◇愛のエンブレム◇ 93

AMOR, QVI DESINERE POTEST, NVMQVAM
VERVS FVIT.
Senec. Si cruci affigatur, si igni comburatur, semper amat qui verè amans est.
燃えて消えてしまう愛が本物であったためしはない。
セネカ たとえ十字架にかけられようと、たとえ火にくべられようと、本当に愛しているなら、どんな場合でも愛する。
死にも耐える愛
愛する者たちはたとえその恋人から憎まれて、
剣、炎、拷問により致命傷を受け、はたまた死ぬことがあっても
体が息をするかぎり、愛する心は変わらず、
死んでも愛の真実を貫き、愛が揺らぐことなど思いもよらない。
❁図絵❁
両手を台木に縛られたアモルが火刑を受けている。執行者は女性で、火を盛んに燃やそうとフォークで火種をくべている。
❁参考図❁

ヘラルド・ドゥ・ライレッセ (Gerard de Lairesse)「ディアーナとエンデュミオーン」1680年頃
月の女神ディアーナは美貌の羊飼いエンデュミオーンを愛し、彼の不老不死をユッピテル大神に懇願する。神はそれを聞き入れ、若者を永遠の眠りにつかせる。女神はアモルに先導されて夜な夜な若者を訪れ、若者が応えてくれなくとも愛を絶やさない。アモルの燃える松明が、女神の愛を物語っていることはいうまでもない。
〖典拠:銘題・解説詩〗
典拠不記載:実際には「燃えて消えてしまう友愛が本物であったためしがない」(ヒエローニュムス『書簡集』第3書簡6節)。アンティオキアにいた聖ヒエローニュムス✒が、エジプト奥地で宣教活動をしている同志ルフィーヌスに宛てて、ルフィーヌスの元に飛んででも行きたいが、病態であるために行けないという詫びを入れる。そしてお互い友愛で結ばれているのだから、離れていても友愛を大切にしようという。フェーンはここで男性同士の友愛という古典的なパターンを、男女間の愛情にすり替えている。
セネカ:実際には聖アウグスティーヌス[➽12番]『友愛論』2節。「たとえ非難されようと、たとえ火にくべられようと、たとえ十字架にかけられようと、どんなときにも親友であるなら愛している」。この聖人は、弁論家キケロー[➽5番]『友愛論』[➽28番]に触発されて、キリストによって結ばれる友情が真の友情であることを説明する。そしてこの弁論家の著名な友愛の定義「世俗の事柄においても宗教の事柄においても完全に意見が一致し、相互に善意を抱き、愛しあっている」(6節)を引き、またその引用に、聖書の「どのようなときにも、友を愛すれば/苦難のときの兄弟が生まれる。」(「箴言」17章17節)をかぶせて、「どんなときにも親友であるなら愛している」と説く。またその直後に、上述のヒエローニュムスの言葉を引用している。フェーンはここではキリスト者間の友愛における宗教的な重い意味合いを、なかばまじめになかば囃したてながら恋愛関係に移し替えている。ただし『友愛論』はアウグスティーヌスの偽典と現在では考えられている。
〖注解・比較〗
聖ヒエローニュムス:〔347年-419年〕 初期キリスト教のなかでもキリスト教教義形成に重要な役割を果たした教父。そのラテン語訳聖書(Vulgata)は現在に至るまで利用されている。
火:「浅からぬ したの思ひを 知らねばや なほ篝火の 影は騒げる」(『源氏物語』19 薄雲)。「並々でないわたしの愛情を まったく知らないから まだ水面の篝火の光のように あなたの心は ゆれ乱れているのです」(瀬戸内寂聴 訳)。光源氏は、足がしばらく遠のいていた明石の君を訪ねる。そもそも君は、源氏によって明石から連れ出され山里に匿われている身であった。君は山里の寂しさも手伝って遠のく源氏との縁を悲しむ。句は、この悲しみをなだめようとして、源氏が君に対して並々ならぬ愛情を抱いていることを教え、暗に決して心変わりせず、いつでも君を深く愛していると、返歌したもの。
