◇愛のエンブレム◇ 121

AMARE VOLO, POTIRI NOLO.
Stulte quid assiduo tua membra labore fatigas?
En tibi, quam sequeris, præda supina iacet.
Quàm stultum est in Amore suam consumere vitam,
Et numquam caro pignore velle frui?
僕は恋はしたいが、恋にとらわれるのはご免。
この馬鹿者め、どうしてこうも苦労し続けて体を消耗させるのか。
ほら、見るがいい、お前が追いかけている獲物は仰向けになっているぞ。
アモルへの想いで自分の身を焦がしてばかりいて、愛すれば手に入る肉を
楽しまないとは、なんと馬鹿げていることか。
ただ追いかけるだけ
恋をすると、相手を捕まえに走り続けて、そしてなによりも気に入った
愛しい女を射ちとめることが、うれしい人もいれば、
追いかけるだけ追いかけて、愛しい女を途中で休ませ、
自分のものにしようとはせず、他の女を追いかけてばかりいる人もいる。
❁図絵❁
走りながら逃げる鹿をアモルが追っている。アモルは、いままさに弓を絞り、鹿を射止めようとしている。ところがすでに一匹の鹿がアモルの矢に射られて横たわっている。アモルは新たな鹿を追いかけることに夢中で、その鹿を気にもとめない。
❁参考図❁

フィリプス・ワウウェルマン (Philips Wouwerman)「川の雄鹿狩り」1650年代
猟犬たちによって川の中に追い込まれた鹿を、貴族の男性たちが槍で刺そうとしている。河辺には猟犬を操る下男の他に、画面右隅には馬に乗った男女のカップルがいる。このカップルは、鹿とは別な方向を向いて、互いの会話に熱中しているようだ。
〖典拠:銘題・解説詩〗
典拠不記載:
典拠不記載:
〖注解・比較〗
鹿:「秋萩に うらびれをれば あしひきの 山下とよみ 鹿の鳴くらむ」(古今和歌集 詠み人知らず216)。<大意>「貴女を恋して、美しい秋萩を見ているうちに、その酬いられない恋と相まって、心が寂しくなってしまった。どうして鹿は山の麓が響くように鳴いているのだろうか」。万葉集でも、萩が自分の恋する女性にたとえられ、また萩の花が咲く秋は、鹿が自分の相手を求めて鳴くものと描かれている。「君に恋ひ うらぶれ居れば 敷の野の 秋萩しのぎ さを鹿鳴くも」(万葉集 詠み人知らず 2143)。ただし、万葉集、古今和歌集でこのように激しく燃えるような恋心を歌っている男性でさえ、仮に意中の女性を得たとしても、間をおかずに、また新たな恋を求めるかもしれない。つまり、歌に詠まれるほどの激しい恋心、そして、それゆえの苦悩は、一時的な感情の発露に過ぎず、永続的な「とらわれ」の状態を保証するものではない。そもそもファン・フェーンの示すアモルのように、恋の情熱は求めるけれど、その束縛からは自由でありたい、そういうタイプの男性なのかもしれない。
