁:ここもソシュールは、個人的行使という超越的概念を設定してしまったために、あたかも個人という個物があるかのような錯覚を我々に与える。]

パロールは、ラングを前提としており、ラングはパロール(パロール1+パロール)の活動の結果、沈殿した差異の体系である。191

4.1.3.3.   <聴覚映像>image acoustiqueと<概念>concept

SM1114(1095, 1096) 言語記号[<記号シーニュ>]は二つのまことに異なった事象間に精神が樹立する結合である。それらの事象は二つとも心的なものであり、主体の中に存在する。ひとつの<聴覚映像>image acoustiqueがひとつの<概念>conceptに結合されているのである。<聴覚映像>は物質音ではない。これは音の心的な刻印である。」192

<聴覚映像>は心的イメージであって、イメージを引き起こす物質そのものではない。たとえば、梅干しの酸っぱいイメージは、感覚によって与えられたもので、梅干し自体とは違う。

[鈴繁:ここで丸山は、個物の属性は、個物がイメージとしてになっているイメージ群とは異なっているといっている。丸山は<記号シーニュ><記号表現><記号内容>というソシュールの用語がソシュール自身の警告にもかかわらず、一級の言語学者や哲学者によってすらも誤解されている証拠を引用して、我々は用語の指し示すその内容を混乱してはならないことを戒めている。しかし、ここで出す梅干しとその酸っぱさというイメージとを弁別することこそ、個物があるというアトミズムに自ら陥ってしまっている。アトミズムは、丸山自身が冒頭で、ソシュールとはもっとも疎遠なものへのアプローチの仕方として否定しているもの。ただし丸山の慧眼は、ソシュールが<概念>ではなく最終的に<記号シーニュ>という用語に落ち着いた理由として、「イメージと切り離されたところに外在するア・プリオリ」、つまりプラトンのイデアのような純粋観念と誤解されるのを恐れたためだと推測している。]

<記号表現>と<記号内容>(ソシュール自身による図)

それを補うと

<記号>の確定

4.1.3.4.   恣意性

SM63(123) 言語記号は恣意的である。与えられた聴覚映像と特定の概念を結ぶ絆は、そしてこれに記号の価値を付与する絆は、根底的に恣意的な絆である。」196

二つの恣意性があって、

(1)第一の恣意性は、連続体であるカオスがランガージュの網(形相)によってコスモス化され、分節された結果生じる<記号>内部に見られる「<記号表現>と<記号内容>の絆の非論理性・非自然性」である。

(2)第二の恣意性は、ランガージュの網(形相)の構成自体に見られる「非論理性・非自然性」である。197丸圭『思想』144

については:

うめぼし>という概念は、/umebo∫/という音のイメージで表現されなければならないという自然的・論理的な絆はないということ。これをつきつめていけば、<記号表現>が音のイメージである必然性すらないということになる。198

[鈴繁:<記号内容>は<概念>であって個物ではない。ここにソシュールのミソがある。個物ととしてとらえてしまうと、丸山のように種と文化という二重のゲシュタルトを考えて、恣意性を二重に解釈して整理する必要が生まれてきてしまう。そして、丸山は①)自然界に見られる指標、②人工の指標、③言語記号の三つに分けているが、①のような指標ですら、地と図のゲシュタルトという認識なしには不可能で、その認識はコトバに全面的に負っているのだから、①を「自然的絆」があるものとしてそこに<恣意性>を見出さないことは、<概念>と<聴覚映像>とが恣意的であるというその恣意性の根底を見誤ってしまう。「個物はある」というアトミズムを完全に捨て去ることができないから、こういう誤りを犯してしまう。おそらくソシュールもこういう三区分法はとらなかったはず。 <記号表現>が音のイメージである必然性すらないということになるという理由で、デリダはソシュールを脱構築している。p.47]

