◇愛のエンブレム◇ 5

Seneca. OPTIMVM AMORIS POCVLVM, VT AMERIS, AMA.
Philostrat. Sume meas, sumam ipse tuas, mea vita, sagittas;
Non aliter noster conciliatur amor.
Cic. Nihil minus hominis esse videtur, quàm non respondere
in amore ijs, à quibus prouocere.
セネカ アモルにとって最良の盃とは、「愛されるために愛せ」。
フィロストラトス わが命の人よ、私の受け矢を取ってください。そうなれば私があなたの矢を受け取れます。
そしてまさしく私たちの愛は結びつくのです。
キケロー 何がもっとも非人間的かというと、愛の誘いを受けながら相手に
愛で答えないことだと私には思える。
望んだ戦い
恋をしているもの同士なら、相手に傷を与えても、喜んで受け入れられる。
二本の愛の矢で、二人が互いに相手の心を射ちあえば、
自分が負わせた傷で相手は治り、痛みもどこえやら。
そんなわけで二人のどちらも、その願いを失わない。
❁図絵❁
二人のアモルが互い向き合いながら、至近距離で相手の胸めがけて矢を打ち合っている。それぞれの胸にはすでに一本の矢が刺さっている。またお互いの矢筒には、筒いっぱいに矢が詰まっている。
❁参考図❁

カラヴァッジョ (Caravaggio)「勝利するアモル神」1602-03年
楽器や楽譜だけでなく、絵筆、月桂冠、鎧を蹴散らしながら飛び跳ねるアモルは、見るからに先が鋭く、あたれば激痛が走る長い矢を何本も握っている。学芸や武功によるこの世での名声などよりも、まず愛すべきは愛することそれ自体であることを教えているかのようである。
〖典拠:銘題・解説詩〗
セネカ:[➽ああ、育みのウェヌスよ] 参照「愛されたいなら、愛せ」(si vis amari, ama)(『道徳書簡』✒「哲学と友愛について」1巻9書簡6節)。友人を失っても平静でいられる心性が必要だと説きながら、ではそもそも友人はどうやって作るのかという説明で、ストア哲学者へカトーの言葉をそのまま引用し、「薬、薬草、そして魔女の呪文も入っていない、恋の媚薬を君にみせてやろう。『愛されたいなら、愛せ』」。セネカは、男同士の友愛について述べているのであって、フェーンのように男女の恋愛を基本的には想定してはいない。
なお銘題の典拠としては、マルティアーリス✒の「愛されんがために愛せ」(ut ameris, ama)(『エピグラム集』✒6巻11歌10行)方が銘題そのものには近い。マルティアーリスの詩では、ギリシアの英雄アガメムノーン[➽91番]の息子オレステースが、宮廷で共に育ったいとこピュラデースとともに、父アガメムノーンを殺害した母クリュタイメーストラーに復讐する逸話が引き合いに出される。そこでマルティアーリスは友人に向かって、同志でありたいなら、言葉だけではだめで、食物や衣服を同じ水準にそろえなくてはいけない、貧乏な俺にはお前と同じ金持ち待遇が必要といい、この銘で決めている。ここでも愛する対象は男の友人であり、そこで想定されているのは友愛であって、恋愛ではない。
フィロストラトス:フェーンは正確な引用をしていない。参照「もう一組のアモルたちは、お互い同士に向かって矢を射ていたが、それは愛が止んでしまわないためだ。」(『絵画論』✒「エロース(アモル)たちについて」1巻6章)。数多くのアモルが描かれている絵画の中で、とりわけ二組四人のアモルのうち、一組はリンゴを互いに投げ合い、他の一組は矢を射あっている。この二組は相手に胸を突き出し、リンゴや矢がわざと当たるようにしている。これは「これは友愛であり、一方が他方に恋い焦がれている」ことをあらわしていると述べている。
