達成目標理論の二区分: アリストテレスの二種類の卓越性

達成目標理論とは、学生は通常、与えられた課題を達成しようという目標に向かうが、学生が目標にたいして抱く信念に着目して分析する体系である。目標である課題達成について、学生が抱く信念は図のように4つに分類されている。

Schunk, Dale H., Meece, Judith L., & Pintrich, Paul R. (2014). Motivation in education: Theory, research, and applications. Boston: Pearson.

習得志向 (mastery orientation) と実績志向 (performance orientation) という区別は斬新なように見えるが、実は、アリストテレスが卓越性 (arete)について述べている箇所にすでにこの区分が示唆されている。

卓越性(徳)には二通りが区別され、「知性的卓越性」「知性的徳」と、「倫理的卓越性」「倫理的徳」とがすなわちそれである。……人間の「アレテー」[=倫理的卓越性]とは、ひとをしてよき人間たらしめるような、すなわち、ひとをしてその独自の「機能」をよく展開せしめるであろうような、そうした「状態」でなくてはならない。……[知性的卓越性において]われわれの実践が成就するところのものは、目的そのものたる位置にある。すなわち、「立派にやるということ」(エウプラシア)が目的なのであり、欲求の目指すところもまさしくここに存する。(アリストテレス『ニコマコス倫理学』1103a14; 1106b7-8; 1139b4-5 高田三郎訳 岩波文庫)

アリストテレスがここで述べている「倫理的卓越性」は、「あの人には徳がそなわっている」、「あの人は自分の徳を磨いている」と通常私たちがいうときに使う意味での優れた性能のことである。これに対して、知性的卓越性は、ちょうどオリンピックのアスリートがそうであるように、他者のよりも優れた成績を上げる実践アプローチ目標をめざしてそれを達成する性能のことである。つまり前者は習得志向、後者は実績志向に対応している。
 アリストテレスは、倫理的であるにせよ知性的であるにせよ、幸福な人とは「よく生きている人」、「よくやっている人」(同書1098b21)のことだから、このどちらの卓越性もその人の幸福を約束すると考えている。現代の教育理論のように、習得志向が実績志向に優位だとは考えていないようなのだ。
 こうしたアリストテレスの考え方を敷衍して、ハンナ・アーレントは次のように述べている。

この種の行為は 理性によってではなく欲求によって 動かされているが、欲求が求めているのは、自分が理解し、自分のものとすることができるもので、あとで別な目的に利用できる、そういう「何か」ではない。この場合の欲求が求めているのは、自分が所属する共同体の中で優れて見えること、振る舞いの仕方、つまり「作法」なのだ。(Arendt, Hannah. (1981). The life of the mind (1st Harvest/HBJ ed.). New York: Harcourt Brace Jovanovich, p. 60)

ここでいう「何か」は習得志向に対応し、「作法」は実績志向を指している。

このような区分が妥当であり、習得志向の方が実績志向よりも質を伴った学習として評価してしまうのは、教育理論家だけではない。おそらく日本人教員も学習者もそのように考えてしまうだろう。なぜなら論語に次のような言葉があり、日本人の多くは教科書などでこの言葉に触れ、なかば暗記しているからだ。

 子日く、「古(いにしえ)の学者は己れのためにし、今の学者は人のためにす」と。(憲問第十四 357)
昔の学者は自己の内容充実を計るのが学問であった。近頃の学者は人に見せる為の学問をする。

宮崎市定『論語の新研究』

ここでいう学者とはもちろん大学などの教員を指しているのではなく、何かを学ぼうとしている人という意味である。この学びには、外国語を習得しようとする学生はもちろん、木材の組み方を習う大工も入る。学ぶにあたっての目標は、二通りあるというのだ。ひとつは、「己のために」するとは、自分の修養のために学ぶということであり、「人のためにす」とは、自分が他人に認められるために学ぶことである。人よりも自分が優れていることが知られ、他人から評価されるために学ぶことである。前者は習得志向、後者は実績志向に対応している。

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