◆二元対立の英語感覚◆漠然⇒具体 <03> 直訳の危険

【1】 「私はスズキ・ケンイチです」 I am Kenichi Suzuki.

英語の文には、主語と動詞が必ずあるというのは、私達はみな知っています。そして上の文の主語は I で、 am が動詞だということもわかります。
しかし、英語の大半の文では<主語+動詞>以外にもおおまかに四種類のものがついてまわります。なぜ<主語+動詞>以外にも他のものが必要なのでしょうか。理由は簡単です。
主語+動詞>だけでは

 漠然

としているからなのです。

I am←漠然

I am「私はです」だけでは、私のことを言っているのはわかりますが、私が何だと言いたいのか、曖昧のままです。この曖昧とした漠然が、実は英語ではとても大切なのです。なぜかといえば、<漠然から具体へ>、これが英語のもっとも基本的な流れだからです。

英語基本的な流れ=<漠然から具体へ>

もう一度最初の文に戻ってみましょう。

I am    Kenichi Suzuki.
漠然       具体
あっ、そうか、「私はスズキ・ケンイチです」、スズキ・ケンイチという名前なのですね、とはっきりわかるわけです。

【2】 「私はマツミヤ先生が好きです」 I like Mr. Matsumiya.

これも、前の文と同じく、<漠然から具体へ>という流れになっています。

I like   Mr. Matsumiya.
漠然       具体
「私は好きです」。漠然、曖昧としていますね。でも、具体が加わると、ヤマダ先生でも、マツオカ先生でもなく、私が好きなのは、マツミヤ先生が好きだというように、具体的に焦点が結んできます。

【3】 日本語の言い方は英語の言い方は違う  I like teacher Matsumiya.


日本語では「マツミヤ先生」といいますが、これをそのまま訳して、
I like   teacher Matsumiya.
という言い方は英語ではしません。男性の先生には Mr. 女性の先生には Ms. を苗字の冒頭につけます。それで先生とわかるのかと、私達は不安になりますが、十分と言ってよいくらいわかります。というのは、英米では苗字ではなく名前で相手を呼ぶのが、会社でも家庭でも普通です。これは部下が直属の上司を呼ぶときにもそうです。ですから、姓で呼びかけ、しかもMr. や Ms. が姓の前に付くことはとてもまれなのです。そういうまれの例が、小・中・高の教員を呼ぶときなのです。逆にいえば、名前でなく姓で、それも姓の前についているのは今述べたような学校の先生に限られているので、「先生」の英語訳は Mr. あるいはMs.で十分なのです。ですから正しくは、一つ前の見出しにあるように

I like Mr. Matsumiya.


 私達が中学校や小学校で英語を習うときの一つの衝撃は、英語の文には原則として、<主語+動詞>という決まりきった形があることです。
それにひき続いての驚きは、兄や妹という言葉がないということです。もちろん an older brotherやa younger sisterという言葉はありますが、これらの言葉よりも、ただの a brotherやa sisterで済ませてしまうということです。年齢や上下を兄弟姉妹には考えないという、考え方の違いに驚かされます。
ところがこうした驚きの影に隠れてしまっていることがひとつあります。自然‥不自然です。私達からすれば、決まりきった形や考え方の違いはいずれも不自然なのですが、英米人にとっては自然です。とすると、日本語にとって自然なことでも、英語では不自然なこともあるわけです。さきほどの、

teacher Matsumiya.

などはその例です。日本人が英米の学校に行き、先生を呼ぶときに、Teacher Sundell などということがあるそうですが、これはとてつもなく奇妙に響きます。それと同時に、実は

I am Kenichi Suzuki.

というのも不自然なのです。自己紹介でいきなりこういえば、高慢なやつだと思われるはずです。上の文には、みんな、スズキ・ケンイチの名を聞いたことがあると思うが、俺があのスズキ・ケンイチだという文意があるからです。
 これと似たような高慢さがただよう文は、

I entered the University of Tokyo.

「大学に入学する」を enter で表すととても大げさな感じがします。ケンイチは心臓病の治療のために精神的にショックを赤ん坊の頃から何度も受けています。しかしそれを克服して東京大学に入ったというなら、 enterは使えます。

After overcoming his psychological traumas, Kenichi entered the University of Tokyo.

では、普通の私が、放送大学に入ったという場合には、何と言ったらよいのでしょうか。

I went into Open University to start studying literature.

go into を使います。ただしこれは客観的で気取らない表現で、「ねえねえねえ、なんと合格して入ったんだよ」という誇り(高慢とは違います)が感じられれません。その場合には、

I was admitted to Open University last April to start studying English literature.

このように、「大学に入る」という日本語は、英語では少なくとも三通りあり、しかもどの言葉を選ぶかによって意味が変わってくるのです。だから英語を使うのはとてもコワーイことなのです。


 しかしこのコワさは逆にいえば、長生きの秘訣でもあります。というのも、そもそも日本語で何を自分が言いたいのか、それをいつも考えさせられ、それを英語でなんと言っているのかという発見の連続だからです。外国語を習得しようとしている人が痴呆症になる確率が低いという統計結果が出ています(白井恭弘『外国語学習の科学:第二言語習得論とは何か』[岩波新書])。考え、発見し、好奇心が持続するわけですから、統計学の力を借りずとも、確率が低いことは当たり前です。
 もうひとつ、長生きにつながるのは、自分の気持や思いをあいまいのままにせずに、できるかぎり正確な言葉で表すことは、気持ちや思いから自由になる鍵をつかむことになるからです。グループ・セラピーという言葉を聞いたことがあるのでしょうか。例えば、がん患者さんたちが定期的に小グループで集まり、自分の不安や身の回りで起こっている嫌なことを、グループで話すのです。自分の発言に対するグループの仲間からの反応もさることながら、そもそも自分の不安など感じていることを相手に伝わるきちんとした言葉にすることで、その人自身がその嫌な感じを自分から切り離し、自分の向こう側にあることとして取り扱うことができるようになるのです(詳しい例は、「こころの壁をはずす」モイヤーズ『こころと治癒力』[草思社])。
 コワーイ英語ですが、好奇心をもってぶつかっていきましょう。