4.1.4.         線状性原理と言語の本質体

恣意性は、<>の非自然性・非実体性という面での形相性を生じさせる原理

線状性は、<>の離散的・デジタル的性質という面での形相性を生み出す原理。203

SM116(1168)(<記号>[精確には<記号表現>]は線状の次元、ただひとつの次元しかもたない時間において展開される)。<聴覚記号>は、多次元にわたって錯綜しえる<記号>[<記号表現>]─視覚的記号─とは異なり、ひとつの線上に形作られる空間のなかで錯綜を示しうるのみである」203

<言語記号>の本質は、

非実体としての関係にのみ基づく非自然的価値であり、

連続体である多次元の現実であるモノ(未分節の生ける自然)を

非連続の一次元世界に置き換えて、これをコト化している。205

[鈴繁:ここでのソシュールの時間観は、べったりとニュートンに負っている。「追憶」という形で過去にさかのぼる可逆性をもったり、「持続」という形で連続性をもつ生きた時間でもない。流れた時間、一線上の伸びていく空間としての時間である。ソシュールの不徹底さは、丸山のソシュール解釈に見られるように、二つのゲシュタルトを設定してしまったことではない。これは、むしろ丸山解釈の最大の誤解だととれる。ソシュールの不徹底さは、発話を話線としてとらえたことにある。コンテキストのなかで語は<意義>を発現するように、発話はコンテキストの上位概念であるラングとのやりとりのなかでその<意義>をあらわにしていくはず。]

[鈴繁:モノが現実なら、コトがひとつのフィクションになってしまう。この現実とフィクションとの差を認めるのか認めないのか、そもそもそういう二分法が、ちょうど<>と<>とをそもそも分節化していくことが架空の線でしか仕切れなかったように、無理な二分法であるかということが、今一度考えてみるべきこととして扱われていない。二分法は、無理なのだ。]

4.1.4.1.   本質体entité

SM117(1710)本質体entitèとは、存在を構成する本質のことである。」(205)

SM117(1690)我々が言語の本質体entitéを目前にする[??]第一条件とは、二つの要素間の結合[<記号表現>と<記号内容>]が現前し、存続することである。」(207)

文化現象一般が、

①言語と同じように人為によって生み出されたコトという関係[(B)forme型――151]にすぎず、

②モノ自体はすでにもうの形では存在しないということ、

③コトの本質は非自然である。

[鈴繁:②では、それまで誤ってはならないと注意を喚起してきた、コトをモノ(個物)と捉えてしまう実念論が、ここでは転倒して、コト以前にモノがあるかのような論旨になっている。どうやらモノは、カントの「物自体」の<モノ>に重ねあわせて考えているようだ。]

4.1.4.2.   言語の抽象的本質体

Son violon a le même son「彼のヴァイオリンは同じ音を出す」では、同じ/so/という<記号表現>を持ちながら、別々の<記号内容>を持っている。

[鈴繁:これはおかしい。「ひとつの<聴覚映像>image acoustiqueがひとつの<概念>conceptに結合されているのである。<聴覚映像>は物質音ではない。これは音の心的な刻印である。」192にもかかわらず、ここでは物質音として考えられている。ともかく、心的イメージというなら、そこには意味が必ず入り込んできてしまう。]

同音と見なされる二つの単語が、それぞれ別々の価値を持つのは、連辞の次元で他の語と結びつきうる<結合値>が異なっているからである。

ソシュールの<抽象>abstractionには

語る主体の意識にはないが、その主体の意識が作り出すもの:

<音=観念>son-idéeという一体化した存在を、抽象作業によって二項分割したもの、「物質音」と「観念」。

語る主体の意識には存在するが、実質の支えをもたない関係。

ゼロ記号(省略された関係代名詞)。

4.1.5.         相対的恣意性

語の透明度[どれだけ語源や規則性を読み取れるか]という問題は、恣意性の問題とはまったく異なる次元の問題。223

4.1.6.         価値の恣意性と示差性

SM153(1939)言語のなかには差異しかない。...言語のなかには実定的な辞項を持たない差異しかないという逆説である。.....(1945)

