エンブレム集抄訳
オットー・ファン・フェーン『ホラーティウスにもとづくエンブレム』 (1607年)
Naturam Minerva Perfecit.
人は才能を技芸によって開花させるものだ
歌集 4巻4歌29-40行
強い者は、強い人や筋のよい家から生まれ、
子牛や馬には親の力が
宿り、争いを嫌う鳩が、獰猛な鷹から
生まれることはない。
とはいえ、訓練すれば潜んでいた力が動き出し、
正しく躾けられると、人格は鍛えられる。
育ちの品が悪ければ、欠点が目立ち、生まれの誉れに傷がつく。
詩論 410-11行
[努力と才能は]お互いに
相手の助けが必要で、義兄弟の契りを結んでいる。
自然は、たえずあらゆるものをその最善へと変えようとし、技芸という美徳を無限に引き出すことを勧める。素晴らしい徳にくるまれている高貴な生まれこそが、賞賛に値するのだ。悪徳に包まれているなら、高貴などではない。崇高に値せず、その名を辱める者を、だれが高貴な人とよんだだろうか。
エウリピュデェ-ス『ヘカベー』379-380
はっきりとした不思議な印が人には宿り、
誰であれ、優れた血筋を授かった人、
高貴の生れの種には、それにふさわしい輝きがともなう。
あるいは知らないのか、
『歌集』4巻4歌25-28行
幸運な屋根の下に
生まれ、きちんと育てられた知性と人柄とは
どういうものか。
▶解題◀
『歌集』:ローマ初代皇帝アウグストゥスとその妃は子供に恵まれなかった。しかし妃は先夫との間に子供ドルススをもうけていた。皇帝はドルススを次の皇帝へと考えていた。引用は、ドルススについて言及したもの。血筋もよく高邁な家柄に生まれた子供は、その先天的な才能と資質が優れている。しかしそこに家庭でのしっかりとした躾、教育、そして本人による努力が加わらなれければ、才能はしぼみ、資質も本来のその素晴らしさを発揮できないという。こうした考え方は、欧米ではとくにフランス革命以降、 自然対教育(nature vs. nuture)論争として疑問がていせられ、また現在でも 遺伝子対環境(gene vs. environment)として議論が続いている。
『詩論』:ホラーティウスの書簡集のひとつで、ピソという人物に宛てた書簡のみ、『詩論』とよばれる。そこでは一流の詩人となるために必要な心得が述べられている。引用箇所は、質の高い詩は、詩人の資質 (natura) によるものなのか、それとも後天的な訓練によって身につけた技巧 (ars) によるものなのかという問いに対しての回答。
『ヘカベー』:トロイアは戦争でギリシア方に敗北する。トロイアの女王ヘカベーは、アガメムノーンの奴隷となる。その母に向かって、娘ポリクセネーが、自分は奴隷となって辱めを受けるよりも自殺を選ぶと宣言する。その言葉に、合唱隊が述べた感慨。ギリシア語原典からの訳は次の通り。「貴い生れの印は人の子の間で不可思議な、しるいもの、高貴の生れの輝きは、それにふさわしいお人にはいよいよ大きくなるものでございますなあ」(高津春繁 訳『ギリシア悲劇全集』第3巻: 人文書院, 1960)。
❁図絵❁
画面前景の三人のうち左には兜をかぶり、ゴルゴンのペンダントを首にかけ、槍をもったミネルウァ女神(技芸の象徴)がいる。中央の男性はローマ兵士の姿をして、女神と同じく兜をかぶり、槍をもち、さらに剣ももっている。女神に向かって嘆願するこの兵士に、その手を女神はやさしく支え、嘆願に答えている。そして兵士の右には、乳房をあらわにした<自然>(才能の象徴)がいる。男性が嘆願しているのは、このこの男性の背中を押し、右手で女神を指さして、男性に女神に嘆願するように勧めているからだとわかる。この図絵から、題銘「人は才能を技芸によって開花させるものだ」は、人は生得的な自然 (natura) の才能に促され、さらにそこに訓練を積み重ねることで、技芸 (ars) を身につけ才能を開花させるという意味だとわかる。画面中景には、鷲と蛇とが互いに争っており、また二頭の馬が並んで闊歩している。これはいずれも訓練の必要性を象徴していると考えられる(参照 カメラリウス『象徴とエンブレム (動物編)100』鷲と蛇の格闘)。また中景左の建物(要塞あるいは神殿)の壁の上には2匹の鳩がとまっている。これは「争いを嫌う鳩」(生得的な性格の象徴)をあらわしている。
〖参考〗
《銘題》 読み方は、ナートゥーラム・ミネルウァー・ペルフェーキト。またこの文の時制は、格言的完了形といって、過去においてすでに起こったことは同様な状況においては今も将来も起こりうることをあらわしている。
《生得と訓練のテーマ》クウィンティリアーヌスは、「才能が十分であったなら、訓練するのはまったく余計だった」(『弁論家の教育』第2巻8. 8)と述べている。[1] この指摘が暗示するように、生得の才能がどれほど優れていても、人はそこに必ず不十分さを見いだすので、どんなに才能にあふれた人でも、訓練は必要という提言に落ち着く。そしてこうした提言にたいして、ローマや近代西欧では血筋と才能の相関関係が前提になっていた。ところが、20世紀になると血筋と才能の相関関係は軽視されてきた。[2]この軽視に対して、現在の日本では遺伝子という自然科学の観点から、人が生得的に決定されているという宿命論が跋扈している。橘玲『言ってはいけない:残酷すぎる真実』新潮新書, 2016; 安藤寿康『日本人の9割が知らない遺伝の真実』SB新書, 2016.
[1] Omnino supervacua erat doctrina, si natura sufficeret.
[2] Richard J. Herrnstein and Charles A. Murray, The Bell Curve : Intelligence and Class Structure in American Life (New York ; London: Free Press, 1994).