◆日英語の認知相違◆ 3.《モバイルカメラ⇔スタジオカメラ》


英語認知パターン:「舞台の様子を観客席から撮っていくスタジオカメラ」

 英語の認知パターンは、対象と自分との間に距離をおいて、対象から離れた自分が対象を外から俯瞰し客観的に叙述しようとします。これに対して日本語では、対象のなかに自分が埋没してしまい、対象をその対象内に即して対象を経験しつつ主観的に叙述します。この違いを極めてわかりやすく教えてくれるのが、熊谷孝之による「電車のドア」の説明です。

日本語では列車が駅に近づくと、車内アナウンスで「お出口は右側です」という声が聞こえてきます。これに対して、英語では “The doors on the right side will open.” となります。英語では doors と複数形になっているのは、車掌自身が乗っている電車という対象と車掌自身との間に距離をいているからです。どういうことでしょうか?それは、電車乗っている車掌が、自分の分身をその電車から離れた場に置いて、その分身に電車を外側から俯瞰させて、電車についている左右のドア全体を視野においているからです。別な言い方をすれば、もう一人の自分が、電車に乗っている自分とその電車を外側から眺めて、アナウンスしているからです(図8)

ここでは、①自分がいま身を置いている場面から自己を分身させて、②その場面に元の自己を置いたまま、③分身した自分はその場面から離れて、④分身となった自分がその場面を外から客観的に眺めるという作業がなされています。
このことをもっと端的に示す例が、固定電話での受け答えです。
(1 a) マーク:マーク・クリントンと申しますが、フランクさんおられますでしょうか。
(2 a) フランク:はい、私です。
(1 b) Mark: This is Mark Clinton speaking. May I speak to Frank?
(2 b) Frank: This is Frank.

返事として「私です」 (2 a) と日本語ではなるところが、英語では「フランク」 (2 b) になっています。これは、電話を介して話している相手と、受話器を持って話している私との場面を、一歩退いて外から眺めているから、私が自分自身のことを「フランク」というわけです(図9)。やや古い言い方になりますが、かつては “This is he” ともいっていました。私のことを「彼」というわけですから、こちらのほうが外から眺めていることがよりはっきりとわかります。

このように英語では、自己を分身化して、外から客観的に眺める視点が確保されています。自己が2つに割れて分身化するという点でも、また分身化した自分が他なる対象を眺めるという点でも、<自⇔他>という二元対立が生きています。

この構造を先に述べた行動連鎖にからめて言い換えれば、力を潜在的にもっているトラジェクターが、実際にその力を発揮して、ランドマークを動かし変化させるという基本モデルがあり、このモデルを外から見ている<私>(発話者・書き手)がどこかにいるということになります。
 このように英語の二元対立は、図3の破線部分内のtrとlmの対立に他に、図10のように破線部分とそれを見つめる認知主体という対立があり、二重になっていることがわかります。また破線部分内の対立はその際立ちからして、主語が優先になっています。

図 10 語る私と語られる対象との関係

 

ところが日本語の「お出口は右側です」には、車掌がまるで乗客のすぐ隣りにいて、乗客が目にする一番近いドアと一体になって、これがホームに着いたときに降りる出口ですと説明しているかのようです。言い換えるなら、話し手である車掌と聞き手である乗客が同一場面内にいて、しかもその共有した場面は比較的狭い視野で捉えられ、その視野は場面の外にではなく内側にあるのです(図11)。

図 11 日本語アナウンスにおける構造

日本語では、発信者と受信者を隔てる距離が遠く離れていても、発信者は受信者と同一場面(共同注視枠)内にいて、その同一場面には発信者が埋没しているかのように語りかけるわけです。これは近距離になっても、もちろんあてはまります。そのことを示す別な例をあげれば、
 (3 a)「すみませんが、ここはどこですか」
 と尋ねるときに、
 ☠(3 b) Excuse me, but where is here? 
とついいってしまいます。「ここ」といってしまうのは、道に迷っている私と、目の前にいる相手とが同一場面にいると認知しているので、「ここ」と表現してしまいます。そして、「ここ」にいる自分と、どこなのかを尋ねる自分とは分離せずに融合しているために、このように問いを発しても違和感はありません。ところが、承知のように、英語では 
 ☀(3 c) Excuse me, but could you tell me where I am on this map? 
となります。私は、迷っている自分から抜け出して、その迷っている自分を外から眺めるので、「ここ」ではなく「迷っているその人はどこにいるのか」 “where is he?” となり、相手との関係からその迷っている人とは私のことなので、 “Where am I?” となるわけです(図12)。

この英語との対比が物語っているように、日本語では、<語る私>と<語られる対象>とは融合していて、英語のように明確な<自⇔他>という二元対立観念が薄いのです。この日本語の認知パターンを抽象化して示せば、すでに指摘した図7のようになります。

日英のこうした認知パターンの違いをわかりやすい比喩で説明すれば、日本語は「モバイルカメラ」、英語は「スタジオカメラ」となります。

日本語は、話し手と聞き手がそれぞれ自分の手元にあるカメラで世界を撮っていくかのような視点でことばを組み立てている。…それは、本人が自由に持ち歩くことができるカメラだから、モバイルカメラである。…一方、英語は…出来事を舞台にのせ、それを観客席から撮っているかのような視点で言葉を組み立てている。…それは舞台の様子を観客席から撮っていくスタジオカメラのような視点である。

(熊谷高幸『「自分カメラ」の日本語「観客カメラ」の英語: 英文法のコアをつかむ』新曜社, 2020.)

こうしてみると英語で表現するとは、

①対象と自分との間に距離を置く 
②対象から離れたもう一人の自分がいる 
③そのもう一人の自分が、対象を外から俯瞰する

この3つの前提の上に成り立っていることになります。
 これに対して日本語表現は、

④表現しようとする対象と自分との距離がなく、対象のなかに自分が埋没している 
⑤その対象内に即して、自ら対象を経験しつつ叙述する 
ということになります。 
 英語では自分と対象との間に距離があるから客観的な叙述になり、日本語では対象に自分が埋もれているので主観的な言い表し方になるのです。

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