相互に条件付けあう差異のおかげで、つまり、かくかくの[聴覚]記号[<>]の差異(-)と、かくかくの観念[<>]の差異(-)が結ばれたために、我々はなにか実定的(+)な実体に似たものを相手にすることになる。この結合の実定的要素があるために、そこには差異しかないとはもはやいえなくなり、[ある<記号>を選び出し、その<記号>が他の<記号>と]対立があるといえるようになる。」237

対立現象を樹立するのは、語る主体の意識である。238

[鈴繁:とするなら、対立は仮想であり、対立を意識する主体も仮想ということになる。これは仏教の唯識と同じ]

5. ソシュールと人間学

5.1.         身分け構造と言分け構造

コトバをもつ以前には<身分け構造>が過不足なく掬ってくれていた自然が、文化の網では掬いきれないカオスとして存在しはじめる。

文化の秩序はこれを抑圧し、<言分け構造>の分節を押しつけようとするが、人は内より沸き上がる欲動と文化のタブーの間で分裂し、

ついには、

文化・社会への適応不能と自然への防衛不能という二重の不能症に陥る。264

ランガージュは過剰としての文化を創った。265

6. ソシュールと文化記号学

6.1.         力――相互依存の弁証法関係

体系内においては辞項termeが他の辞項との相互関係におかれ、

体系自体が自己の内部に対立物[鈴繁:辞項間の対立]を含み、

これによって自己否定運動を起こして乗り越える。273

この運動関係は、

①<均衡状態おかれた力>forces en équilibreとしての静態statusと

②<動きつつある力>forces en mouvementとしての動態motusであった。273、230

だから

①関係と②関係作りの二つが、ここにはある。この①と②が弁証法的運動をしている。273

いいかえると、①の相からみれば、

ラング(構成された構造)とパロール(構成する構造)の間の動きであり、

共時的視点から見た静態体系と、通時的に捉えた「偶発事としての出来事の体系への組みこみ」である。273

この視野に立てば、コトバは

差異の体系であると同時に互いに差異化しあい自己を組織化している<動くゲシュタルト>なのである。273

[鈴繁:これは動いているように見えてしまうゲシュタルトである。実相がそうであるかどうかは、我々がそういうゲシュタルトがあるとコトバによる理解によるほかはないという理由から、<動くゲシュタルト>というのは、まさにそうであると見えてしまうからである。しがたがって、<動きのゲシュタルト>といったほうが、より的確]

6.2.         力動一元論

力関係から、

①の立場で、ランガージュ・ラング・パロールを所与と考える。

②の立場では、ランガージュはコトバの活動原理、ラング・パロールは方法論的概念装置になる。274

ラングは、①によって暴かれた文化の<言分け構造>にあたり、パロールは、この<言分け構造>によって<身分け構造>が破綻した瞬間に生まれたカオスが在来の<言分け構造>と往還する運動のモデルである。278

 二種類の記号学275                           

6.3.         解明の記号学

6.4.1. ランガージュ

ランガージュは①としては、イコン的・感性的な極とイデア的・理性的な極がある。279

両極ともに、単純な実在の模写

     「モノのコト化能力」(ゼロと時空の延長に意味を与える<不在の現在化>能力)280

6.3.2.   ラング

ラング:<不在の現在化>が惰性化・制度化・物象化したもの。282

ラングを知るには、「語る主体の意識に直接訴えるもの」(断章番号1504、2195他)

実質に支えられても関係にすぎない。
連続的に見えても離散性(デジタル)によって機能する。
否定的価値の対立構造として体系性をもつ。

<記号表現>の非可逆的線状性

6.3.3.  パロール

  • パロールは、

(B)formが(A)substanceになるという、自動機制的言語行為(メルロ=ポンティ<経験的使用>Signes, p.56)。
(A)が(B)になるという、乗り越えの言語行為(メルロ=ポンティ<創造的使用>Signes, p.56)。284

後者の創造的使用は、意味発生の現場で捉えたコトバである。

6.3.4.   乗り越えのための記号学(記号学2)

<コード破り>(文化のタブー破り301)をして、<形相化>するというプロセス(パラダイムの組み替え301)。

  • 記号世界の否定:

「表現と意味の一体化」という姿・所作のもつ身体性の回復。299なぜなら指示対象とコトバとの間の志向機能を否定し、「自らの姿がそのつど新しい意味を描きだす」所作のもつ身体性を取り戻す行為。→既成の意味や関係を物質化する再現行為の拒否

[鈴繁:多義性の作り出す、<書>]

  • 記号の本質を否定:

コトとモノとの間を漂流する<動きとしての身体性>の回復。分離不可能な<記号表現>と<記号内容>を剥離して、<記号>の分節作用そのものを揺るがし、形相としての<記号>を意識が未分化のマグマへと突き返す。291

→アナグラム:コトバが分節と未分節の両義性をそのまま体現する。一連の語の下に潜む異次元の語は既成の分節の境界線を崩れさせ、

<記号>にして非<記号>、

単線にして複線、線状にして非線状、連続にして不連続、非可逆にして可逆

となっている。291

6.4.         文化のフェティシズム

6.4.1.   個物主義、またの名を<文化のフェティシズム>

事物はあたかもそれ自体の価値を有する実体であるか、人間が加工した自然物のようにしか受け取られない。293 そこでは「記号となった物」ではなく「記号となったコト」がうごめいている。

[鈴繁:「ここに鉛筆がある」という述定は、抽象化された数学的哲学空間でなら可能だが、そうでないなら、鉛筆はエンピツというコトになってしまう。実体主義は、じつは<>を含まざるをえないという点において、実際には不可能だと丸山は考えている。]

なぜなら物の使用価値や有用性が、

一定の文化体系のなかでのみ機能するシンボリックな価値と重ね合わされたり、

一定の経済体系のなかでのみ機能する交換価値におおわれて、非自然な<欲望>の対象の現象になる。

[鈴繁:動物のゲシュタルトとしての<欲求>ではない]

6.4.2.   コトバが惰性化する理由――個物化の根拠

流通システムを保証し、秩序維持297

文化現象全体がコトバの指向対象として生まれた<コト>である297

ラングがデジタル分節をその根底とし、質としての生が数量化されることで成立する。298

6.4.3.   フェテッシュ

モノ自体であり自然そのものであると思いこまれている文化現象の解剖

「コピーとそれが指さすオリジナル」という「関係の<記号>世界」

即自的に存在すると信じられていた指向対象は、<記号>が生み出している。

<記号>は、即自的に存在していない。否定的・弁別的に存在している。

<記号>の織りなす関係の構造のなかに、自らを否定する反構造の契機を探し出す。300

代行・再現ではなく、差異を用いて差異化行為をするという新しい関係作り。300

7. 用語

形相

家は、質料(素材)とそれを組み合わせる構造上の形からできているが、その形が形相である。したがって、家は燃えて質料は目に見えなくなっても、形相は残る。

形相は、属性ではなく、物を他のものから区別する本質的な特徴である。

形相が、基体を特定たらしめる。部分が全体によって存在するので、あらゆる生成は、形相によって統制される。あらゆる現象の背後にはいつも出来事の核心として形相がある。形相は普遍性のままあらわれるのではなく、具体的・個別的なものとして実現されている。[ヒルシュベルガー『西洋哲学史 Ⅰ 古代』(高橋憲一訳 理想社 1967年)258-259]

形相はeidos pradigmaのギリシア語。

ただひとつの質料もなしに、それ自身で真に存在する純粋な形相が、不動の動者(神)である。[ヒルシュベルガー『西洋哲学史 Ⅰ 古代』(高橋憲一訳 理想社 1967年)261]

主体subjectと実体substance

主体(基体):hypokeimenon:日常分類語で表記される主語や述語によって、そのつど指示され「あらかじめ措定されているもの」(先言措定)。[藤本隆志『哲学入門』(東京大学出版会,1990年)58]。ところが、後の時代には、objectとして逆に理解されてしまった。

実体:ousia/ substantia: 