キケロー:『ブルートゥス宛書簡集』✒1巻第1書簡。カエサル暗殺(前44年)後の確たる指導者不在の時期に、護民官に任命されたクローディアスが、暗殺計画に加担し、共和制の柱と目されたキケローに好意を示したことを、キケロー自身が友人ブルートゥスに語っている。キケローはブルートゥスにそうであるように、クローディアスの好意には好意をもって返し、この男を信頼するように伝えている。典拠の「愛」は人間関係におけるたんなる好意の意味であるが、フェーンは男女間の愛と読み変えて使っている。
〖注解・比較〗
フィロストラトス:〔2-3世紀〕ローマ時代のギリシア人文筆家。『絵画論』で知られている。『ソフィスト列伝』の哲学者とは別人。
キケロー:〔前106年-前43年〕ローマ共和制末期に活躍した法廷弁論家・政治家・著述家。ルネッサンス期には、政治世界での活躍は学識と知恵の具現と仰がれ、その雄弁な文体はラテン語散文の模範とされた。またルネッサンス文学の領域では、とくに修辞・弁論に関する著作の他に、『義務論」『友情論』がよく読まれた。
『道徳書簡』:晩年の哲学者セネカがシシアの総督であったルーキーリウスに宛てた形式の書簡集(124通)で、「心の平静について」や「摂理について」などを収められている。この世で物質的・肉体的に不幸であっても、精神的に健全な生活を送ることの必要性と魂の不死を主張し、そうしたストア哲学をしっかりと実践するためのさまざまな指針を豊かな人生経験をもとに授けている。その口調といい、話の進め具合といい、老賢者の深い趣にあふれている。
マルティアーリス:〔40年頃-104年頃〕ローマ帝政期の詩人で、人間の愚かさを風刺するだけでなく、恋愛の猥雑さや機微を、機知を織り交ぜながら歌った。
『エピグラム集』:〔86年-102年〕全12巻総計1172歌からなる詩集で、凝縮された数行で皮肉、機知をこめながら、ローマの老若男女、身分の貴賤を問わずありとあらゆる人々の日常生活を歌っている。これらの詩のひとつひとつはエピグラムと呼ばれるが、これはそもそも死者の碑文や奉納物などにしるされる詩のジャンルであったため、簡潔と洗練が詩作にあたり要求された。またこの詩の形式はエレゲイアとよばれ、フェーンのエンブレムに見られるラテン語短詩もこれにのっとっており、フェーン自身がこれら短詩をエピグラムと認知していたことはほぼ間違いない。
『絵画論』:神話を主題した絵画を一枚一枚取り上げ、そこにあらわされているものや行動の説明に留まらず、ものや行為の意味までひとつの叙情物語詩として論じ、絵画と詩の橋渡しとなっている。その冒頭の言葉、「絵画を軽んじる者は真理に対して不義を働いている。また、詩人に授けられている叡智にたいしても、不義を働いている」は有名。
『ブルートゥス宛書簡』:キケローの書簡は900通以上もあり、それらは、『アッティクス宛書簡集』、『弟クイントゥス書簡集』、そしてこの『縁者・友人宛書簡集』と三種類に分類されている。友人宛のなかでもとりわけ多いのがデキムス・ブルートゥス宛書簡。このブルートゥスは、元老院を軽視し政治の実権を独占していたカエサル(シーザー)を暗殺した共和主義者マルクス・ブルートゥスとは別人だが、暗殺計画には加担している。エラスムス[➽13番]の書簡集に代表されるように、ルネッサンスの伝統では書簡は自分と相手との間に交わされる私秘文書ではなく、公にされることが前提になっていた。硬派な主題を扱う著作では語れない、自分自身の日常の姿や心の機微を公に知らしめる文学媒体として意識されていた。
愛でこたえない:「なべて世の あはればかりを 問ふからに 誓ひしことと 神やいさめむ」(『源氏物語』朝顔)。「ただ一通りの 世間並みの お付き合いをするだけでも 一度神に仕えた身には 誓いにそむくものと お咎めをこうむるでしょう」(瀬戸内寂聴訳)。朝顔は、桐壺帝の弟の娘で、光源氏とはいとこ同士。最初の出会いから、15年もの長きに渡り、何度か光源氏から関係を迫られるが、そのたびに、その誘いを振り切っている。引用は、朝顔が、斎院(帝の祖先である神に仕える身として、恋愛などの穢れを避けて、帝の繁栄を祈る女性)として10年の務めを終えた後、源氏からの誘いを拒んだときの歌。
