サピア=ウォーフ仮説の道程:人間の認識と外界の対象との関係 (1) カント
外界の物事は、客観的に存在してない
カントは人間の認識について論じた『純粋理性批判』の中で、自分の見解は、天文学におけるコペルニクスのそれに匹敵するものだと述べています。いうまでもなくコペルニクスは、聖書の「創世記」の記述などからこれまで長らく信じられてきた地球中心説を否定して、地球が太陽の周りを回っていると主張しました。それは、キリスト教神学が教え、人間の常識も正しいと支持する、太陽が地球の周りを回るという見解とは、180度異なるものでした。カントは、これと同様な180度の転換を、人間が外界の対象を認識するあり方について、この『純粋理性批判』において行ったというのです。
常識的に考えるなら、私たちが外界の物事を認識するとき、たとえば赤いリンゴが皿の上にある場合、まず赤いリンゴという客観的事物があって、人間の認識力は根本的に同一なので、誰であってもその赤いリンゴは赤いリンゴとして認知されるというのが基本になっています。だから健全な日常感覚とは、人間の認識力はカメラのようなもので、主観が割り込むことなく客観的に外界の対象をありのままの姿で写し取れるというものです。
しかし太陽が地球の周りを回るというどう見ても客観的な「事実」は、実は、人間が地面の上に立って観察することから得られた「主観」像であり、全人類が一致して陥っている「仮象」であったわけです。常識感覚からどれほど非常識に見えようとも、「仮象」であることは疑いようのない「事実」です。
同様に、カントは空間・時間は客観的な「事実」というのが、人間の思い込み、「仮象」にすぎず、外界はあるがままの姿で存在しているのではないと喝破します。そして、「我々の認識が対象に従うのではなく、むしろ対象の方が我々の認識にしたがわなければならない」(『純粋理性批判』第二版序文)(篠田英雄訳 岩波文庫, 1962年)XX, XXII [上p.36-37]と断言します。[1]人間は外界を、時間空間という主観的な感性の形式と、量・質・関係・様相を推し量る悟性の形式に従って、積極的に構成しているのであって、客体として実在する自然を写し取るものではないというのです。
時間の流れが絶対普遍でない、空間は人間を包むものとして均質ではないということは、電車に乗って人と待ち合わせ場所に約束時間にぴったりと会えるという日常感覚からすれば馬鹿げているように思われます。しかし、物理学のアインシュタイン相対性理論では時間と空間は、あたかもゴムのように伸び縮みする実体であると教えています。コペルニクス宇宙像は太陽系のイメージ図によって定着しましたが、相対性理論にはそれに対応するイメージ図がなく、またこの理論を継承発展させて「時間は存在しない」(カルロ・ロヴェッリ)とまで主張する現代量子力学もそうした図を提示できません。時空間にまつわる常識が仮象であることを徹底的に覆す理論はあっても、常識感覚を転換するにはいまだにインパクトを欠いています。そのために、外界の物事は客観的に存在していないといっても、いまひとつ説得力がありません。
[1] この点の簡潔な解説は、石川文康『カント入門』(ちくま新書, 1995)、また緻密な解説は中島義道『カントの時間論』(岩波現代文庫, 2001)。
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