「なにかある基体について述べられるのでもなければ、何かある基体のうちにあるのでもないもの」(アリストテレス)。

デカルトの場合には、当の主語によってのみ指示される存在者。[藤本隆志『哲学入門』(東京大学出版会,1990年)65]。

実体は、形相(―らしさ)と質料(材料・素材)からなり、それだけで存在しうるもの。だから、影は実体ではない。ユニコーンは、主体であるが、実体でない。

    アナグラム

anagramme ベーダ詩、ギリシア・ローマ詩のなかにみいだされる特殊な技法の一つ、とソシュールが考えたもので、詩句に〈キー・ターム〉もしくは〈テーマ語〉(多くの場合その詩の主題と関連ある固有名詞)の音的要素が散種されている現象。これは、詩句の発想と成立にとっての母型がミニアチュアのような形をとって詩のなかに象嵌(ゾウガン)されている〈主題象嵌〉mise en abymeでもある。

 アナグラムは、語の下に語を潜ませ、テクストの背後にテクストを同時存在せしめることによって、〈線状性〉という制約のもとにある言語にポリフォニー(多声音楽)的性格を回復させるばかりか、これに分節・未分節の両義性を体現させる詩人の無意識的営為である。一連の語の下に潜む異なった位相の語は既成の分節の境界線を崩れさせ、そこではことばが単線にして複線、不連続にして連続、非可逆にして可逆という双面を有し、意識と無意識の間の枠が取り払われ、その断層の間の流れとなって漂う。

 アナグラム研究は、コード違反によって得られる〈パラグラム〉paragramme的読解という読みの可能性を生み出すとともに、言語以前の欲動の世界、夢や無意識の領域にも新たな照明が当てられる契機となった。(丸山『ソシュール小事典』)

共時態・通時態 

きようじたい・つうじたい synchronie, diachronie その対象が一つの価値体系である科学においては、時間軸上の一定の状態(価値の均衡)とその変化(価値の変動)を峻別(シユンベツ)すべきだという考えから生まれた方法論的概念。前者を共時態(静態status)とよび、後者を通時態(動態motus)とよぶ。現実には、体系は刻々と移り変わるばかりか、複数の体系が重なり合って共存するが、時間の作用をいちおう無視して言語を記述する研究を〈共時言語学〉linguistique synchroniqueという。これに対して、時代の移り変わるさまざまな段階で記述される共時的な断面と断面を比較し、言語体系総体の変化をたどろうとする研究が〈通時言語学〉linguistique diachroniqueである。(丸山『ソシュール小事典』)

形相・実質

 けいそう・じつしつ forme, substance 前者は、ソシュールが「言語とは物理的・生理的・心理的事実の集成体ではなく、体系内の各要素間の関係からなる」とした考えを、イェルムスレウL. Hjelmslevが術語化したものであって、〈関係の網〉にあたる概念である。アリストテレスの〈形相〉eidos(エイドス)とは異なる。この関係態は、ほとんどの場合実質に支えられている。自然言語に限っていえば、実質は音的実質と意味的実質の二つに分けられよう。そのいずれも、言語の網(形相)を投影させない限り、どこにくぎりを入れようもない連続体であって、それ自体は体系とは無関係な存在である。音的実質が、人間によって発声・聞き取り可能なすべての物質音であるとすれば、意味的実質は、人間によって体験可能なすべての言語以前的現実である。ことばは形相を通してその両面にくぎりを入れ、一方では物質音を対立関係に置き、他方では生体験を概念化する働きをもつ。(丸山『ソシュール小事典』)

恣意性

 arbitraire 次の二つの恣意性を区別せねばならない。第一の恣意性は、言語記号内部において音のイメージとそれが担う概念との間にいささかも自然かつ論理的な絆(キズナ)がないという事実をさし、第二の恣意性は、言語記号そのものの分節が、本能図式に基づく生体的ゲシュタルトをそのまま反映していない事実をさしていう。いずれの恣意性も、反自然性という点では共通しているが、第一の恣意性が個別辞項の内部の絆にかかわるものである限り、これは、第二の恣意性によって体系内の価値が成立したのちの問題でしかありえない。

