◆日英語の認知相違◆ 6.《日本語認知の基本》 埋没した視点が移動する日本語認知パターン
日本語認知パターン:共同注視枠を作り、次にその枠内で話題を焦点化する。<注視枠作り>と<話題焦点化>の繰り返し
前節で述べたように、英語で表現するとは、①対象と自分との間に距離を置き、そして②対象から離れたもう一人の自分がいて、③そのもう一人の自分が、対象を外から俯瞰するという、3つの前提の上に成り立っています。これに対して日本語表現は、④表現しようとする対象と自分との距離がなく、対象のなかに自分が埋没していて、⑤その対象内に即して、自ら対象を経験しつつ叙述するということでした。
英語の①と②が示しているのは、英語母語話者の認知パターンは、固定カメラで、視点が移動しないことがわかります。ところが日本語では、④にあるように自分が対象に寄り添い埋没しているので、対象ごとに視点が移動していることになります。日本語では、私と相手とが共同注視枠でくくられた場面にともに参与するので、その枠を外から客観的に眺めるのではなく、私はその枠の中に身をおいたまま、相手に事態を伝えていくことになります。自己を外から眺める英語タイプの認知主体に代わって、自己没入タイプの私、臨場感を伴った主観的な表現で相手に事態を伝える私なのです。
日本語では、注視枠でくくられた同じ場面に私と相手は居合わせているということは、主語をいちいち明示する必要もなく、またわかり合っているはずと思えることにいちいち言及する必要もなくなります。このように主観的に表現がなされ、「省略」が行き渡っているということは、逆にいうと、相手も私と同様に、私の提示する共同注視枠に自己投入し、話題の意味はもちろんのこと、その話題に言及する意図や話題の重みも、話し手である私と波長をあわせる必要がでてきます。相手は、私の提示する注視枠を想像し、私が語りかける話題を正確につかむことが暗黙のうちに要求されているのです。日本語母語話者としてはこうした要求は日常生活の呼吸と同じく当たり前の構えとなっているので、自覚されることはまずありません。しかしこの要求が受け手の側にたえず突きつけられていることは、和歌・俳句を「味わう」ときに顕在化しています。和歌・俳句を「味わう」とは、読者は作者の世界に没入し、作者が表象している世界を思い描き、作者が感じている気分を追体験することで、初めて鑑賞したといえるわけです。
また日本語の場合、「国際会議に出るので、イギリス人に英語を教わっている」の例に戻れば、「教わっている」という焦点となることが最初にくるのではありません。「イギリス人に」、「英語を」といった周辺的なことを列挙していって、まず焦点となる話題の周辺を補完していってから、焦点化される話題でまとめあげ、全体の意味が判明するようになっています(図13, 14)。そして共同注視枠は次々と作られていきます。「そのイギリス人の先生、スコットランドなまりが強くて、最初とまどった」→「でも、よく聞いていると、分かってくるようになった」。「国際会議に出る」という共同注視枠に続いて、「イギリス人先生」、「リスニング」と注視枠が変わっていき、枠が変わるたびに話題も変化しています。前節で触れた熊谷のいう「本人が自由に持ち歩く」とは、このように全体の焦点が結ぶまで、各事象ごとにカメラの位置が移動しているということと、共同注視枠が次々と立ち上がっては消えていくことを示しています(図15)。