◆二元対立の英語感覚◆《確定実実 vs. 話者の気持ち》can 実現の可能性 と is 確定事実
canは、能力を示すほかに、現時点での実現可能性をあらわすという説明があります。能力と実現可能性がどう違うのでしょうか。
ガールフレンドと夏に浜辺に出かけました。しかしパラソルを立てても風で飛ばされそうになるし、落ちていたガラスの破片で脚を切りそうになるし、ロマンチックな気分にはとてもなれません。そこで浜辺の遠出から戻った翌日に、同僚にぼやきます。
I discovered how exhausting going to the beach with a girlfriend can be.
彼女を連れてビーチにいくとどっと疲れることもあるのだとわかった。
これは疲れることになることもあれば、そうでないこともあるということです。つまり楽しくロマンチックな気分に浮かれる実現可能性を話し手は否定していないのです。もしもcan beでなくisとすると、必ず疲れるものだという断定になり、浮かれる可能性が出てきません。
さて浜辺に懲りたので、今度は映画に彼女を誘うことにしました。ところがなんと彼女はホラーものが好きで、気の弱い私にはとても一緒に見る気になれません。そこで今はどの映画を見るかをいわずに、週末に誘って実際に会ってから決めることにします。しかし彼女のホラーを見たい気分を害してはなりません。そこで威力を発揮するのがcanです。
I’ll pick you up on Saturday, and then we can talk about what movie to see?
じゃ、土曜に迎えに行くから、そのとき、どの映画にするか決めよう。
その時になってからあらためて話し合おうというならwe willとなりますが、canを使うことで、その時になってから話し合うことになるかもしれないし、君のホラー好きをよくよく考えてもう土曜日にあった時点ではホラーに決まっているという可能性もあるのです。
このようにcanは実現の可能性にかかわりますが、それだけではありません。まだメタボリックではないのですがお腹の筋肉が出てきていわゆる何段腹 (flat tiers)になってきそうで、
I can’t keep up with youth fashions anymore.
若い人の着るものはもう着られないかも。
これは若者が着ているような派手なデザインや色の水着を着る実現の可能性がなくなっているというのです。
さてアジア系の彼女はフルタイムではたらける事務職につくことができました。きめ細かくていねいに、それもどのような仕事も気持ちよく引き受けるので、会社ではとてもかわいがられます。しかし日本人男性の悪い癖で、そういう気のよい彼女に次から次と仕事を回してしまいます。私は彼女の話を聞くにつれ、
I’m glad to hear you’re enjoying your job.
仕事がうまくいってていいねえ。
といいつつも、次のように付け加えてしまいました。
I know it can be difficult to raise the issue of a pay rise with your supervisors.
上司に昇給の問題を持ち出すのは難しいかもしれないよね。
この場合の can はどういう意味でしょうか。もしもここで
I know it is difficult to raise the issue of a pay rise with your supervisors.
といってしまえば、昇給の話をするのは客観的に難しく、難しいことを断定していることなります。しかしここでcan be difficultとすることで、「現時点での実現可能性」もあるかなという柔らかいメッセージになります。
次にcanで問題になるのが、「上海に行ったら摩天楼がたくさんみられる」とか、「ディスニーランドに行ったらスペース・マウンテンが楽しめる」といったように、
上海に行く→摩天楼が見られる
ディスニーランドに行く→スペース・マウンテンが楽しめる
といったように「見られる」や「楽しめる」の実現可能性については、canは使うとやや傲慢なニュアンスを含んでしまうことです。
☠ You can find a lot of skyscrapers in Shanghai.
☠ You can enjoy Space Mountain in Tokyo Disneyland.
☀ Shanghai is filled with a lot of skyscrapers.
☀ Tokyo Disneyland features enchanting Space Mountain.
のようになります。
これは「見る」、「楽しむ」という行為に、話し手の主観として、君には見たり楽しんだりする実現可能性があるという意見が入ると、あたかも話し手は相手に向かって、どういうことを楽しめ、どういうことが楽しめないのかということを知っていて助言しているという感じになります。
私自身の経験では、最初にアメリカに行った頃には、日本人がアメリカ人には珍しく映る時代で、ウィスコンシンの田舎のビジネスマンがわざわざアメリカ的なレストランに連れて行ってくれました。レストランにはいると、雑然としているにもかかわらず清潔な雰囲気でした。とても珍しかったのですが、その押しの強いアメリカ人がメニューを見て指さしながら
You can enjoy any of these vegetarian foods.
このなかのベジタリアン料理だったらなんでもいいよ。
といったときに、なんだか少しいやな気持ちになりました。これは、俺はこのレストランにこれまで何度も来ていろいろと食べてきたから、味は知っている。お前は初めてだろうから、なにがなんだかわからない。でもなぁ、このメニューの「ベジタリアン料理」に載っている食事は前に試したことがあるから、味はまあまあ、君の口に合うだろうという少しばかりの高慢さが漂う言い方だからです。
グーグルでyou can enjoyやyou can seeを検索してみると160万件以上もありますが、最初の150例を見てみるとそのほとんどが日本人作成のサイトからの引用です。ネイティブ作成のサイトにもyou can enjoyがありますが、それは
With outdoor lighting you can enjoy your garden into the evening hours.
庭灯があれば夜でも庭が楽しめます。
You can see the Milky Way clearly with using this telescope.
この天体望遠鏡を使えば天の川がはっきりみえます
というように明らかに実現の可能性にかんすることです。つまり本来はそういうことができないのだが、なにかの助けを借りることによって、楽しむことができるようになるというような場合に使われます。
see, find, enjoyはそもそも誰にも実現可能性があるわけで、そうなると実現可能性の有無を問題にすること自体が不自然なわけで、なにかの助けを借りるというケース以外では、さきほどのような傲慢ともとれる雰囲気が出てきてしまいます。