 また、上の二つの恣意性が、制度内においては、個人も大衆も手のつけようのない〈必然性〉として映る逆説を指摘しておくべきだろう。物象化した日常意識にあっては、ことばとはそれと必然的に結び付く観念・事物を指し示すコミュニケーションの道具であり、ある言語音のイメージは、いやおうなしにある特定の意味を担っている。またその価値の布置図式にしても、特定共時文化のなかに生まれ落ちた個人にとっては、必然的ア・プリオリであるかのように思われる。しかし、ことばのもつ必然性は、実践的惰性態としての制度の強制力がもたらす必然にすぎず、ヒトという動物種の生理的必然と混同すべきではない。意味と音のイメージが切り離せないのは、それがあくまでも非自然的な歴史・社会的産物である限りにおいてであり、辞項の価値が必然的なのは、それがあくまでも非本能的な歴史・社会的実践によってもたらされた文化的化石である限りにおいてである。(丸山『ソシュール小事典』)

シーニュ、シニフィアン、シニフィエ

 signe, signifiant, signifié 一般には「自らとは別の現象を告知したり指示したりするもの」をシーニュ(記号)とよび、そこには〈図像〉icone、〈指標〉indice、〈徴候〉symptôme、〈象徴〉symboleなども含まれるが、ソシュールにおけるシーニュは、シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)からなる不可分離な双面体をさす。

 重要な点は、〔1〕シーニュが、あらかじめ別々に存在する二つの実体を結び合わせてつくられたものではなく、シニフィアンとシニフィエはシーニュの誕生とともに生まれ、互いの存在を前提としてのみ存在すること、〔2〕シニフィアン、シニフィエともに〈形相〉formeであって〈実質〉substanceではない、ということである。〔1〕をいいかえれば、言語記号は同時に表現であり内容であるという認識にほかならず、〔2〕からわかることは、シニフィエを〈指向対象〉référentと混同したり、シニフィアンを〈物質音〉son matérielと混同してはならないという戒めであろう。(丸山『ソシュール小事典』)

ランガージュ、ラング、パロール

 langage, langue, parole ランガージュは人間のもつシンボル化能力とその諸活動(言語、所作、音楽、絵画、彫刻など)のこと。広義のことばにあたる。この能力は生得的ではあっても本能とは異なり、生後一定期間内に社会生活を営まなければ顕現しない。ランガージュは自我をつくる根源であって、そのほかにも時間・空間意識をはじめ想像力、羞恥(シユウチ)心、エロティシズムなどを生み出す。したがって、これは人間を他の動物から弁別する文化のしるしとみなされる。

 ランガージュが個別社会において独自の構造となりコード化されたものをラングとよぶ。日本語とかフランス語といった諸言語のことである。これは、個人の行為を規制する条件・規則の総体としての価値体系とみなされよう。

 パロールは、個人がラングの規則に従って自らの意思を表白するために行う具体的な言行為をさす。現実には、制度としてのラングの強い規制のもとにあるが、ラングそのものを変革する働きもまた、この実践を通してのみ可能となる。したがって、ラングをコードとみなし、パロールをメッセージと解するのみではなく、両者が相互依存の形をとっていることも忘れてはなるまい。

 アリストテレス的概念とそのまま重なり合うわけではないが、ランガージュを〈デュナミス〉dynamis(=可能態・潜勢能力)、ラングを〈エルゴン〉ergon(=作品)、パロールを〈エネルゲイア〉energeia(=現実態・活動)と解することができる。 (丸山『ソシュール小事典』)

 


 

保護中: 高野陽太郎 『鏡映反転-紀元前からの難問を解く』(岩波書店, 2015)
Read more
フランシス・フクヤマ『信頼:社会徳と繁栄の創出』
Read more
デカルトの「我思う」と神存在の証明
Read more
丸山圭三郎『言葉とはなにか』
Read more
丸山圭三郎『ソシュールの思想』
Read more
丸山圭三郎『ソシュールを読む』Part02
Read more