ミルトン離婚論:『離婚についてのマーティン・ブーサーの判断』(The Judgement of Martin Bucer concerning Divorce)
ブーサーと『キリストの王国』
『離婚の教理と規律』に続く第2離婚論が、この『離婚についてのマーティン・ブーサーの判断』(1644年8月6日)である。正確なタイトルは、「マーティン・ブーサーがエドワード6世に捧げたブーサーの『キリストの王国』のうちの第2巻の現代英語訳。離婚の教理と規律がマーティン・ブーサーという権威によって保証され正当化されている」となっている。
ブーサー(1491-1551)は、ストラスブールの宗教改革者で、ヴィッテンベルク和議では調停役も果たしたが、後に亡命を余儀なくされ、ケンブリッジ大学欽定神学講座教授としてイングランドに迎え入れられ、国教会祈祷書の改訂などに加わった1。
この本は、「現代英語訳」とあるが、たんなる翻訳ではなく、『教理と規律』の主張の正当性を説明するミルトン自身による長文の序文に加え、訳出方針を述べた後書きが付いている。また原著の全訳ではなく、『キリストの王国』(Regnum Christi) 全2巻のうち、第2巻全47章中のほんの一部を訳したにすぎない。さらに英語訳とはいっても、『教理と規律』の主張と合致するようにミルトンが「訳」したものである。
『教理と規律』と『キリストの王国』との一致点
この「翻訳」を通じて、『教理と規律』は、『キリストの王国』と次の5点で一致していると、ミルトンは主張する。
(1) 愛と同意がなくては真の結婚はありえない。
(2) 楽園における結婚(「創世記」2.24)は、夫婦としてのあらゆる義務が愛情をともなってなされることを教えている。
(3) 姦淫以外の理由での離婚の禁止(「マタイ福音書」19.6)は、イエスがファリサイ派を戒めるためのものであった。
(4) 結婚制度は教会ではなく世俗権力の管轄である。 (5) 遺棄された場合、夫あるいは妻は新たな配偶者を見つけて再婚できる。
趣旨不一致という事実
たしかに、こうした一致点がミルトンの著作とブーサーの著作にはあるようなのだが、ブーサーの著作においてこれらの5点が指示しているのは、結婚は秘跡ではないから教会のみの管轄とは必ずしもいえず、離婚の裁定は教会からの指示も仰ぎつつ王権裁判所によってなされるべきだということである (『キリストの王国』II. XLVI. 232)[2]。この著作は、まず人々が真の信仰に目覚めて内心を改革し、その内的改革に支えられて為政者自らが神政政治を行う、国家・教会一体の改造プランである (I. II. 7-8)。結婚論は、その議論のなかに割り込まれて展開されており、離婚もそうした脇筋の一主題として触れられているにすぎない。ブーサーは、たしかに姦淫と遺棄という従来からの離婚事由に加えて「不当な扱いと結婚義務拒否」(mala tractation et negatum conjugalis officii, II. XXII. 166)もあげているが、前者は家庭内暴力にあたり、後者は性交拒絶である。ミルトンが主張するように、ブーサーは扱いや拒否を性格の不一致にまで拡大して結びつけておらず、ましてや性格不一致が正当な離婚事由となりうるとは、明示的に支持していない。にもかかわらずこの訳書がブーサーがそのように主張しているかのように読めるのは、飛躍をも含むミルトンによる強引な訳出のためである[3]。
注
[1] H. J. Selderhuis, Marriage and Divorce in the Thought of Martin Bucer (Kirksville: Thomas Jefferson UP, 1999) 59-115.
[2] 巻・章は次版に従い、そのページ数を明記した。François Wendel, ed., De Regno Christi. Martini Buceri Opera Omnia Series 2 (Paris: Presses Universitaires de France, 1955) .
[3] 拙稿「排除、増幅、虚証:ミルトン離婚論の神聖修辞学」『名古屋大学言語文化論集』36巻2号(2015): 73-76.