奥行き感覚:   2次元世界の視覚錯誤 (2) 腹側経路と背側経路

<見て知る>と<見て行う> 

 私たちは、視覚によって外部の世界にあるものや出来事を知ることができます。しかし、視覚の働きはそれだけではありません。ものや出来事を見ることによって、どのような行動をしなくてはならないかも教えてくれます。
 通常は、<見て知る>ことと<見て行う>ことにおいて、視覚とそれにつながる脳の回路は単一の機構で動いていると考えられています。ところが直近の脳科学では、<見て知る>に必要とされる機構は、<見て行う>ことに要求されている機構とは異なっていることが明らかになってきました。
 まず<見て知る>ための機構では、尺度は相対的であるのに対して、<見て行う>ための尺度は場面に応じた変化はせず絶対的になっています。たとえば、眼の前の梅干しを箸で取る場合に、それが梅干しだと<見て知る>ためには、梅干しはスイカよりも小さいし、小豆よりも大きいといった相対的な尺度がわかればよいです。しかし箸で取ろうという<見て行う>振る舞いをするには、自分と梅干しの間の距離は何十センチ、梅干しの大きさは何センチなどといったように、現実世界の定まった尺度(絶対尺度)でしっかりと認知する必要があります。
 尺度が相対・絶対という違いに加えて、<見て行う>ときには、手足や指などの効果器(神経インパルスをうけて活動する器官)を使いますが、効果器のそれぞれの特性に応じた司令を脳が出す必要があります。これは<見て知る>ために使われる、外部世界をたえず捉える眼の瞬間的で断続的な自動運動とは別種の仕組みです。<見て知る>ことには、見るということだけの枠組みを使いますが、<見て行う>ためには、効果器との連携が必須になっています。

腹側経路と背側経路

  このように視覚に2種類の競合する機構が要請されていることは、大脳皮質で視覚を担当する領域に、異なった2種類の機構があると考えるのが自然です。
 実際に眼の網膜で得られた視覚情報は、まず後頭部(視覚野)に集められ、そこから別個の2つの経路を通っていきます(図 腹側経路と背側経路)。脳の腹側(脳を垂直に立てたとき人体の腹側にあたる側面)を通る腹側(ふくそく)経路では、眼で捉えられたものごとが、どんなもの・ことであるのかを、その形や色をきめ細かに表象・再現前化し、それらにどんな意味や意義があり、どういう因果関係があるのかを解析し、意識にのぼるかたちで処理します。
 これに対して、脳の背側を通る背側(はいそく)経路では、対象の空間的な位置や動きについての情報を、効果器が調和して動けるように変換して、無意識のうちに瞬間ごとに行為をコントロールします。このように、一つの視覚情報は、脳内で異なった2回路によって処理されています。(注1)

腹側経路と背側経路(Optronics)

(注1) 1982年に最初に提唱された2回路モデルは、1995年には定説化しており、この説を精緻化する研究が続いている。そうした研究成果として、背側経路には背背側経路と腹背側経路の2つがあり、それぞれが使う機能とつかむ機能を担当していることが明らかになっている。Binkofski, F., and L. J. Buxbaum. “Two Action Systems in the Human Brain.” Brain Lang 127.2 (2013): 222-9.

無意識の視覚と誤る視覚 

  この知見は、通常、考えられている視覚情報の処理とは2つの点で異なっています。
 私たちの実感としては、眼で梅干しが見えるので、それを箸でつかもうといったように視覚と運動とはすべて意識化されたものだと考えています。ところが、視覚失認症(visual agnosia)のように、網膜には梅干しが映し出されているにもかかわらず、梅干しが何であるのか認知できず、それでいながら、梅干しがどこにあるのかを見分け、梅干しをつかむことができるという事例があります。この事例は、背側経路が生きていて、腹側経路が崩れていることを示すだけではなく、それぞれの経路が、固有の法則(腹側は意識的、背側は無意識的)に従い、しかも背側経路は意識とは無関係に自動的であることを教えてくれます。つまり視覚は意識に全面的に依存した感覚機能ではありません。
 またもう一つの異なった点は、視覚性運動失調(optic ataxia)を思い浮かべればよいでしょう。この場合、腹側経路によって自分の前にあるのが梅干しだと説明できても、背側経路が損傷していて、手や指を制御できず箸でつかむことができません。これは、視覚が意識化されしかも対象が何であるかを精確に把握しているにもかかわらず、視覚によって正しい行為へと効果器を誘導するとき、不正確で誤ることがあることを示しています。五感の感覚の中でも視覚はもっとも精確で誤る余地が少ないと信じられていますが、背側経路に障害があれば、対象が何であるかは分かっても、どうそれとかかわるかの動きにおいては大きな過ちを犯してしまうのです。

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